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青嵐




 既に日が落ちていたにも関わらず、身にまといつくような湿度のある暑さはまだ衰えておらず、三井はTシャツの胸元を軽く掴んで扇いだ。涼しい風が入ってくるわけもなく、かいた汗の上をさらにまた新しい汗が胸元に流れ落ちていくのを不快な思いで感じとる。
 砂利を踏む足音がして顔を上げると、家族連れとその後ろに浴衣姿の男が歩いてきた。三井は顔を下げスマホを取り出して時刻を確認した。
 もう一度流川の家に電話をかけようとして、近づいてきた男に声をかけられた。
「センセー」
 再度顔を上げた三井は目の前の男の顔を見た。流川の顔で流川の声。
「楓?!」
「遅れてゴメン。センセーのもあるから連れてこいって」
「え? はっ?」
 言うなり浴衣姿の流川に腕を掴まれてズルズルと引きずられて、三井は踏ん張ってなんとか止まった。
「何がなんだって?」
「母さんが。今年ばあちゃんから送られてきた浴衣、センセー着てって」
「いや、いいよ。いいって!」
 また引きずられそうになって三井は声を上げた。
 ああ、それで浴衣。
 見慣れない姿の流川は違う人間に見えて、上から下まで眺めた。というか。
「おまえ、またデカくなった…?」
 恐る恐る近づいて目線の高さを確認する。
 初めて会ったときには確かに自分よりも下であったはずの流川の目の位置が、今では認めたくはないが少し上にきている。ような気がする。一昨日会ったばかりでそんなことはないとわかっているのに。
「測ってねーけど。たぶん」
「あ! 下駄履いてるだろ!」
 と足元に目を落としたが、流川は玄関で見かけた覚えのあるビーチサンダルをつっかけていて、どちらかというと今三井の履いているスニーカーの方が高さがありそうだった。
 流川の着ている浴衣の丈は大分短くて、それが上半身は大人に見違えたほどにも関わらず相応に子供っぽく見えて、三井は少し安心した。
「おまえがばあちゃんに送ってもらったやつ着てくりゃよかったのに」
 伸び盛りの孫のために送ったんだろうに、と思う。
「脛晒してばあちゃんガッカリしてるぞ」
 流川を置いて先に歩きだしながら言うと、後ろからついてきた流川が「センセーに」とボソリと口を開いた。
「あ? なんだって?」
「あんたに似合うと思った。…色? が濃くて?」
 何かを説明しようとして戸惑っている様子がぎこちなくて、三井は笑った。着物の柄か色合いでも表現しようとしたのか、流川の頭の上に疑問符が浮いて見える。
「バーカ。似合わねぇこと言ってんじゃねーよ」
 藍なら色の白い流川の方が似合うだろう。そんなことを思いついたが、頭の中で掻き消すとまた腕を掴まれた。
「やっぱり戻ろう」
「離せって、いいよ!」
 もう聞かない顔の流川は、三井が踏ん張ろうが掴まれた手を振ろうが足を止めなかった。祭りへ流れる人は少ないとは言えない。無駄に注目を集めているような気がして、最後は三井も諦めて並んで流川の家までの道を辿った。
 神社から出ると人の流れは少しづつ消えて、歩いて10分ほども経つと流川の家までの薄暗い舗道を歩く足音は二人のものだけになった。祭囃子の音色が遠くに後ろに聞こえて虫の音が耳についた。
 三井の手首は流川に掴まれたままだった。熱いし、逃がさないように力を籠めているようでちょっと痛い。
「楓、手ぇ痛い。逃げねぇから」
 そう言うと籠められていた力は抜けたが、それでも流川の手が離れることはなかった。
 他に誰の目があるわけでもないか。そんな言い訳を頭の中に浮かべて、三井はもう黙って流川に手を引かれるままに歩いた。
 家に着くと部屋の中は暗かった。二人で顔を見合わせて、先に入った流川がリビングの明かりを点けると、テーブルの上に置かれた畳まれた浴衣と走り書かれた広告の裏紙があった。
「『友達に誘われたので母さんもお祭り行きます。三井さんによろしく』って…」
 どことなくマイペースな流川の母を思い出して、三井は読み上げた紙をまたテーブルに置いた。
「…俺、浴衣なんて着れねぇよ?」
「適当に巻けばだいじょうぶ」
「巻けばっておまえ」
「はい」と差し出された浴衣は確かに濃い藍の色で、持った流川の手の白さが際立った。仕方なく受け取って広げると、かなり丈が長く感じられた。
「これ…」
 自分に当てると少しだけ足の甲に裾があたった。
「やっぱり着れねぇよ。おまえサイズじゃん。おまえ着ろ」
 流川の祖母は流川の身長を確認して仕上げたのだろう。潔く身長の負けは認めて流川に突き出すと、「じゃあ」と言って、流川は着ている浴衣の帯に手をかけた。見る間に帯を解いて浴衣を脱ぎ、下着姿になった流川はそれを三井に突き出してくる。
「ん? 畳めってか?」
「センセー着て」
「…は…?」
 突き出されて思わず受け取って、三井は眉を寄せた。
 今の今まで流川が着ていた浴衣は微妙に温かい。神社への行きかえりで汗だって掻いたんじゃないのか、と思う。
「…俺はやっぱり浴衣はいいよ」
 言うと、新しい浴衣を肩にかけていた流川の切れ長の目がさらにつり上がった。無言で三井のTシャツの裾を掴み、上へ引っ張り上げてきた。
「ちょっ! やめっ!!」
 逃げようとして背後のソファに膝の裏が当たり、そこを押されて流川ごとソファの上にひっくり返った。
 流川が肩に掛けていた浴衣が後から覆いかぶさるように落ちて、視界が藍色に染まる。
 パリパリと糊のきいた新しい浴衣の匂いと、それを薄っすら覆う流川の肌と汗の匂いが頭いっぱいに広がって、三井は動きを止めた。
「クソ重い。どけ」
 低い声を出して肩に手をかけて押し退けようとしたが、その体はビクともしなかった。
「おい…!」
 吐息が鼻を掠めたと思うと唇を塞がれていた。
 三井の中の何かも弾け飛んで、肩を押していた手が流川の首の後ろを掴んで自分に押し付けていた。
 夢中で押し付けてくる唇を首でずらして開いた隙間から舌を唇に滑らせる。驚いたように開いた唇を食んで吸うと、流川の熱い舌が三井の口唇を割った。
 玄関の鍵が回される音が湿った音が響く中で耳を打った。
 咄嗟に三井は片腕で逆手に流川の肩を押し上げた。不意を突かれた体は簡単に回転してソファから転がり落ちていき、ゴンとフローリングに重たい音をたてた。
「忘れ物しちゃった~。うふふ、母さんサザエさんみたいねぇ。お財布お財布」
 三井が腹筋だけを使ってソファに起き上がった時に、ドアが開いて流川の母が顔を見せた。
「あらら。なに浴衣に絡まってんの、楓ってば。あ、三井さんいらっしゃい」
「お…邪魔してます…」
 間一髪。三井が赤い顔を隠すように頭を下げると、浴衣を被った流川がもぞもぞと床から起き上がった。
「あら、あなたが新しいの着るの? それ三井さんにって」
「いえ、俺にはちょっと大きいみたいで」
「あら! ごめんなさい。気づかなくて。じゃあコレ…」
 親子で似ているのか、流川が着ていた白地の浴衣を無頓着に取り上げる。が、三井が口を挟む前に流川の母は眉を下げた。
「あ、ごめんなさい。楓の着てたのなんてイヤよね。もうなんだかちょっと汗で湿ってるし」
「ホントお気遣いなく」
「わざわざお呼びしてごめんなさいね~」
 流川の母親はキッチンに出しっぱなしにしてあったらしい財布を手に取ると、「電気消してってね~」とまたそそくさと外に出て行った。三井はまだ浴衣を頭から被ったままの流川に目をやった。
「ほら、着ろ。さっさと」
 ため息をつきながら言うと、流川は大きい体をのろのろと引き上げて浴衣の袖に腕を通した。


 一通り夜店をひやかして流川の指し示すたこ焼きやら焼きそばやらで適当に腹を膨らませていると、「流川くん!」と高い声がかかった。
 見れば流川と同年代と思しき女子のグループが流川を取り囲んでいた。同級生かと察して、「境内で休んでっから」と声をかけて、流川の返事を待たずに三井は背を返した。
 離れたところで適当な岩を見つけて腰を下ろすと、女の子達に取り囲まれた流川が遠く正面に目に入った。
 モテるという噂は真実だったようで、なかなか解放してもらえないで苦戦している流川に苦笑が漏れる。
 なんであの中から選ばないんだろうな。
 どの子も流川の肩より小さくて、文字通り色とりどりだった。華やかな色の浴衣もいれば、短い丈のワンピースもいる。
 手に持っていたラムネ瓶を模ったペットボトルを呷り、膝についた手に顎を乗せる。見ていると業を煮やした様子で流川が強引に女の子達の輪を突破し始めた。
 あれを突き破れるとは大したヤツだ、とまたラムネを呷る。
 久しぶりに飲むそれは昔ガラス瓶から飲んだ時に覚えていた記憶よりも甘かった。
「先に行くな!」
 顔を上げると引っ張られたのか浴衣の襟の乱れた流川が目の前にいた。怒ったような顔を下からしばし眺めて三井はゆっくりと立ち上がった。
 両手を伸ばして襟を正してやる。流川の肩の向こうにこちらを見つめている女の子達が目に入った。襟を直した手を頬に滑らせてペチペチと叩くと流川が驚いたように目を瞬かせた。
「おまえ、浴衣一人で着れんの、すげぇな」
 先に立って歩きながら声をかけると、流川が小走りで隣に並んだ。
「毎年ばあちゃん家に行くとき持ってって着るから。母親に手伝われんのヤだから覚えた」
「えれぇな」
 言いながら手に持っていたラムネを渡す。
「これ甘い」
 拒否するのかと思ったその手はラムネを受け取り、流川は一息にそれを飲み干した。
「子供扱いしないで」
「…してねぇよ」
 ガラス瓶の中のビー玉は結局どうしたんだったかなーと三井は考えた。
 そんなものはいくらでも転がっているのに、瓶の中に入ったビー玉がどうしても欲しくて瓶を割ろうとして親に怒られた。
 時が経てば忘れてしまえたビー玉は自分が子供だったからだろうか。今は大人になれたのだろうか。
「してない。なあ、楓」
「なに」
「とりあえずケジメ、つけようぜ」
「ケジメ?」
 怪訝そうな顔に三井は顔を真面目に作って頷いた。
「俺はおまえを湘北に合格させるために先生やってる」
「そう」
「おまえが合格するまで。先生と生徒な」
「合格したらコイビト?」
「そりゃおまえ、そん時になってみねぇとわかんねーだろ」
「おれは変わらねー」
「…うん」
「あんたも変わらないで」
 真っ直ぐな年下が見られなくなって三井は顔をふせた。
 気づくと祭囃子の音も途絶えて、吊るされていた提灯の灯りが寂しげに映った。


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