徒な春の行方





 鍵を開けて中へ入ると家の中は静まり返っていて何の気配もないように感じられた。留守ってことはねぇよな、と新幹線に乗った時刻から今の時間を頭の隅で計算しながら三井は靴を脱ぎ、暗い廊下に足を踏み入れた。
 家の中の空気にそれでも流川の匂いをかぎ分けられて、数か月ぶりのそれに頭ではなく体の細胞が沸き立つようだった。
 肩にかけていた荷物をクローゼットを開けてその床に置き、部屋着を手にして浴室へ通り抜けた。まず風呂。それしか頭に浮かばない。
 髪と体をさっさと洗い終えて大きな浴槽のなかで体を伸ばすと、正面の鏡の中の自分の顔に目がいった。流川がこんなに細かいところまで決めたわけではないだろうことを三井もわかってはいたが不満は残る。隣の洗い場から繫がる一枚の横に長い大きな鏡で浴室が広くは見えるが、気が抜けていることが多い入浴中では不意に目に入るそれは知らない人間の顔に見えて慣れなかった。
 疲れた顔だな、と自分で思う。いつまでも変わらないと人に言われる機会は多いが着実に年は重ねている。無理をすればしただけの険しさが顔に残っていて、三井は目を瞑り湯の中から両手で湯を掬い上げて顔を覆った。湯が水面を叩く音とドアが開く音が重なって反応が遅れた。
「だから勝手に開けんなって」
 浴室を覗いていた流川は三井と目が合うと、何も言わずに大人しく顔を引っ込めてドアを閉めた。
「…入ってくんなよ?」
 脱衣所の様子が静かになって三井は息をついた。
「…今舌打ちしたろ」
「3か月振りだ」
「そうだな」
「おかえりなさい」
「…うん」
「明日帰るって言ってた」
「うん」
 そのつもりだった。納会の後はいつも長引く。今季が終われば選手もコーチ陣もスタッフも全く同じ顔触れが揃うことは二度とない。それがわかっているからどうしても最後に顔を合わせれば話しは長くなるし、三井もできる限り付き合う。が、今日は三軒目に入って最初のグラスを開けたときに、今発てば最終に間に合うということに気づいてしまった。
 地名すら知らなかったチームの所在地に愛着も湧き、所属リーグの昇格を目指して日々努力しやりがいを感じていながら、日程が終わればすぐにでも飛んで帰りたくなる心情はやっぱりこいつに起因するのだろうか、とうっすらとドア越しに長身のシルエットをまだ浮かばせたままの同居人について考える。家へ足を踏み入れた時、いやドアを開けたときにすでに感じ取った匂いは、確かに心身を沸き立たせると同時に、実家にももう感じることのない安心感を抱かせられた。そのデカい癪に障るほど長い手足を持った体はそこにあって、自分が許しさえすればすぐにでもここに入ってきて好きなだけ触れることができる。
 三井は頭まで浴槽に浸かった。今回は自分に課したことがあった。まだ残る酔いの勢いを借りるのは本意ではないが、決心してから行動に移すまでの自分は完全に素面でそこには自信があった。
「寿さん?」
 限界まで呼吸より熱さに耐えて湯から頭を上げると、ドアを薄く開いた流川が浴室を覗き込んでいた。
「開けんなっつったろ」
「溺れたかと」
「いい子にして待ってろよ。…すぐ行くから」
 少し含みを持たせて言えばドアは現金なほどにすぐに閉じられた。三井は鏡の中のだらしなくふやけたような自分の顔を睨みつけてから勢いよく湯から上がった。



 空のベッドを目にして三井は迷った。少し時間がかかったから寝てはいるかもしれない、と予測していたが、いないとは思わなかった。
 どうすっかなーと考えた後にじわじわと子供っぽい怒りが湧いてきて、このまま知らんふりして寝てやろうかと思う。いや、喉が渇いたかトイレかもしれない。と考えて直してみて、とりあえずベッドには入っていようかと近寄ると、懐かしい匂いが濃くなり、三井は拳を一つ流川の枕に落として、片手に握っていたものをベッド脇の引き出しに放り込んで踵を返し居間に向かった。
 流川はソファに座っていて、三井が入っていくとすぐに顔を向けた。ポンポンと隣を叩き、ここへ来いということか?、と三井が近づくと流川は三井の手を取って隣に座らせた。
「…なんだよ」
「お疲れサマでした」
 言うと流川は三井の背後から両腕を巻き付け、自分の胸に引き寄せた。風呂で十分暖まっていたはずの背中に、流川の温かさがじわじわと伝わってくる。自分の中を支配しかけていたもやもやとした形のない苛立ちはすっと立ち消えて、三井は大人しく後ろに倒れて流川に体を預け、目を閉じた。目元の近くに流川の唇が来て、触れるだけのキスをこめかみに感じてそのまま懐かれるように頭を寄せられた。
「しねーの」
「後で。しなくてもいいし」
 同じ業界にいればいろいろと耳に入ることもあるだろう。気を遣われていると思うと収まったはずの苛立ちがまたむくりと頭を擡げるのがわかったが、背中の暖かさがそれを邪魔して腹の中にまた溶けるように消えていった。
 このマンションに帰ってくれば挨拶より先に体を合わせていた。それはそれで手っ取り早く体も心も納得して静まるがこんな夜も悪くはない。三井は寄せられていた流川の頭に自分から頭を預けた。
「寿さん?」
 自分の名前を呼ぶ流川の声が耳に心地いい。弛緩した体も暖まると長距離の移動の疲れが今更に体にきたようだった。
 勢いで帰ってきて抽斗にしまったものが頭を掠めたが、明日でも問題ないか、と疲れた体に素直に従って意識を手放そうと努力していると「起きて」と、くっつけていた頭を頬で揺さぶられた。
「なんだよ」
「いい匂い」
「風呂に入ったからな」
「やっぱりしよう」
 腰の辺りに押し付けられる熱さに顔が思わず緩んだ。だが口は逆に尖って頭ではもう忘れかけていた恨み言を唱える。
「なんだよ…ならあっちで待ってりゃよかったのに」
「うん、そしたら話しができないって思った」
「話しって」
 自分の留任は決まった。が、ギリギリのところで昇格レースに残れなかった資金繰りにも厳しいチームは大幅な再編の計画が動き出していて、それがこの男の耳にも届いているのだろう。ポツポツと出回り始めた公示リストが脳内に点滅したが今したい話しではなく、惚ければ「ないならいい」と、流川は抱えていた三井の体の向きを変えて、背からソファに沈めていった。後を追うようにすぐにその上に体を倒してきて、首元に顔が埋められる。
 仕事のことはもう自分の中で踏ん切りがついた、とはいえ、流川は心配し慣れない気を回しているのはわかって、それよりも自分の中で比重を占めていることを考えるとよっぽど自分の方が流川が中心に生活が回っているようだった。
 先刻の疲れた顔が脳裏を掠めて変わらず求められることに安堵する自分がいて、そんな自分が情けなく感じられもして、三井は余計な雑念を振り払うように首に埋められていた流川の顔を両腕で挟んで顔の前に持ち上げた。キスを強請られたのだと得心した流川の唇がすぐに降りてきて、三井は目を閉じた。啄むだけのキスを重ねて、「あ」と声を上げる。
「…ナニ」
 吐息交じりの苛立ちを含んだ低い声が下腹にきて、三井は言いかけたことを口に上らせることに躊躇いを覚えたが、このままにしておくと明日の朝に後悔をすることはわかっていたので、降りてこようとする流川の胸に手を当てて留めた。
「…ゴムとかあっちだろ」
「取ってくる」
 予備動作なしにソファから飛び降りた流川の背中があっという間に寝室に消えた。三井は自分の片手を額に当ててしばらく暗い天井を睨みつけて待ったが、ある事を思い出して腹に力を入れて起き上がり、その後を追った。
 ベッド脇のテーブルの上に屈んで引き出しをひっかき回していた流川が気配に気づいて顔を向けるのと、自分が声を上げて止めるより先に体が動いて流川に当ってベッドに転がるのとほぼ一緒だった。ベッドの反対側に落ちそうになる体を背中と腰に回った力強い両腕が止めた。危ねえ、と頭の片隅に浮かんだが、それよりも先に誤魔化すように流川の唇に食らいついた。相応の勢いで応えてくる唇は何かに気が付いたようでもない。
「…準備してあるからよ」
 キスを解いた顔を下に向けてぼそっと吐きだすと、「うん」と流川が目を撓ませて笑んだ。



 上に乗りあがってきた流川の裸の胸を手のひらで押し返すと、苛立ったように眉が寄った。渡米するまでは固いばかりだった胸筋に薄っすら柔らかい肉がついていて手に吸い付き、寸時離すのが惜しく感じられて寄せられた眉根を茶化すように親指で乳首をひっかくと、流川が驚いたように目を瞬かせた。
「久しぶりだからよ。キツいんだわ」
 言葉とは裏腹にその顔を煽るように横目で流し見ながら、三井は腰を捻りうつ伏せてから手と膝を立てた。思った通りに腰を容赦なく大きな両手で掴まれて引き寄せられ、三井はついていた手が肘から挫けて枕に顔を突っ伏した。
「っ…! おまえ、乱暴っ…!」
 引き寄せておいて、自分の言葉を思い出したのか早急に体を進めてこない。ふっと息を短く吐きだす様子はボールを持たせた時、いきなりペースを変えてドライブで切り込んでくる瞬間を思い出させて手が勝手にシーツを掴んだ。腰を掴んだままの両手を滑らせて、尻を大きく握られて仕込んだローションが漏れ出て腿に伝い、今度は三井は眉を寄せた。間を取られて三井が首を後ろに捻ると唇を薄く開いた流川がいて、言葉の代わりに腰を緩く揺らせば熱いペニスが入口に押し付けられる。それが癖なのか、淵を二度三度滑らせた後に目を合わせたままの流川がゆっくりと入ってきた。
 こいつが入ってくる時の顔は好きだ。いつでも一番初めに体を重ねた暑かった夏の終わりを思い出す。今思えばまだ幼いような顔で、見ていると怒ったような顔でがむしゃらに突っ込んできた。目を離せば離したで乱暴に顎を掴まれて目を合わせられる。なんでそんなに拘んだ、と考えながらただ激しく動く天井を見つめ、流川に引き戻されて整った顔から落ちる汗を舐めて痛みを堪え、繋がれことに言葉に出せない感動を覚えていた。
 ポツッと口元に汗が落ちて舌で無意識にそれを舐めとった。
 いつの間にか仰向けに寝かされて、深く受け入れた態勢で流川の顔が正面に合って覗き込まれていた。その背後に見える天井が揺らいで、まだ生まれてもいないだろう鈴虫の音が聴こえたような気がした。
 なんだ、何も俺たち変わってないじゃん。
 随分遠くまで来たようで、いろいろ積み重ねてきたようで、それは真実だったけれども、繫がれて安心する自分も、好き勝手しながら泣きだすような目で自分を見てくる流川も同じだった。
 じんわりと重く痺れるような快感が下腹からせり上がってきて、逃れるように上へと体を伸ばすと予測していたような手に両肩を掴まれた。息が上がって、自分のものと思えない声が耐え切れずに漏れ始める。腰が抑えようもなく男の動きに合わせて跳ねるように動く。
 灼き切れそうな脳の中で自分の名を呼ぶ流川の声が聞こえた。目を合わせた瞬間に動きを止めた体が落ちてきて、全身でそれを受け止めた時に自分も達した。髪に顔を埋めて、力のない体に両腕を回した。まだ中にいるペニスごと俺のものだと全身を締めあげると、首に顔を埋めていた流川が呻いて首筋に噛みついてきた。



 念願のヘッドコーチとしての職を地方のクラブチームに見つけ、流川にはそれを契約前に話した。同じBリーグに所属している選手に話すことは規定違反に当たるのだろうが、誰にも話せないが同居している家族であると考えれば許される範囲だろうという自分の判断だった。流川ももう大分安定しているように見えた。ましてや一年と区切った院の終了を控えて、流川も三井の去就をそれとなく感じ取っていたのか、思ったほどの反対はされなかった。が、地名を明かすと眉間に縦皺が入った。
「遠い」
「新幹線の停車駅だし。本州だし。日帰りだって楽勝の範囲だ」  用意していた説得の言葉を並べて、それでもまだ険しい顔を崩さない流川にズルイ言い方だとは思いつつ奥の手を出した。
「ゴメンな。近場は俺じゃまだ難しかったわ」
 予想した通り見る間に流川の眉間の皺が消えた。そこへ留めと一言付け足す。
「休みはなるべく帰ってくるからさ」
 帰ってくる、と聞いた流川は地名を聞いて乗り出した体をソファの背に預けた。b1b2とリーグは分かれても試合日程はほぼ似たようなものである以上、自分がここに帰ってきたところで流川がいない、ということも十分あり得ることで、そこを流川もわからないわけではないだろうがこの一言は効いたようだった。
「帰ってくる」
 鸚鵡返しに呟かれた言葉に頷いて、「ここは俺の家なんだろ?」と口に自然に出た言葉に三井は自分で驚いた。説得も流川に向けたものであるようでいて、自分に言い聞かせたものではなかったのか、と。
 ああ、と納得がいった。一緒にいたいと、帰る場所を自覚したときに。結婚を意識するときはこんな時なんだろうな。
 自分の顔を見ていた流川の表情が崩れた。
「うん、待ってるから」
 何度も聞いたセリフではあったものの、言葉に込めた意味合いは二人の中で通じ合ったと三井は感じとれた。頭の中に流川から渡米する前にもらった指輪が浮かんだ。今は抽斗の奥にしまい込まれているそれに代わって、今度は自分が送ろうと思いついた。



 休みの日、熟睡している流川は目覚ましでは起きない。三井の声でも目を覚まさない。物理的に攻撃を仕掛けないとまず覚醒しない。それでも三井は三分間はその顔を見つめ、鼻の上に手をやり寝息を確かめ、確認に確認を重ねた。
 よし。
 気合いを入れて、寝ている男の左の手を取った。
 記憶にあるよりまた大きくごつくなっているような気がする。 
 力の入っていないその手を広げてまじまじと見つめ、目的をしばし脇に置いて意味なく自分の手のひらと合わせてみた。第一関節分とまではいかないが、身長差分の割合は確実に大きくて、軽々とバスケットボールを鷲掴む頼もしい手のひらが素直に羨ましく好ましかった。その手のひらが動き、指が自分の頬に触れた。
「…おはよ…」
 低く掠れた声が枕の方から聞こえる。見ればまだ眠たげな目が半分開いて自分を見ていた。
 三井は失敗を悟り、それでいてもうリラックスしている自分を自覚しながら、先刻ベッド脇の抽斗からジーンズの尻ポケットに入れたものを、指を突っ込んで取り出し流川の左薬指に嵌めた。
「……?」
 流川は自分の左手を顔の持ち上げた。その様子を三井はじっと見つめた。
 流川の目が完全に開かれた。開かれて自分の指に嵌められた指輪を見つめ、「…お」と声を上げた。
「お」?
 緊張どころかもう笑いを堪えて三井がさらに観察していると、驚く程に素早く上体を起き上げて、流川は背を屈めて自分の左手を右手で掴んでその指を食い入るように見ていた。
「気に入ったかよ」
「これ…」
 三井はニシャっと笑って自分の左の手のひらを突き出した。
「おまえにもらったやつもあるんだけどよ。やっぱりお揃で俺も買っちった」
 流川は目の前に突き出された三井の手のひら、薬指を見て、何も言わずにまたベッドの上、自分の足の上の左手に視線を移した。その様子に三井は少し不安になる。
「なんだよ。気に入らなかったら、」
「先、越された」
 ボソッと呟かれた言葉に安心しつつも、負けず嫌いのこいつのことだからそんなことで臍を曲げたか?と三井は眉を寄せた。
「別に先も何も。大体最初に指輪なんて寄越したのおまえだし、しかも高校出たばっかの時で、」
 最後まで言えずに三井はベッドの上に引き倒された。上には流川の大きな体が自分の両腕を押さえて覆いかぶさっている。
「なんだよ」
 何も言わずに流川の体は三井の上に倒れ込んだ。その重みに三井の顔が緩む。はずされた手を持ち上げて、頭を撫でているとますます懐くように大きな体で甘えてくる。
「幸せにする」
「バーカ」
 もう十分に幸せだ。
 まだ恥ずかしくて言葉にはできなかったけれど、想いをこめて大きな体を両腕で抱き込んだ。
「じゃあ旅行行くか」
「旅行?」
「ハネムーンってヤツ?」
 冗談めかして言ったが、言葉にするとさすがに三井も照れた。
「行く」
「まー海外はムリだけど。おまえももう珍しいもんでもないだろうし」
「温泉とか」
「おまえが? どうした、ジジくせーな」
「あんたが行きたいって言ってた」
「あー…」
 そういえば言っていたような気がする。
 どうせなら露天風呂がついた部屋でも押さえてパーッとやるか、と考えると気分が浮き立った。
「よしっ!行くか、温泉!美味いもん食おう!」
 流川は何も言わない。ただよくよく見れば口角がいつもより上がっていて喜んでいるのがわかる。
 三井は自分の左手の薬指を親指で撫でた。自分の口角が上がるのもわかった。
 法的効力もないこんなものはただの気休めなのかもしれない。
 それでも。
 流川の手が自分の左手を取って、薬指に口づけた。
 男前になったよな。
 長い前髪が垂れてきて、その下の真っすぐな形の綺麗な眉が露わになる。この男が自分のものなのか、という実感がふいに湧いて、触れたくて右手を伸ばすとそちらも掴まれた。その掴まれた手を滑らせて逆に捕まえ、薬指に同じように口づけた。途端に流川の顔が歪む。
 三井は微笑み、首の後ろに腕を回して顔を引き寄せ、そっと口づけた。




end



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