カラオケ来た!




校門を出た途端に北風が首元を吹き抜けて、三井は肩を竦めた。
今日はコートを着てくるのを忘れた。昼間は春が来たかのように暖かくて、着る必要がなかった。
そのまま家を出たら、湘北に着く頃にはもう気温が急降下して、おまけに風まで強く吹いてきた。それでも練習中には感じることのなかった寒さが、汗をかいて外に出ると急激に体温を奪い去って歯の根が合わない。
海から吹き付ける風は冷たく、短く刈った襟足を撫でて、背筋を震わせていく。隣で自転車を押して歩く後輩は、マフラーに顔半分を埋めていて暖かそうだった。
「おまえ、それ貸せよ」
「どれ」
「マフラー」
「いやだ」
「ち。ケーチ! うーさぶっ」
わざとのように身を竦ませると、冷たい北風が学ランの中にまで沁み込んでくるようだった。隣の少し高い位置にある顔が、ちらっと三井に向けられて、また前を向く。
「…どっか寄ってく?」
「どっかって」
「この間行ったラーメン屋とか」
「ラーメン屋かぁ…」
古い店の、軋む引き戸を開けた途端に身を包む、調理場からの暖気と湿気と匂いを思い浮かべて、それも悪くないなぁと考える。
だが、今日出がけに、いや、今月に入った時から、三井の頭の中を占めて動かない考えがあった。他でもない、隣を歩く無愛想の憎たらしい無口な後輩。
自分は次の春には高校を卒業するが、この男は高校の間になんとアメリカに行くらしい。三井からすれば荒唐無稽な話にしか聞こえないが、流川ならやるのかもしれない。いや、絶対にやる。
男同士ということがなくても、このまま突き進めばいばらの道が見えていて、お互いのことを考えればこのままなかった事にした方がいい、ということはわかっている。わかっているけれども、こうして並んで歩いていてさえ、走り出したいような楽しさと、胸を掴まれるような痛みが、三井の中で堪えようもなく跳ねまわって仕方がない。
こいつも、「じゃあハンバーガー」とか珍しく自分から代替案を口にしながら、この時間をなんとか伸ばそうとしているのが感じられて、それが甘く三井の口元を緩ませる。だがハンバーガーには三井の食指は動かなかった。
「もうちっといいモン食いてぇなぁ」
小遣いには限りがあるし、学ランの男二人が入れる店だって限られている。
それが今月に入ってからの三井の頭を悩ませる事案だ。駅前に並んだ店を頭に思い描いて、一つひっかかる店舗があった。
「あ、カラオケ?…なんてやんねぇよな、おまえ」
流川の、眉間に僅かに寄せられた眉が雄弁だった。それでも「あんたがやりたいなら」と、健気にも不遜にも取れる譲歩の姿勢をみせてくる。
「俺だけ歌うんじゃよ。つまんねーし」
「俺は食いもんあればいい。あんたが歌うの聞いてる」
「ラーメンなんてねぇぞ。や、あった?かな…どうだろ」
「ラーメンじゃなくていい」
流川と二人、カラオケ屋。歌も歌わないで、狭い部屋に二人だけ。
考えて、三井は「よし」と腹を決めた。


受付で指示された部屋番号のドアを開けると、小さい部屋の中に置かれたソファとローテーブルが目に入った。横にテレビ画面と受付に直通の壁掛けの電話。反対側の壁には狭さを視覚的に誤魔化す横に長い鏡が貼り付けられている。
そこに写った自分と流川の横顔を見て、今年の春までは見慣れていた風景の中に立つ自分に違和感を感じつつ、どうしてか照れ臭さで三井は立ち止まった。
「…なぁ、やっぱ」
入口に突っ立って背後を振り返ろうとすると、その流川は止まらずに当たった肩で背中を押されて、背後でドアが閉められた。狭い部屋の中でもさらにさっさと座れとでもいうように押されて、「離せよ!」と腕で流川の脇腹を小突いて、仕方なく奥のソファに腰掛けた。
テーブルの上のメニューを手に取って流川の膝の上に投げ出す。
「好きなもん取れよ。今日は俺のおごり。そこの電話取って注文な。あ、鳥カラ頼んで」
「っす」
目の前の端末の操作パネルに手を伸ばす気も起きなくて、三井はメニューを広げた流川を見た。やっぱりこんな部屋で長い手足を折りたたんで大きな体を縮めている後輩は違和感でしかない。視線に気が付いて、流川が顔を上げた。
「な、なんだよ」
「飲み物は?」
「ああ、飲み放題。俺取ってきてやるから、注文しとけ。何飲む?」
「茶ーみたいなやつ」
「みたいやつね。ホラ、どけ」
立ち上がって、ドアに近い側に座っていた、ローテーブルに届いて塞ぐ流川の膝の上を、片足を上げて跨いだ。よろけそうになって、咄嗟に流川の頭に手を突く。掌に流川の熱がじんわり伝わって、なんとなく髪の毛をかき回して手を離した。
プラスチックのグラスをウーロン茶のドリンクディスペンサーに置いてボタンを押しながら、三井は溜息をついた。
「どーすんだ」
自分の飲み物にコーラを選んで、また同じようにグラスを置き、「どーすんの?」ともう一度一人呟く。
傍から見れば、部の後輩とカラオケ。そこまで変わった光景ではない、と思うが、背後の受付のカウンター脇に置かれたクリスマスツリーのチカチカ光る電飾が目に入る。それからは目を逸らし、グラスを二つ掴んで小部屋に戻った。
「頼んだかー?」
「っす」
「鳥カラも?」
「っす」
「っす」
真似て、三井はまた流川の膝の上に片足を上げた。詰めとけよ、と思いつつ、跨いでソファの隣に腰を降ろす。流川が自分の手を髪の毛にやり、ワサワサとかき混ぜるような動きをした。それを目の端に捉えて、三井は唇を尖らす。
「入れた?」
「何を?」
流川にきょとんとした顔をされて、三井は眉を顰めた。
「何をって曲」
「俺歌わねーし」
「ホントに歌わねーの?!」
まあそうなんだろうなあとは思いつつ、声が上がる。歌わないやつの隣で歌うというのも正直根性がいる。
「なんか歌えるだろ。歌えよ」
「いやだ」
「いやだっておまえ」
「腹空いた」
片手を腹の上に置いて、流川は目を閉じた。その整った横顔を三井は眺める。
「ならなんで来たんだよ」
「センパイとメシ食にきた」
「カラオケじゃなくたって」
「センパイがカラオケって言った」
それはそうなんだけど。目を閉じていることをいいことに流川の顔を眺め続ける。
睫毛が長いなあ。鼻が高い。口が小さい。色が白い。触りたい。
手を伸ばした時、ドアがノックされた。
「失礼しまーす」
遠慮なくドアが開かれて、食べ物が満載されたトレーを持った店員が狭い室内に入ってくる。あっという間に狭いローテーブルの上は食べ物の皿でいっぱいになって、三井は声をあげた。
「おまえ…こんな食うの?」
「食う」
「あっそ」
三井は財布の中の金を勘定して息を吐きだした。目の前に鳥からの皿を押し出されて、一つつまんで口の中に放り込み、テーブルの上に置けなくてソファに置いていた操作パネルを手に取った。半ばやけのように、目についた歌ったことのある曲をいれ続けた。続けて3曲意地になって歌い終わり、テーブルの上に目をやると、隙間なく並べられていた皿が空になって雑に重ねられている。自分の前の鳥の唐揚げまできれいになくなっていた。
「あ、おまえ! 俺の! 鳥カラ!」
「センパイの声って高い」
「へ…?」
「はじめて聞いた。センパイの歌声」
「…あ? あー…。歌はな。よく言われんだ。って俺の! 鳥カラ!」
「また注文していいっすか?」
「いいけど…」
続けて歌って喉が渇いた。テーブルの上のグラスはとうに空になっていて、三井は舌打ちしてグラスを掴んで立ち上がった。
「俺、これと同じやつ」
「おまえな!」
「頼んでおくんで」
「テメーでやれ」
自分のグラスだけを掴んで立ち上がり、流川の膝をまた跨ぐと、流川の腕が伸びてきて腕を掴まれた。バランスを崩して流川の上に倒れ込む。片膝がソファの上に乗って、目の前に流川の顔が大きくなった。
「センパイ」
さっきは横から盗み見ていた切れ長の目が、正面から自分を見ている。三井はさらに顔を寄せ、軽く唇を流川の上に落とした。小さな口にチュッとリップ音をさせて離れようとすると、頭の後ろに流川の手が回った。熱を持った大きな手。力を入れて引き寄せられる。
もっと冷たい手をしてると思ってたな。
そんなことを考えながら、三井は抗わずに流川にキスをした。ただ触れるだけのキスを歌と同じ3回繰り返して、三井は開いている手で流川の肩に手をかけて立ち上がった。
「茶ーみたいなヤツね。次はおまえ行けよ」
流川のグラスをテーブルから取り上げると、三井はドアを開き、思いついて振り返った。
「ソファ。奥につめとけよ」
受付横のドリンクディスペンサーに行くと、またツリーの電飾がキラキラと目につく。グラスをカゴに置いて、三井は店の外に足を向けた。


部屋に戻ると、流川は変わらずソファの手前に座っていた。
「おまえ…。鳥カラは? 頼んだ?」
「っす」
「よしよし。オラ、ソファ奥行け」
「俺が今度飲み物取ってくるし」
流川を睨みつけたが、流川は知らないフリを決め込んで動こうとしない。
三井はテーブルに流川のウーロン茶を置き、自分のコーラを片手に流川の膝を跨ごうと片足を上げた。腕がまた伸びてきて、今度は腰を取られる。
「コーラこぼすぞ」
「いいよ、こぼして」
三井は後ろでにテーブルに自分のグラスを置き、流川の膝の上に座って向き直った。自分からは動かずにじっと目の前の顔を見ていると、その口が開いた。
「…付き合うとかわかんねーけど」
「うん?」
「バスケだけじゃなくて。センパイの歌聞いて、一緒にメシ食うとか。またしたい」
「…歌聞いてメシ食うだけか?」
「キスも」
「…うん」
至近距離から、目を逸らさずに真っすぐに見上げて、言葉少なく強請ってくる後輩がかわいい。
顔を近づけて額をつける。じんわりとまた体温が伝わってきて、三井は目を閉じた。唇に流川のそれが触れる気配がする。探すように軽く触れて、少し乾燥した唇が押し付けられる。
ただそれだけ。それだけなのに心臓がいたい。三井がまた流川の肩に手を置いて立ち上がろうとすると、後輩の手が背中から離れない。
「鳥カラ。頼んだんだろ。店員来るぞ」
そう言うと、唇を尖らせて流川は三井から手を離した。ソファの隣に並んで座って、ポケットに突っ込んでいた隣のコンビニで調達したものを出して、テーブルの上に置いた。隣に置かれたプラスチックのグラスよりも小さなクリスマスツリー。光らないけれど、気分は出るだろう。
「…あ。今日って」
今頃気づいたか。いや、気付いただけでもマシか。三井は笑って、「やっぱりか」と流川を小突く。
「失礼しまーす」
とドアが開いて、入ってきた店員が鶏の唐揚げが乗った皿をテーブルに置こうとして、先客のツリーに気がついて手が止まった。その隣にそっと皿が置かれて、またドアが閉まる。そのドアを睨みつけながら、三井は口を開いた。
「俺さー、こういうの好きなの」
「ツリー?」
「だけじゃなくて。イベント的な? だからさー、おまえどこにいても電話ぐらいかけてこいよ? …誕生日とかさ」
「…うん。じゃあ来週も会う」
「来週?」
「俺、誕生日」
「そっか、正月!」
笑うと、流川が手のひらをソファの座面について、上体を寄せてきた。その上に手を置くと、暖かさがまたじんわりと伝わってくる。
握ると目の前に近寄ったきて顔が苦しそうに笑った。その顔を見て三井も胸が苦しくなる。額を押し付けながら、「…なんだよ」と問うと、「センパイが好き」と瞬きしない目が三井を射た。
どことなく鶏の唐揚げを感じる息を受けながら目を閉じて、「知ってる」と三井は返して、不器用な男の唇を待った。




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