メロメロメロンソーダ
風呂から上がるとすぐに電子音が鳴り始めて、三井は髪の毛を拭く手を止めた。タイミングよくかかってきた電話の表示を見れば元教え子からで、頭からかけたタオルを椅子に向かって放り投げ、モバイルの画面をスワイプさせた。
「よぉ、調子はどうだ?」
「よくない」
まずは季節の挨拶とかそんな固いことは言わないが、これはない。仮に本当に調子が悪かったのだとしても。
だが先週会ったばかりで風邪をひきかけていた様子もないし、その時は順調だ、という報告を受けていたばかりだ。
三井はスマホを持った手とは逆の指で、自分の下唇を引っ張り言葉を選んだ。
この間は昼食を一緒に取りたいというから迂闊に頷いて、ファストフード店で手早く食事を摂った後に、「勉強ばっかりで運動不足だから」という一言に絆されて、いつものコートでまたバスケをして、この時期にきて貴重な二時間を潰したばかりだ。
ここは突き放すべきではないのか。が、マイペースを絵に描いたような我が道を往く流川だとて初めての受験だった。少しぐらいナーバスになる時だってあるのかもしれない。
「どうした?」
結局突き放す言葉も出せずに月並みな問いを返すと、一呼吸間が置かれて、「どうしてもわからないところがある」、と低く作ったような声がボソボソと呟いた。
ウソだな。
三井は唇を引っ張っていた指を離した。
付き合いも長くなってくるとなんとなく相手のクセのようなものもわかってくる。
流川はウソが下手だ。日頃ウソをつく必要がないから、そのスキルが磨かれていないのだと三井は推察している。だが無下にそれと断罪するのを躊躇う程度には、三井はもう流川がかわいい、と思ってしまっている。それを甘く自覚しながら三井は息を吐いた。
「家庭教師いるだろ?」
「うん」
「そいつに聞け」
「聞いた。けどわからない」
こうなったら流川は動かない。あのしつこいディフェンスはこいつの性格そのままだ。自分の望む通りの成り行きに持っていけるまで、この一言で押してくるだろう。「わからない」。
三井は自分のスケジュールを頭の中に広げて、ため息をつき、口を開いた。
「明日またこの間のファストフードでいいか?」
「わかった」
わかったじゃねぇ。
それでも不愛想なような短い応えの中に滲む嬉しさを感じとれてしまって、三井は頬を緩めて通話を切った。
ポテトの袋の中にシーズニングの粉を入れて紙袋を手首を使って振り回していると、流川がそれを止めて受け取り、袋を雑に破いて言った。
「15になった」
ポテトが15本に増えたのか?と方向違いのことを考えて、どうみてもそれ以上の本数がある散らばったフライドポテトを三井は凝視した。
「…え?」
「15歳になった」
「へ?」
わかってはいたことだけれども。
三井は抱えそうになった頭をガラス越しの店の外へ向けた。こちらに顔を向けていた歩道を歩く二人連れの女子高校生達と目が合って、彼女達には自分たちがどんな連れに映っているんだろう、と遠く思う。
「そっか、そりゃおめでとう。言ってくれりゃープレゼントぐらい用意したのに」
「今日奢ってもらった」
「こんなんおまえ…。ってか誕生日いつ?まさか今日?」
「一日」
「正月かよ!」
三井は束の間感じた憂鬱を忘れて声を上げて笑った。目の前の流川は自分の誕生日をネタに笑われることは慣れているのか、特に怒ったような素振りは見せずに、笑う自分をポテトに手を伸ばしながらただ見つめている。
「欲しいもんとかねぇの?」
「欲しいもの…」
「あんまり高いのはダメだけどよ。まーちょっとぐらいなら」
「あるけど…」
「なに?」
「それはもうもらうって決めてる」
三井は齧ったバーガーを最後まで噛み切ることが出来ずに噎せて、目の前の飲み物に手を伸ばした。
甘い。なんでこんなもん頼んだんだっけ。
そう思った後に炭酸の刺激がきて、三井はそのまま飲み続けた。流川はその様子を目を逸らさずにじっと見てくる。
「美味いの、それ?」
「んーなんでかたまに飲みたくなるよな」
列に並んでカウンター上のメニューを見上げた時に、昔飲んだことをなんとなく思い出して決めていた。流川と会って夏を思い出してラムネを連想したからかもしれない。緑の色と甘い炭酸。長い睫毛と一重の、目を離せなくなるほどに切れ上がった双眼。流川の白い肌に青が染みとおっていきそうな、濃い藍色の浴衣。その浴衣の下で抑えきれなかった自分を思い出して、三井はまた狼狽えた。
「色すごい」
「飲んでみるか?」
誤魔化すように大きな紙コップを乱暴に突き出すと、無言で頷いて流川はストローに口をつけた。なんとなく目を逸らしてまた窓の外を見ると、先刻の女子高校生達が口を手で覆い流川の方を指さしていた。少しばかりつまらなくなって三井は女子高生達に向かって、片手でしっしっと犬でも追い払うような仕草をしてみせた。途端、むっとした表情になった女の子達から目を離すと、「ナニ見てんの」とぶすったくれた表情の流川が紙コップを返してきた。
「メロンの味しない」
「あー色だけだな」
三井が返された紙コップのストローを咥えると、今度は流川が窓に顔を向けた。
「で、何がわかんないんだよ」
促すと、流川は訝し気な顔をしてから、ようやく気付いたように椅子の背にかけてあったデイパックに腕を伸ばした。
冬休みには何かとイベントが多いらしい。それは受験一色に染まっているはずの中学3年生でも同じことで、誰とどう過ごしたのだと絡まれて面倒になって、大学生の恋人になる予定の人がいる、と言うと周りは一斉に歓声を上げて、男子は好奇心と称賛の、女子は諦めと羨望の籠った視線を流川に向けてきた。
「マジかよ。スゲー!」
「年上って大学生って女子大生かよ!」
「さすが流川」
「どこで知り合ったんだよ!?」
「家庭教師」
ウォー!!と男子生徒の叫び声が教室内に響き渡る。日頃流川を遠巻きに話をしない生徒まで目を輝かせて寄ってきた。
「でも予定ってなんだよ」
「湘北合格したら恋人」
「なんだ、まだ付き合ってないんだ」
盛り上がった人垣からパラパラと数人生徒が離れる。が、それでも余程ヒマなのかまだ食いついてくる男子がいる。
「じゃあクリスマスもその人とデートかよ」
「会わなかった」
途端にまた、えーっ!と叫び声が上がる。
「クリスマスっていやー…なぁ」
「なぁ」
意味深なような表情で言葉を濁して顔を見合わせるクラスメート達に、これ以上付き合う必要を感じられず、流川は鞄を担ぎ上げて背を向けた。
流川にとってのクリスマスとは家族揃って普段より少しいい食事をして、ケーキを食べて両親からプレゼントをもらう。幼い頃からの家庭内イベントで、そういえば世間も少し騒がしいぐらいにしか感じていなかった。驚かれることこそ心外だった。好きな人間と一緒に過ごすことが当たり前というクラスメートの中の常識も今知った。
「遊ばれたんじゃね?」
背を追いかけてくる言葉はやっかみ半分僻み半分。親しくもないクラスメートのそんな言葉に動揺はしなかったが、流川の頭に浮かんだのは、まだ三井が家庭教師としてついたばかりの時によくかかってきた電話だった。
ああ見えてあの人はモテるのかもしれない。自分にあることはあの人にだってあるのかもしれない。
「そんなんおまえ大学でバスケに決まってんだろ」
多少呆れ気味の顔から思った通りの答えが返ってきて、流川はやっぱり、と心の内で納得してどこか安堵した。
「そんなことでまた呼び出したのかよ」
きゅっと険しく眉を寄せる人の前には、この間と同じ濃いみどり色の飲料水が置かれていた。やっぱり好きなんじゃないか、と思う自分の前にも、今日は同じ炭酸飲料が置かれている。前に三井と会った日に飲んで気に入ったわけではなかった。三井が注文するのを聞いて、「俺も」と口に出ていた。
「ちがう」
「じゃー今日はどーしたんだよ」
「受かった。湘北」
目の前の人の動きが止まった。ただでさえ大きな二重の目がこれでもかと見開かれている。
「まじか!!」
「マジ。さっき合格通知見た」
「おまっ!だからそういうことは早く言えよ!」
三井はいきなり立ち上がり、おろおろしてまた座り、テーブルの上に投げ出されていた流川の手を両手で取った。
「そうかぁ!やったな!おめでとう!」
「…うん」
三井の手に取られた両手は上下に激しくぶんぶん振られて、それから不意に離れていった。その熱を追いかけていって摑まえると、ぎょっとしたような顔が流川に向けられた。
「恋人?」
「…あ?」
「これで俺たち恋人?」
「あー…」
「あんた受かったらって言った」
「その時の状況でっつったろ」
「今はどんな状況?」
「…とりあえず手を離せ」
言われた通りに手を離すと、三井はまた自分から顔を背けて窓の外を見た。この間、三井は高校生の女の子達を見ていた。やっぱりそういうのがいいのか?と思うとなんでか腹の上あたりが痛くなるようだった。
今日は女の子達はいない。犬を連れた老人がいて、他に三井の気を引くようなものは見当たらないのに、横を向いた三井の耳は赤かった。
「…いいぜ」
「なにが?」
「だから…!…その…?恋人?ってやつ?」
三井はこっちを向かない。赤い耳はどんどん真っ赤になっていく。それを不思議な気持ちで見ていた自分の頬も、なんでか熱くなってきたようだった。
流川は目の前の炭酸飲料の入った大きな紙コップを手に取った。冷たいものが口の中に入れば、急に上がった熱が下がっていくかもしれない。甘さは今日は気にならない。
とりあえず三井がまた自分に顔を向けてくれるまで、と決めて、流川はメロンソーダを吸い続けた。
end