青嵐
嘘つき。
家に来た知らない大学生の顔を見て流川は口の中で呟いた。
「ウソツキ」
もう一度今度は声に出して言うと、靴を脱いでいた大学生が顔を上げた。
「何か言った?」
返事はせずにそれへくるりと背を向けて2階への階段を駆け上がると、母親の「ご挨拶ぐらいしなさい」と叱る声が追いかけてきた。
自分の部屋に入り、ボールだけ持ってまたすぐに出ようとしてベッドの上に置かれたままになっていた雑誌に気付いた。
三井が持ってきて、そのままに置いていったもの。ここに怠惰に寝っ転がって読んでいた姿が目に浮かんだ。
「どうして」
ボールを落として雑誌を手に取った。階下から大学生と母親が挨拶し合っていようなる話し声が聞こえてきた。
新学期が始まり家庭教師の曜日の前にきた日曜日に公園に行くと、いつもは聞こえるボールの音が聞こえてこなかった。
休んでいるのかと思い、コートに向かうとそこにいたのは知らない小学生の集団だった。もう解散するようで荷物をまとめて賑やかに動き出していた。
三井は先に来てどこかでコートが空くのを待っているのかもしれない。そう考えて小学生達と入れ替わりにコートに入った。
そのまま一時間ほど一人練習を続けたが三井が姿を現すことはなかった。
その時は調子でも悪いのかと思った。もしくは9月からは再開すると言っていた大学の用事があるのかもしれないと思った。
流川は雑誌を本棚にしまい、机から椅子を引き出して座った。
「え? それは個人情報だしな。断りもなく教えられないよ。」
放課後の湘北高校の体育館に押しかけて三井の連絡先を強請ると、木暮は困ったように眼鏡の奥の目を泳がせた。
久しぶりに接する体育館独特の匂いや、ボールの弾む音、擦過音、懐かしくて今すぐにでもボールに触りたくなったが、今はそれよりも何よりも重要な用事があった。
三井にモバイルを持っていないのか聞かれたことがあった。どうして自分はその時に三井の連絡先を聞かなかったのか後悔しても遅い。
「でも三井先輩がいきなり家庭教師辞めたって驚いたな。上手くいってると思ってたのにな」
「俺もわからねー」
流川が視線を落とすと木暮がため息をついた。
「…おまえの方から連絡取りたいなんて珍しいな」
「雑誌とか…借りっぱなしだし」
体育館へ上がる階段に放りっぱなしにしてあった鞄とそこからはみ出していた雑誌が目について、流川はその雑誌の名前を口に出した。
「ああ、そりゃ困るね。俺が預かろうか?」
「自分で渡す」
ここは譲れないと流川が口を尖らせると、木暮が笑って息をついた。
「連絡先は本人に聞かないとだけど。…三井先輩、月に一度部活に顔出してくれるんだ。今度の火曜の夕方に来るって言ってたかな?」
「…! あざーっす!」
頭を下げると、「おう」と木暮が返事をしてまた頭の上から小さな笑い声が聞こえた。
焦れ焦れと火曜日を待って鞄に雑誌を突っ込み、放課後に湘北高校まで自転車で乗り付けた。
校門からすっかり覚えた体育館までの小道を辿り、遠くからも漏れた灯りで見える開かれたままの扉から懐かしい背中を見つけた。
すぐにわかる茶色がかった短髪。小さな頭。細い腰。真っ直ぐな背筋。
「センセー!!」
思わず叫ぶと驚いたようにその背中が揺れた。
振り向いた顔と視線が合ったと思うと、三井は慌てたように土間に飛び降りてスニーカーを履き、流川の辿る道を外れて暮れ始めた校庭へ飛び出していった。
その行動の意味がわからず流川はしばし茫然と足を止めたが、次の瞬間にはそれへ向けて猛ダッシュをかけていた。
走る速度を全く緩めない三井に舌打ちが漏れる。が、校庭を半周もしないうちに距離が縮まり、もう少しで裏門に三井の手が届くというところで流川がその腕を捕まえた。
「な…なん…で…追っかけ…るん…だ…って」
「なんで逃げんだよ!!」
三井が荒い息を逃すように捕まえられたままの手を膝につき弱々しく言うのに大声で被せた。
「お…まえが…追っかけて…くるからだ…ろ!」
「違う! あんたが逃げるからだ! バスケにも来ねー! ベンキョーも教えに来ねー! なんで逃げんだよ!!」
流川が声を張り上げたところで通用口から顔を出してきた人間がいた。
「こらっ! そこ! 何を騒いでる!」
「あーーー…やべぇ…行くぞ!」
三井は流川の手を振り払って裏門に取りついた。
見る間に乗り越えてまた駆け出す。その後ろを同じように門を乗り越えて流川は追った。後ろから教職員らしき人間の大声が追ってくる。が、走ってまでは追跡する気がないらしく、それでも三井は足を止めなかった。
暮れかけた薄昏い、輪郭のぼやけた静かな住宅街を二人で駆け抜けていく。
すぐにでも追いつけそうな背中を見ながら流川はそうはせずにただ追いかけた。
涼しくはなってきた空気だったが走り続けていると汗が体を伝っていくのを感じた。
目の前の年上の男は真っ直ぐに駆けていく。自分が追っていることは足音でわかるだろうに、もうバテてフラフラなくせに、自分だってキスを返してきたくせに、繋いだ手を払わなかったくせに振り向きもしないで駆け続けていく。
小さな公園に辿り着くとようやく三井は足を止めて、ベンチの背に手を掛けて息を整えていたが、やがて崩れるように座り込んだ。
「…くそ…!」
毒づいた後にまだ顔を上げられないでいる三井を流川は立って見下ろした。
「…おれ…なんか…やった?」
さすがに流川の息も上がっていた。
三井は顔を上げてまた「くそっ!」と言った。背もたれに寄りかかって目を閉じて首を空に晒している。汗がじんわりと浮いて流れていた。
「…おまえ…のせい…じゃねぇ…よ!」
「じゃあ…なんで…!」
わけがわからなかった。
夏休みが終わるまで全て上手くいっていると思っていた。
学校でバスケはできないけれど、週に一度三井が付き合ってくれる。
三井がベンキョー教えてくれて湘北高校が合格圏内に近づいてきた。
抱きしめた三井がキスを返してきてくれた。
三井が。
そして三井が逃げた。
「…俺、大学生…だし」
「知って…る」
何を今更と思う。
「…お…まえの…部屋に…二人で…とか…やっぱ…」
立っているのが流川もキツくなってきて、三井の隣に腰を下ろした。
三井は空気を求めるように上げていた顔を、今度は苛ついたように膝についた両腕で支えて俯いた。
「…ヤベェ」
「…それっ…て…センセー…」
好きなヤツとか。恋愛とか。興味がなかった自分にだってわかる。
「センセーも…おれのこと…が、好きだから…でしょ」
「バッ…!」
勢いよく向き直った三井の顔は真っ赤だった。
バカみたいに走り続けて汗をかいたからだけじゃない。
そんな事だってわかるようになった。
この人のせいで。
「…くそっ! そうだ…よっ! 中坊に…惚れたよ! 手ぇ…出さねぇ…自信がないんだよ!」
三井の怒鳴り声を聞いて流川の心拍が上がった。
目の前の人を好きだと思った。
触れたいと思って追いかけた。
そこまでは自分の気持ちに従っただけ、本能のままに行動したようなものだった。
相手の、三井の気持ちがどうであるか考えたことはなかった。
付き合っている人間がいないのであれば自分のものにする。ただそれだけを考えていた。
その三井が自分に惚れた、と言う。
放たれた言葉の意味がすとんと胸に落ちてきた時に、流川は顔が急に熱くなるのを感じた。
走ったからなどではない、自分の大きな心臓の音とともに顔に血が上るのを感じた。
「…え、おまえ…」
目の前の三井が大きな目をさらに見開いて吃驚している。
「なに…赤くなってんの」
「センセーだって赤い」
「俺はいんだよ!」
滅茶苦茶だ、と思う。
この人はメチャクチャだ。
流川は腕を伸ばして目の前の年上の人を抱きしめた。途端にやっぱりめちゃくちゃに暴れてくる。
「汗…! かいてんだよ! くそあちー! 離せっ!」
「汗の匂いも。あんたの全部好きだ」
「バッ! 何言って…離せって…!」
「もう一回言って」
汗で滑る腕を着ているTシャツの上から力を込めて抱きしめ直した。
少しだけ三井の力が緩んだところで、自分の心臓を跳ねさせた言葉をもう一度聞きたいと強請った。
「な、なにを…」
「好きって」
「好きなんて言ってねぇ!」
「惚れたって」
「…!」
バカ正直に黙る人がかわいい。
少し顔を離して覗きこむと口を尖らせた顔がそっぽを向いた。
もう聞けないか、と思った時、「おまえが好きだ」と三井の小さな声がした。
流川はおとなしくなった体を抱きしめて、またうるさく鼓動を打ち始めた自分の心臓の音を聞いていた。
終