春雷
遅くても晩飯を食べたら帰るつもりではいた。朝に見たテレビのかわいいお天気お姉さんを思い出した。そんなに遅くなるつもりはなかったから、傘なんて持って出なかった。だって夜半遅くには降り始めるかもしれませんよ、なんて言われて準備なんてしていったら他の何かを期待してるみたいじゃないか。誰に言い訳するでもなく三井は思う。
プロリーグのバスケを見に行った後の晩飯は予定通りで、ブーストするチームがプレイオフを決めたのも、その瞬間を共有できたのも嬉しかったし、久しぶりに楽しくて浮かれていて、なんだかそのまま離れ難くて、それは久しぶりに帰った地元の波の音が懐かしいだけじゃなかった。隣に座る仙道も同じようで、目が離せなくなるような楽し気な笑みを浮かべたまま三井の顔を覗き込んでくる。いつもより距離が近い。二人ともわかっているはずなのに、どちらもがそれを指摘することはない。
夜はまだ冷えるのに、普段は気にしない桜がきれいだとか言い合いながら公園に寄って、もう散りそうだからとか言ってベンチに座って、寒さに耐えて缶コーヒーなんかで手を暖めながら、内容のあるような無いような話しを続けてるなんてバカみたいだ。それにもうそろそろ帰らないと下宿先に辿り着く終電に間に合わない。でも腕に巻いた時計は見たくない。見たら最後、卒の無い男はその時間に気付いて気を回しそうだったから。
どうしようか、と考えて下唇の内側を咬んだとき、鼻の頭にあたるものがあった。
「あ、」
「雨?」
言い合ってる合間にも雨足は激しくなり始める。
「うわっ!」
「走ろっ!」
季節外れの大雨に立ち上がってようやく慌て出す。おまけに雷まで鳴っていた。もう駅の近くまでは来ていた。
雨が降り始めたってことは相当時間が経ってるってことかよ、まじでヤベぇ。
駅への道を踏み出し仙道を振り返ると、別れの口を開く前に「早く!」と駅とは反対方向に腕を取られた。
「俺ん家寄ってって。雨宿り」
自慢のヘアスタイルから雨が滴り落ちて、それが崩れかけた下に、慌てた顔が覗いている。いつにも増してカッコよく見える一つ年下の顔に胸が騒いで、そうじゃないだろ、と頭を振ったところに助け船がきた。雨宿り。
そう、雨が止むのを待ちゃいいんだ。それだけ。
三井はホッとして腕を引っ張られるまま雨の中を駆けた。腕を取られていないほうが走り易いに決まっているのに、三井は解けと言わなかったし、しっかり腕を掴んだ大きな手は仙道のアパートに着くまではずされることはなかった。
激しい雨の中でも甲高い音の響く外階段を駆け上がって、寒さに足踏みしながら鍵を取り出す仙道を見つめているとようやくドアが開いて、また「早く!」と促されて縺れるように二人狭い土間に入った。雨の匂いに混じって、知らない家の匂いがする。でもすぐ傍からも覚えのある匂いがして、これがこいつの匂いだ、と感じて不意にいたたまれなくなる。
「おれ、やっぱり、」
言いかけると仙道の眉が下がった。何か言いかけて、三井を見つめて、また何か言いかける。開いたままの口の中に、暗闇でもわかる白い歯と湿った粘膜が見えて、三井は狼狽えて視線を何も見えない暗い部屋の奥に流した。
「タオル持ってくるから。中、入っててください」
仙道が言葉を続けなかった三井を促して靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。と、少し遅れて蛍光灯が瞬いて点いた。帰り損ねて、おずおずと靴を脱いで、「お邪魔しまーす…」と小さな声をかけて三井も部屋に上がった。右手に小さな台所があって、左手に仙道が入っていった浴室があった。出てきた仙道はバスタオルを持っていて、それを頭から被せられる。ガシガシと拭かれて、「自分でできるって」とタオルに手を伸ばし、仙道の冷たい指に触れて胸の奥が跳ねた。それは仙道も同じだったようで、タオルがそっと外されてびっくりしたような切羽詰まったような顔が見えた。
「冷たい」
「うん、おまえもな」
「風呂入って。部屋暖めとくから」
「おまえが先入れ」
「いや、三井さんが先」
「高校生に風邪ひかせらんねーよ」
三井が先輩風を吹かせると、仙道は三井の体を浴室に押しやりドアを閉めた。
「おい、」
「暖房つけたら行くから」
行くって…来るのか?
三井はなおも閉められたドアを叩こうとして握った拳を止めた。
着ていたコートを目の前の洗濯機にかけ、中のパーカーに手をかけて少し躊躇ってから、勢いよく着ているものを全て脱ぎ捨てた。
熱い湯が体に染みわたるようだった。遠慮なく髪も洗わせてもらって、しばらく頭からシャワーを浴びていたが、一向に外からは物音がしない。シャワーを止めて耳を澄ますが、やはり何も聞こえてはこなかった。が、不透明の摺ガラスを模したドアの向こうに大きな人影は見える。三井は息を吐き、勢いよくドアを開けた。
「わっ?!」
「おら、さっさと入れよ」
外に立っていた既にパン一姿の仙道の腕を引っ張るが、その体は頑として動かない。
「おれ、三井さんの後でいいから。狭いし」
「鳥肌たてて何言ってんだ」
「ヤバいから」
「ナニが」
「ナニがって、」
人一人立てるくらいの狭い脱衣所で軽く揉み合いになって、気付く。気付いて三井の動きが止まり、仙道は気付かれたことに気付いた。
「あ~もー!」
片手で顔を押さえて仙道が俯く。
「…ダサ過ぎる」
「ダサくなんてねーよ」
三井は仙道の顔に手を伸ばした。驚いたような顔が自分を見返す。
よし。
三井は自分に気合を入れて、少し背伸びをして目の前の男に口づけた。まだ冷たい唇が逆に敏感に強く相手を感じさせる。
「ちょ…ちょっっちょっ!」
両肩に手が置かれて体が引き離される。
「なんだよ」
「なんか…いろいろ順番が逆で、」
「順番ってなんだよ」
拒否されたわけではないようだったが、邪魔をされて三井は唇を尖らせた。少しおもしろくなくて、目についた仙道の下着に手をかけて一気に降ろす。屈める広さがないから尻が出るところまでしか下げられなかったが、仙道は盛大に叫んだ。
「三井さん!」
「嫌だったら言えよ」
「嫌なわけない」
両肩に置かれたままだった仙道の手に力が入った。
「好きです。俺と付き合ってください」
三井は驚いて仙道を見上げた。そんなとこ拘るんだな、と意外に思う。と同時に今の自分たちの状態を思い出して、不意に笑いがこみ上げてきた。狭い脱衣所で寒さを堪えてくっつきあって立って、仙道はパンツがズリ落ちかけている。が、ここで笑うのはなんとなくマナー違反だくらいには心得ている。笑わないようにギュッと奥歯を噛み締め、そうやって自分を抑えつけるともうダメだった。唇が震えて押さえきれずプッと噴き出した声に仙道は目を見開いた。
「プ…く…あーはっはっはっは!」
仙道は大声で笑う三井を驚いたような目で見つめて、それでも三井の笑いの発作が止まらないとわかると眉が下がり、だが口角は持ち上がる。
「そこ、笑うとこ?」
「だって…おまえ、こんなとこで…そんなカッコで」
仙道は笑い続ける三井の額に自分の額をつけた。至近距離で笑い続ける三井の顔を見つめていると、だんだんと三井の笑いが落ち着いてくる。最後にふっと息を吐いて笑いを収めると当てた額から逃げることなく、でも同じように仙道を正面から見つめることもできなくて視線を下げた。
「返事は?」
「…返事って、そんなもんおまえ…」
わかってんだろ?と小さく呟くと、「三井さんの口から聞きたいです」と、肩に置かれていた手が両頬に回った。頬を掬われるようにして仙道に顔を向ける。三井は小さく「好きだよ」と言って言葉に被せるように仙道に口づけた。
「ほら、入るぜ。さみーさみー!」
狭いと言った仙道の言葉は言い訳にしても確かに正しかった。三井に続いて仙道が入ってドアを閉めるきるのがやっとで、体も思うように洗うことができないのを見ると、三井は浴槽の湯を手桶で何杯か頭から浴びてさっさと風呂桶に入った。たった今、想いを通じ合わせた人が目を閉じて、「うー、あったけぇー」とか言いながら顎まで浸かっているのを見ているだけなのもなんだが、中途半端な自分の状態を何とかしたい、と仙道は切実に思う。しかしここにはその三井がいる。三井が。
今さっき告白しあいましたよね?
仙道は自分の記憶を心細く辿る。暢気に鼻歌まで歌い始めた三井を少し恨めしく思っていると、その瞼がいきなりパチリと開いた。
「そっか、おまえ、」
ギクリとして動きを止める。その背後で三井は勢いよく風呂桶から立ち上がった。
「先に出てるわ。ごゆっくりー」
ごゆっくりって。
仙道は己を見下ろし、息を吐きだしかけて、思い出して外に声を張り上げた。
「タオルと着替え、洗濯機の上に置いておきましたからー!」
おー、サンキュー!と常と変わらない答が返ってきて、今度こそ仙道は深く溜息をついた。
順番がどうのとつまらないことを言ったのは自分だけれども。こんなもんなのかなーとほったらかしにされている自分に手をかけた。
こういった展開を期待していなかったわけではなかった。でも思い描いていたそれより、現実は余程難しい。今まで培ったそれなりのはずの経験なんか三井相手では何の役にも立たない。ちょっとばかりすっきりした頭で仙道はTシャツに腕を通し、何度目かの溜息をついて部屋の引き戸に手をかけた。都合のいい想像はしてはいないつもりだけれど悪い方向には頭が働いて、 三井がもうこの部屋の中にいないのではないかと背後の玄関の土間を振り返った。きちんとそこにスニーカーが並べられているのを見て安心し、そうすると下がったはずの熱がまた上がってくるような気がした。
風呂上がりの三井が自分の服を着て自分の部屋にいて自分を待っている。
頭を振って引き戸を開けると、ベッドの上に上半身裸の三井が座っていた。
「三井さん?!上なんで…ぅあっついな?!」
風呂あがりだからという理由だけではない部屋の暑さに仙道は驚いた。三井は座って手で顔を扇いでいる。
「エアコン壊れてんの?ってか、リモコンは?見当たらねーんだけど」
言われて、原因は自分だと腑に落ちた。とにかく早く部屋を暖めようと、リモコンの室温ボタンを適当に押しっぱなしにして電源をつけた。その後は気もそぞろに風呂に向かったのでリモコンを最後にどこへ置いたか正直覚えていない。
「すみません、どこ置いたかな」
戻って浴室を覗き、向かいの台所を眺めたところでコンロの上に置いてあるのを発見し、あぶないあぶない、と持って部屋に戻ると温度を下げた。30℃に設定されていて、そりゃー狭い部屋なんかすぐ暑くなるわけだと納得する。ついでに置いてあったTシャツを三井に手渡した。三井は「サンキュ」と小さく言って受け取り、しかしすぐに着るでもなく手の中のたたまれたTシャツを見ている。
「おまえさ、」
「はい」
「その…」
言いかけたところで窓枠が震えるような大きな音が鳴り響いた。窓の外に目をやれば、まだ雨も激しく打ち付けてくる。これは今日で見納めだったかな、と三井と二人で公園で眺めた満開の桜を思い出した。その下で口元から缶コーヒーの甘い香りの息を吐きだして笑う顔。伏せた瞼の青い影。その人は今、ここにいて自分を好きだと言ってくれた。三井に目を戻すと、三井は自分を見ており、胸の中がまた一つ跳ねた。開け放したままの部屋に廊下からの冷気が入ってきたことを首筋で感じた。狭い空間は暖まるのも早いが冷えるのも早い。三井に手に持ったTシャツを早く着るように言いかけて、仙道は口を噤んだ。視線は目の前の三井から離すことができない。引き寄せられるように隣に腰を下ろし、顔を寄せると三井からまた口づけを受けた。目を閉じて触れる唇をもっと感じ取りたい、と思った。触れるだけですぐに離れて、目を開く前にまた口づけられる。追おうとするとまた離れた。
「終電、なくなるから」
立ち上がろうとした腕を咄嗟に取って、引き留める言葉が追い付かずにその手を自分の口に押し当てた。
「ここにいてよ」
当てたままの手で、はっきりとは聞こえなかった自分の甘えは確かに三井に届いたようで、唇に触れた指が震えた。
「だってよ、」
「いてよ」
手に取ったままの指が動いて、下唇をゆっくりと撫でられる。口を僅かに開いてその指を咥えると、三井の体が勢いよく立ち上がり、自分の体を跨いでベッドに膝立ちになった。上からのぞきこまれて、その鋭い目線に腹がざわつく。ゆっくりと降りてきた顔を捉えて唇を合わせた。舌が滑りこんできて自分のそれと触れてまた腹の奥の熱が上がる。絡めて強く吸い上げて、両腕を顔から裸の背中に伸ばし、肌を撫でまわして背中ごと抱えてベッドに転がした。下になった三井の目にそれまでなかった戸惑ったような色が浮かぶ。それを見て仙道は動きを止めた。自分も男とは初めて、きっと三井も初めてなのだろう。突っ走りかけた頭にブレーキがかかる。
「無茶しませんから」
言うと、三井の顔が笑った。
「ホントかよ」
怖ぇなぁ。
茶化すようで本気も覗いている言葉であることはわかった。宥めるようにそっとキスを落とす。壊したいわけじゃない、ただ一緒にいたい。触れあった場所は体が動くたびにお互いにその熱を伝えてきて腰が自然に動き始める。
「…抜いてきたんじゃねーのかよ」
「一回抜いたくらいじゃおさまんないよ」
あなたが目の前にいるのに。
「でけーな、おまえの、」
まだ何か言いかけていた唇を塞いだ。目を合わせながら何度か唇を啄み、ペースを変えてゆっくりと三井の咥内を滑らせていく。上顎を擽り、固くなっていた舌に触れると柔らかく解けて絡んでくる。キスを続けながら肩を撫でていると三井の体に入っていた力も抜けた。肩から胸へ手を滑らせて、途中胸の飾りを摘まんで軽くひっかいていくと、「ちょっ!」と声が上がっていたたまれないように顔を逸らす。まあ、それはそうかと今回は諦めて更に下に腕を伸ばして、ウェストの紐を寛げて下着の中に手を入れた。既に張りつめていたそれを手の中に包むと、小さく息を飲む音がする。仙道の背中を彷徨っていた手が、今度はきれいに下着ごとスウェットを下げた。
「おまえも…」
三井の腕が上がり仙道のTシャツを脱がせようとするのに協力して頭を腕と平行に下げる。そのまま滑り降りてウェストのゴムにかかった三井の手を握り込んでから、自分で一息に下着ごと脱いだ。既に固く屹立していたペニスに三井の手がおずおずと伸びて絡みつく。我慢できなくて腰を動かせば三井のそれと触れて、下腹に痺れた感覚が広がった。
「み…ついさん…も、ヤバい」
直に触れ合った感覚は生地越しに感じた以上に頭の芯を沸騰させる。興奮そのままに三井の肩に歯を立てて、握りこんだまま親指で鈴口を少しきつく回すようにくじれば、下に敷いた体がのけぞって耳に熱い息遣いが吹き込まれた。三井の手は自分のものから離れて背中に回っている。仙道は二人のペニスを合わせて擦り上げる速度を上げた。三井の開いたままの口の中に伸ばした舌が見えた。唇を啄んで宥めて、至近距離からその熱に浮かされたような上気した顔を見る。
「キス…」
「ん…キス、好き?」
「好き。キス好き。おまえの舌、好き…」
たまらず口づけを深くすると、三井の口からくぐもったような声が上がった。
「も…出る…いく!」
「う…ん、いこ。いっしょ行こ」
「んあぁぁっ!んんーっ!」
頂点を求めて急く自分の体を抑え込んで、三井のきつく瞼を閉じた顔を目に焼き付けた。やがてその瞼が薄く開かれて、焦点の合わない水気の多い瞳が覗いたとき、仙道は強く己を扱いて解放した。
「…いいのかよ」
「いいって?」
狭いベッドでお互い全身をくっつけ合いながら、満面の笑みで三井の肩に布団を引き上げた仙道は、その影に隠れた三井の顔を覗き込んだ。布団の中でくぐもってよく聞こえなかったが、聞き返した後に大体の予想はついて、仙道はさらに顔をにやけさせた。
「だから…その…なんだ…入」
「…いいの?」
わかっていてわざと意地悪く聞き返すと、真っ赤な顔が「っ…!ぁー…。やっぱおれ下なの?」とどもって視線を泳がせた。それには仙道もちょっと驚いて眉を浮かせる。いや、押し倒したときの三井の表情からなんとなくわかってはいたけれども、今後ここは是非ともお願いしたいところなので、聞かないフリで押し通す。
「今日は我慢します。いろいろその…あるだろうから」
「順番?」
赤い顔がもう悪戯な顔をしてこちらを揶揄おうとしてくる。
「そう、順番」
触れ合った素肌が気持ちいい。こんな格好でお互い寝れば、明日の朝には自分の虚勢を後悔するのは簡単に想像できたが、三井を腕に安心して眠りにつけるのも大きな満足に今は感じられた。気づけばもう空気を震わせる雷も、打ち付ける雨も止んでいた。静かな部屋の中に、自分と三井の会話だけが浮かんでいる。
「おやすみなさい、三井さん」
「ん…、おやすみ」
灯りを落とした部屋で、仙道は三井の髪にキスを落として、自分も目を閉じた。