青嵐





 目が覚めて三井は暗闇の中、視線の先の見知らぬ天井を見てしばらく体を硬直させた。
 時間の感覚が狂っていて、さっきまで昼間だと感じていたのが、部屋の中もレースのカーテンだけが引かれた窓の外ももう真っ暗だった。
 外から差し込む心許ない光が見たことのない知らない壁紙をぼんやり浮き上がらせていて、自分の頭は見覚えのない枕に乗っていた。
 この匂い、知らない?
 いや、知ってる。壁紙にだって見覚えはある。
 彼女の顔を思い出して、いや、あいつとは別れたんだった、と思い返す。首の裏に暖かい何かを感じた。いや、背中全体が暖かい。ってか暑い。
 次の瞬間、三井は飛び起きた。
 振り返ると知らない誰か、ではなく、流川がそこに寝ていた。ホッとして、いやいや、とすぐに思い直す。
 だってこいつは。
 だが三井と壁の間の狭い隙間に縮こめたTシャツの肩が見えてまたホッとする。自分だってちゃんと着ている、とまで確認して、何考えてんだ俺、と三井は頭を抱えた。
 相手は中坊、しかも男。
 この前ちょっとかわいらしくキスされて告られただけでなに意識してんだ。そんな簡単にナニか起こるわけがない。
 ベッドサイドに置かれている小さな棚の上の目覚まし時計を見ると、針は既に終電が出てから一時間経過していることを指していて三井はさらに頭を抱えた。
 多少落ち着いてきて、今日はナニしてたっけか、と寝ぼけて回らない頭を働かせる。
 炎天下バスケをやって一度帰ろうとしたら気分が悪くなって、流川の家に寄って風呂までつかわせてもらって出てくると夕食が既に用意されていて、そのまま授業やって、…ここから記憶が途切れた。
 そうか、寝ちまったのか。
 溜息をつくと小さな寝息が聞こえてきて、すぐ隣にそっと目をやる。
 流川のベッドは普通のシングルサイズだった。自分は平均よりデカいし、流川も自分ほどではなくてももう180はある。
 それがエアコンが効いている中とはいえ、真夏によくこんな狭い場所で寝られたと感心する。
 流川は壁際に縮まりながらも熟睡しているようだった。
 暗闇の中、白い横顔がぼんやりと見える。目を閉じている顔まで彫刻のように整ってはいたが、半開きになった唇や視線の鋭さがない分年相応に幼く見える。
 こいつが俺をねぇ。
 一体俺のどこに惚れたんだか、と不思議に思う。
 平均以上に体は大きいし、顔だって女のようなところはない。むしろこいつの方がきれい、と形容されるのにふさわしい風貌をしている。
 だが慕われて悪くない気がするのも確かだった。男に告白されて気持ちが悪いといった感情は全くなかったし、恋愛に興味を示さないというこいつが自分にだけ真っすぐに向ける感情は自尊心をくすぐられるし、その一途さに正直グッとくる。
 だからといって気持ちに応えられるか、というとそれはまた別問題だった。
 聞けば友達は少ないというし、恋愛の経験がなかった中学生が、初めて気が合うと思われる年上を前に気が迷ったのかもしれない。
 ちょっと勘違いしたんじゃねぇの、おまえ。
 そう小さく呟いて、眠る流川の長い前髪をなんとなしにかき上げて白い額を出した。
 きれいな横顔が見えて、自分が口に出した言葉になぜか胸の奥が痛くなって、手を離せなくてそのまま額から頬へ滑らせた。
「んん…」と眠る流川から声がもれて、三井は慌てて手を離して立ち上がった。
 何してんだ、と自分に突っ込んで、手洗いを借りようとドアへ行こうとして、何かに躓いた。そのままバランスを崩して転んで、だが思ったような痛みがこなくて手に触れたものに触ると、床に敷かれていた布団だった。
「なんだよ、敷いてあるじゃん」
 なのになんでこいつはベッドに寝てやがる。
 八つ当たり気味に思ったが、そもそもベッドは流川のもので、自分が不覚にも寝落ちてしまったのだ、と考え直した。
 手洗いに行き、戻って敷いてあった布団に横になる。明日もバスケする約束してたんだよなぁと、早く体力戻してやらねぇとな、と寝に落ちる間際に考えた。




 何かに顔を撫でられている。くすぐったくて、さっき寝たばかり感も強くて寝返りをうって避けようとしても、どうしてか体が動かなかった。
 それは段々キツくなって、ペチッと音がして頬に僅かな痛みを感じた。三井は頬にかかる鬱陶しさを払おうと手を上げるとその手を取られて床に縫い付けられた。
「起きねーとキスする」
「わかった起きる」
 瞬時に目が覚めた。おそるおそる目を開くと真上に恐ろしいほど整った顔があって、それがチッと舌打ちして三井の手を離した。
「ほら、どけ」
 体に馬乗りになっていた流川の肩を押すと、ノロノロと体の上からどいた。
「バスケ、」
「わーってるって」
 言いかけたのを遮るように手を振ると、流川がむう、と顔を顰めて黙った。
 なんだか寝たような気がしない。慣れていない他人の家で起きたから当たり前なのかもしれない。コキコキと肩を回し、首を回ししていると、また流川が声をかけてきた。
「大丈夫?」
「んー大丈夫」
「バスケ、今日は止めといてもいい」
 ちょっと驚いて三井は流川の顔を見た。気遣いができるのか?と意外に思って、「バーカ、大丈夫だよ」と返して頭の上に手のひらを乗せる。
「でもあんた、昨日も気分悪くなったし」
「あーちょっと水分補給が足りてなかったのかな。今日は気をつける」
「今日は違うとこ行く?」
「違うとこって?」
 大体なんでどっかしら行く前提なんだろう、とちょっと三井は疑問に思ったけれども、流川の口から出る言葉が気になって続けさせた。
「…映画館…とか? 水族館…? とか?」
「なんだよ、それ!」
 三井は堪えきれなくなって吹き出した。どこかで聞きかじったデートの定番スポットと思う場所なのだろう。語尾が疑問文になっているのがまた笑える。
「おまえ、それホント行きたいの?」
「んー…」
 真剣に考えた顔が数秒経って横に振られた。
「だろ? おまえが行きたいとこってどこだよ」
 問えばまた腕が組まれて真剣に考えこむ。その様子に少し可哀そうになってこないでもない。
「じゃさ、夏祭り行こうぜ。昨日の詫びもかねておごってやる」
「祭り?」
「そう。近所の神社の、明日あるだろ? 夜だったら多少涼しくなるだろうし」
「明日?」
「少し休ませろよ」
「わかった」
 大人しく頷くのに、「よし」と言って立ち上がる。流川も立ち上がり、「そういえば」と口を開いた。
「朝食ある」
「あー…またおばさん用意してくれたのか。申し訳ないなー」
「だいじょぶ。おれの成績上がって機嫌いいから。もう仕事行ったし」
「挨拶もできずに寝こけてたか。ヤベー。おまえも起こせよ」
「起こした」
「もっと早くに」
 そこでなぜだか流川は笑って、三井は眉を寄せた。
「なんだよ…」
「あんたの寝顔、かわいかったから」
「な…!」
 揶揄われたのかと流川を見ると、これまでに見たことがなかったやさしい笑みを浮かべていて三井は少し驚いた。こんな顔もできるんだな、と眺めて怒りと焦りを忘れる。
「年上をからかうなよ」
「からかってない」
「…とりあえずメシ」
 先に立って歩けば、流川ももうなにも言わずに後ろをついてきた。



 せめてもと用意されていた朝食の皿を洗って一息つくと、三井は隣で皿を拭く流川にちらりと目線をやった。相変わらず表情のない無口な横顔はそれでも口角が上がっていて、機嫌がよいことがわかる。
 こいつと一緒に過ごす時間が多くなって、いろいろとわかることも増えてきたな、と思う。そうなるとかわいく思うことも確かで、だからこそ人が気づかないことに気を配ってやるのも自分にしかできないことではないのか、と考えた。
 なにより自分を好きだと言ってきた顔を勘違いだと考えたときの、昨夜のあのわけのわからない胸の痛みをナシにしてしまいたかった。
「あのよ」
 手をかけられていたタオルで拭きながら声をかけると、皿をしまい終えた流川が三井を振り返った。
「なに」
「気ぃ悪くしないでほしいんだけどよ。おまえ、やっぱり勘違いしてねぇ?」
「勘違い?」
「その…俺をー…なんだ、好き? とかいう」
「どういうこと」
「その…俺もおまえといるの楽しいよ。年とか関係なく一緒にいて楽っつーか。でもそれって友達とかでも同じじゃねぇ?」
「…勘違いしてるのはあんただ」
 向き直ったその怖いほどに真っすぐな瞳に言葉を失う。
「今だってあんたに触りたくってたまらない。これって勘違いなの?」
 頬のすぐ手前まで延ばされた手からの熱を感じて、瞬時にざわついた心を抑え込んで三井は首を振った。
 そもそも家庭教師が教え子に手を出したらダメだろ。
 そう考えた自分にギョッとして三井は殊更声の調子を強く上げた。
「また連絡するな。あっとおまえ、スマホないか?」
「ナイ」
「あー、じゃあ家電にかける」
「…うん」
 荷物をまとめて振り返ると、流川はまだ台所にいて三井を見つめていた。
 あんなびっくりするような言葉をかけてきて、それが今は相応の子供のようなどこか途方に暮れた顔をしていて、三井はそれに少し安心した。
「じゃあな」と声をかけて黙り込んだままの流川を置いて家を出る。途端に降り注いで来る朝から脳の中まで灼けるような日差しが眩しかった。




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