花の名前
取材先のテレビ局で用意されたホテルはエレベーターを降りて右に曲がれば仙道の部屋、左に行って牧の部屋を行き過ぎるとその奥に三井の部屋があった。エレベーターの狭い箱の中で黙り込んで下を向いていた顔が、ホールに足を踏み出して迷うように左に流れる。先に出た仙道が足を止め、「こっち」と一声かけると、三井は置いてきた何かを確認するように廊下の先を束の間見つめ、仙道の後に足を向けた。
ドアを開いて室内に足を踏み入れる。この展開はさすがに予想していなかったからカーテンも開きっぱなしだった。窓際に近づいて閉めて振り返ると、「男とやったことあんのかよ」と、三井から先に声をかけられた。
「ないですよ」
「は?」
すぐにでも触れられる距離に近づいて目を覗き込む。真っすぐにこちらを射抜く瞳。くっきりとした二重で大きい、きれいだけれど男の目だ。いつからかどうしてか頭の片隅に居座って、気づけば目で追うようになっていた。
「三井さんが教えてくれるんでしょ?」
言ってその頬に手を伸ばそうとすると、躱されて戸惑うような表情を浮かべる。
「俺、オネエっぽいの?」
意外といえば意外な質問で、反応が遅れて何を感じたのか睨みつけられる。睨まれたからなわけではないけれども、「そんなこと考えたこともないです」と仙道は正直に答えて、自分の言ったことを気にしたのか、と気づいた。
「違いますよ。三井さん、色っぽいから経験あるのかなーって」
「はぁ?!」
上がり気味の眉が寄せられて、場にふさわしくない声が出る。どうにも勝手が違うなーと考えて、男相手だから、いや三井だから当たり前なのか、とも思う。
「怒ったらごめんなさい。でも言われたことない?三井さん、ふとした瞬間にすごく、その、色っぽい」
また怒られるかな、と様子を見ながら口にすると、三井は目を瞬いて、それから伏せて視線を横に流した。
ほら、それ。口をついて出そうになって止める。代わりに今度こそ頬に手を伸ばして上を向かせた。問うような眼差しを受けて、言葉を発する前の薄く開かれた唇に口づけた。口紅のついていない素の唇は新鮮だった。香料の含まれたベタッとしたあれに興奮したこともあったけれど、今は正直辟易する。新鮮なのはそれがないからなのか、三井だからなのか。少しふっくらした唇では判断がつかなくて、もっと知りたいと舌を差し入れればするっと逃げられて腕の中の体が震えた。あれ?と思って口の中を追いかけると、今度は体の間に腕を入れられて突っぱねられる。
「…シャワー。浴びてくるから」
拒否されたわけではないみたいだけれども。乱入したら怒るんだろうなぁ、とさっさと浴室へ消えた後ろ姿を見つめた。
三井の左手の指輪がなくなっていたことに気づいたのは1週間前だった。実際には未婚の三井が、「虫よけ」と称してそれを嵌めていると聞いたときには仙道にはその行動を理解できなかったが、チームの低迷期にも見られなかった影を落としたその表情に目を引き付けられることが多くなった。口数が極端に減り、声をかけてもどこかうわの空で、ミーティングには辛うじて真剣な表情を晒しているが、すぐにどこか遠くを見ているように気持ちは体のそばにないようだった。
まあ、別れたんだろうな、とは思った。それなりにモデルやらキャスターやらとの接触が増えた選手達の中でも頑なに手堅い生活を守り、その「一般人の彼女」との結婚も間近いのだろうと考えていただけに意外ではあったが、自分のことを振り返ればなくはない成り行きだった。気の毒に思うほど三井に友情を感じていたわけではないが、じゃあフリーじゃん、と考えた自分に驚いた。
三井に?三井に。
自分に問うても当然のように答えは決まっていて、もうそれであれば深くは考えない己れの性格に苦笑はしても今更悩むこともなかった。実際三井の様子は隙だらけで、少ない女性スタッフの中にも色めきたつ人間はいた。それに慌てたわけではないが、一計を案じるまでもなくその機会は早くにやってきて、邪魔をされているように感じるものもキャプテンの牧の探るような視線だけだった。事情を知るような様子の牧に牽制を受けて、そうか、と思い当たることもあった。つまり三井の相手は女じゃない。いや、なかったのだ。なら、話はもっと早い、と仙道は目の前の男の左薬指を撫でて誘いをかけた。触れなば落ちん風情の三井がのってくるかは五分五分。自分だとて真面目に付き合いたいとまで思い入れているわけでもなく、かといって面白半分というわけではなく、それなりの緊張感を持って三井を見れば、迷ったように流された視線にまた捕らわれた。それでもまだこの男に捕まった、とは自分で信じたくはなかったので、席を立って付いてくるのかこないのかは三井の判断に任せた。
三井と寝るようになって禁句となった言葉が増えた。湘南、湘北、高校時代。つまりある時節の彼の出身地に関わる事柄で、付き合っていた人間というのもその辺りかと推測されたが、もちろんそんなことは噯にも出さなかった。三井は約束を求めない。求めないどころか初めて寝た日も仙道が朝に目覚めればもうそこに三井の姿はなかった。いつもであれば気にも留めないが、どうしてか頭にまだ三井の表情が引っ掛かっていて、翌日の仕事後にまた誘ったのも仙道だった。
「三井さん」
収録が終わってスタッフへの挨拶もそこそこに逃げるようにその場から消えようとしている背中に声をかければ、昨夜を思い出させもしない迷惑そうな顔が振り向く。
「東京まで一緒帰りましょうよ。牧さん、婚約者来てるし」
そう告げると物言わないままの顔はまだスタッフへの挨拶をしている牧へと巡らされ、確かにそこに伴われた女性の姿を認めた三井は「…ああ」と諦めたような声を出した。
この人はよく笑ってたよな。
眉を寄せ、下唇を噛み締めた顔を見てふと思い出したのは笑い転げる三井の姿だった。同じチームに移籍してまともに言葉を交わしたのは高校以来10年ぶりくらいにはなったが、それまでもリーグ内にいれば顔を見ることもあるし試合前後は挨拶だって交わす。そこで知っていたのはチームの選手やスタッフに囲まれて笑っている三井だった。一体何がそんなに面白いんだろうかとふざけ合いじゃれ合う姿を呆れ半分眺めた覚えがある。負け試合の後にさえ怒っていたかと思うと次の瞬間にはもう笑顔を浮かべていて不思議に思ったのも一度や二度の話ではない。
「…牧さんじゃないですよね」
「何が」
「左の薬指」
「ばっ…!バカかおまえ!」
周囲の注目を集めたことに気づいた三井は声を潜めた。
「全然チゲー。牧は…事情知ってっから…気ぃ遣ってくるだけだ」
「そうですか。よかった」
仙道はニッとできる限りの笑みを顔に作った。三井の目が驚いたように瞬く。その後に「おかしなヤツ」と三井が小さく笑って、仙道は久しぶりに見たそれになぜだか胸の奥が掴まれたように苦しくなった。
それからも声をかけるのはいつも自分で、物足りなく思うことも事実だった。足りなく思えば追いかける。それはこれまで仙道が体験してきた恋愛では稀で、だが女性で体験してきたように三井は思わせぶりな態度をとっているわけでもなかった。相変わらず笑い方を忘れたような呆けた顔は遠くを見たままで、仙道は殊更自分が三井に笑みを向けているのに気付いた。
腕の中に収まり寝かかった顔に手を滑らせて頬をつまむ。すぐさま不機嫌そうな顔が自分を睨み上げてきて、仙道は笑った。
「牧さんが元カレ?って聞いたときの三井さんの顔」
「…覚えてねぇ」
ふいっと背中を向けられて、そんなわけないでしょ、と思いながら日に焼けることのなかった冬の終わりの白い背を見つめた。見るだけでは飽き足らなくなり、人差し指と中指で挟むように背骨の線を追うと、「くすぐってぇ」と手を払われる。少しおもしろくなくなって、多少の暴力で剝がれることのないように目の前に横たわる裸の腰に腕を回した。引き寄せて張り付いても嫌がられることはなくて、満足して短い襟足に唇を落とす。
「ねみー」
そんなつもりはなかったけれど、先刻から続くつれない言葉に仙道に悪戯心が湧いてきた。相手にするのも面倒そうなことを言っているくせに最中は縋ってくる体に、もう一度熱を灯して強請らせたらおもしろかろうと手を滑らせる。
「ん…やめろって。もう寝る」
「明日試合ないでしょ」
「練習あ…る」
肩口にキスを落としながら、腰から腹筋と手のひらで撫で上げて胸まで辿り着く。それだけでもう揺れ始める細い腰はとんがった口調と違って素直だ。ぎゅっと尖りを摘まんで親指で押してしつこくまた摘まんでと繰り返していると、揺れた腰が自分に押し付けられて足が開いていく。そのまま中に入りたくなって、いやいや、と自重する。
「明日練習だよね」
「…ん、バカ仙道っー」
にやつきながら三井越しに伸びあがり、サイドテーブルに腕を伸ばして散らばっていたゴムのパッケージを1つ浚って口に咥える。横目で恨めしそうに仙道を見て、それでもまだ仙道の望む言葉は三井から漏れない。勃ち上がりきったものには触れず、今度は尻に手を伸ばして両手で揉みこんで中央を晒した。まだ潤うすぐにでも受け入れられそうなそこに触れることはせずに内腿から尻を撫で上げ強く揉み続けていると、強請るように三井が振り向いた。「ん?」と顔を向けると、三井は怒ったような赤い顔で仙道の口からゴムを奪い取って体を向けなおし手早く仙道のものに着けた。乱暴に仙道の腰に片足をかけて引き寄せる。
「こいって」
仙道は無言で起き上がって三井の顔の脇に両手をついた。顔を覗き込むと強い眼差しに睨み返される。期待した言葉ではなかったけれど、それ以上に煽られた。引き寄せてくる足に抗わずにゆっくりと体を進めると組み敷いた体が徐々に撓り、反っていく。唇が小さく開き、物憂い眼差しが逆に忘我の兆しを見せ始める。男を抱くのは初めてだったが、仙道はすぐに三井の体に夢中になった。きつくて熱くて硬くて、何より綺麗だった。そんな目で見たことがない男の体が、薄い筋肉を纏ってうねり長い手足が絡みついてくる様が、何より美しかった。
「三井さん…」
「…ん…あっ…!」
感じ入ったように眉を寄せて潤んだ目が薄く開く。そこには見慣れてしまった何かを諦めたような眼差しはなくて、仙道は安心する。あんな顔はもうして欲しくない。再会した頃のように他愛もないことでずっと笑っていて欲しかった。
オーストラリアの観光案内の本を手に取るとエージェントが笑った。
「余裕ですね」
それには答えずに曖昧な笑みを返してデイバッグに突っ込んだ。
「まだ決定事項は内密にしていていただきたいんですが、」
「もちろん。親にも言ってませんよ」
「呼び寄せる方はいらっしゃいますか?」
仙道は手を止めた。言ったら三井はどんな顔をするのだろうか。「あー行ってこい行ってこい」と追い払うように手を振る様がすぐに浮かぶ。では「ついてきて欲しい」と言ったら…?
「相手も仕事があるんで」
「そうですか」
今日は初めて三井の部屋に招かれた。招かれたというよりは、仙道がほぼ無理やり約束を取り付けたのだが、照れた顔をしながら「何にも出ねーぞ?」と言った三井を思い出して表情が緩む。泊まることも許されたから一泊分の着替えと、 少し奮発したワインが先客としてデイバッグの中にあった。ワインを気に入ってくれたら。それで少しでも笑ってくれたら。この本も手渡してみようか、と仙道は思った。