青嵐




「センセー。ここ。わかんない」
 いつも一声かければ読んでいた雑誌を置いて、自分のベッドから身軽く立ち上がり数秒のうちに三井は隣に立つ。流川の座る椅子の背に手をかけて、指さした箇所を覗き込んでくる。
 目は悪くないと聞いていたけれども、座る流川の高さと同じくらいまで顔を降ろしてノートを睨みつける。
 その間近で見られる横顔が好きで、ふっと鼻を擽る薄い汗の匂いに触れたくて、流川の質問の回数も増えた。
 そうするとちょっとばかり模試の結果も良くなってきて、母親の機嫌も三井へ対する株も上がった。湘北はまだまだ合格圏内には入ってはいないが、充分狙えるところまできている。
 夏休み以降も家庭教師やってもらえるといいのにねぇ、と母親が言うのに、「聞いとく」と先刻返したばかりだった。
 ちょっとバスケをしている時の表情に似てる。3P打つときの。
 要は集中している時の顔なんだろうけれども。
 三井の赤ペンを持っていた指が口元に上がる。
 赤ペンのキャップの部分でふにふにと下唇を押して、それが考えるときの癖だと流川はもう知っている。
 あれに触れたらどんなだろう。
 自分の指が上がって三井の顔に近づいていくのを流川は見ていた。ふいにその顔が流川を向いた。眉根がキュッと寄る。
「おまえ、聞いてなかっただろ」
 流川はチッと小さく舌打ちをして手を引っ込めた。
 こういうところの三井の勘は鋭い。そしてどんなに顔が近くても引かない。むしろ近い方が引かない。
 高校生の一時期にグレていたと先輩達が噂していたのを聞いたから、その名残なのかもしれない。
 眦が眉とともに切れ上がって力強い光に少しの間見惚れた。
 瞳の中にまた自分が見える。
「あ? 今舌打ちしたかぁ? 何メンチ切ってんだ」
 ポコンとまた頭を丸めたノートで叩かれた。
「ちょっとばかり成績上がってきたからって調子に乗んじゃねぇぞ」
 威嚇してるつもりなのか睨んでくるけれど、もう何を言っているのかも聴こえなくなった。
 目の前のよく動く唇を見ていたらどうしてもそれに触れたくなって、流川は今度は指が動く前に自分の顔を近づけていた。
 ポンと柔らかいものに口が跳ね返されたように感じた。
 勢いよくぶつけたわけではないのにどうしてか自分の唇はじんわりと熱くなっていく。目の前の三井の唇は何かをまだ喋りかけていたような形で固まっている。
 そうか、動いていたからわからなかった。今なら。
 流川がもう一度顔を近づけると、「ちょっちょっちょっ!!」と三井の掌に遮られた。
「な…?! なに…?」
 顔面に張り付いた三井の掌を、手首を掴んで無言で引きはがす。現れた目の前の慌てたような三井の顔にもう一度近づいて唇を合わせた。
 柔らかい。
 三井の息を感じて流川はカッと頭に血がのぼるのを感じた。
 もっと触れていたい、と思って体を寄せると、今度は両手で頬を挟まれて顔を引きはがされた。
「いてぇ。なにしやがる」
「なにって…! こっちのセリフ! おまえ! なに…!」
 口元を抑えて三井は顔を赤くしていた。
「好きかもって言った」
「好き…? かも?! って!?」
 目を大きく開いたまま動かなくなった三井に近づくと、三井は後ろに一歩退く。流川が立ち上がり近づくとまた後ろに一歩。
「逃げんな」
「逃げてねぇ!」
 む、として流川が間を詰めるとやっぱり三井は後ろに下がって、でももうその後ろは流川のベッドだった。膝の裏がそれに当たって、三井が焦った声を上げる。
「ちょっと待て。落ち着け」
「あんたが落ち着け」
「せ、席戻れ! 一旦!」
 むむ、と更に眉根を寄せた流川はそれでも大人しく自分の机の前の椅子に座った。体は三井に向けたまま。三井はベッドに落ちるように腰かけて、手を口元から額に滑らせた。
「…おまえさ、」
「なに?」
「…そーいうことかよ……」
「なにが」
「なにがって…。と、とりあえずだな…えーとー…そう! それ終わらせちまえ!」
 顔を赤くしたまま三井は大袈裟な手振りで流川の机の上を指さした。流川は眉を寄せたまま三井を睨み、机に向き直った。



 飛んできたペットボトルを受け取り、礼を言ってキャップを捻っていると、三井が流川のすぐ隣に腰かけた。
 よかった、嫌われてはいないようだ、と流川は判断し、ペットボトルを呷る。
 気が付かなかったけれども大分喉は乾いていたようで、強い炭酸に眉を寄せながら飲むと、身に纏いつくような湿気も瞬間忘れられるようだった。
「まず…ああいうことは相手の承諾を取ってからやれ」
 流川は言われた意味がわからず隣に座る三井を見た。
 授業時間をきっちりとこなした後に、「時間あるか」と三井に問われて、家から最寄りの公園まで数分歩くと、夜になっても下がらない熱気にじんわり汗をかいていた。三井の首筋にも薄っすらと汗が浮いている。
「おまえモテそうだから今までは大丈夫だったのかもしれねぇけど」
「ああいうことって?」
 ベンチの横の外灯の明かりに照らされて光るそれを眺めて流川は聞いた。
 少し灼けた首筋にチラチラと動く薄い影のようなものが浮かんでいて、顔を上げると虫が明かりの周りを飛んでジジ、ジジと音を立てている。
「だから! …その…キス? とか」
「とか?」
「だからキスだよ!」
「ああ…」
 そんなことで怒っていたのかと思う。
「キスしてぇ」
「おいおいおいおいっ!」
 言われた通り宣言して近付くと、またしても三井の掌に阻まれて、流川はむうと顔を顰めた。
「…マジでか」
「マジ。それにあんた以外にやったことなんてねー」
「…マジか」
「マジ」
 恐る恐る聞いてくる三井に、流川はこっくりと頷いた。
「その…おまえって……いや…」
 三井は手で口元を覆って言葉を探すように自分の足元を見、ゆっくりと口を開いた。それを流川はじっと見つめる。
「…俺さ、彼女と別れたばっかりで…その…正直、すぐに他のこととか考えらんねぇんだ。悪いけど」
「そう」
 あっさり引いた流川を三井は訝し気に見て、また口を開いた。
「俺…家庭教師やめるか。バスケ好きがいいなら部のやつに声かけてみるし」
「なに言ってんの」
「え…だって気まずくねぇ?」
「ナイ。そういえば母さんが夏休み終わってからも頼めないかって」
「はい? …おまえ、俺の話、聞いてた?」
「聞いてた。おれは気まずくないし、あんた以外の家庭教師はいやだ。あとおれも夏休み終わってからもカテキョー続けて欲しい。湘北に行きたい」
 三井は唖然としたように見てくる。2度3度口を開閉させてから言葉を続けた。
「それは…なんとかなる…けど。…でも…あー…ああいうのはナシな」
「ああいうのって?」
「だから! その…キス? とか」
「ああ。わかった。やらない」
「そ…うか」
「そう」
「うん…」
「これからもよろしくお願いします」
「う…ん」
 三井は頭を捻っているようだった。
 流川は手に持ったままだったペットボトルを思い出してまた呷った。ぬるくなってきていて、甘さがさっきより強く感じられて顔を顰めた。
「飲む?」
 流川がペットボトルを差し出すと、三井はなぜだか疲れたように頷き、受け取って顔を勢いよく上に向けて呷った。
 その様子を見て、クラスメートが間接キスがどうの、と話していたのを流川は思い出した。
 それは平気なんだな、と思い、でも口に出すとまた三井がうるさく騒ぎそうだったので、黙って自分も三井と同じように空へ顔を向けた。
 すっかり梅雨が明けた空は星が無数に瞬いていた。
 もうプールは寒くなさそうだ、と思う。
 けれどもきっと、いや、絶対めちゃくちゃに混んでいるだろう。もうあの水色の光景は見られない。
 それよりもまたバスケがしたいと思った。
 このウルサイ子供っぽい年上の人とバスケがしたい。
 キスもしたいけれど、三井が嫌がるならしなくたっていい。
 流川は少し胸に痛みを感じて、でもこの人と会えなくなるよりはいい、と考えてまた空を見上げた。




5/8ページ