満開のきみへ
アリーナの外に一歩出ると、涼しい風に吹かれて熱に浮かされたように興奮していた頭が冷え、三井は一瞬、耳鳴りがしたような気がして目を閉じた。
まだ耳の奥にはドリブルの音や、会場のうねるような声援、バッシュの擦過音、今周囲を歩く仲間たちの怒鳴り声が響いている。
勝った…。
インターハイ本選出場を決めた。
自分にはこの一年しかない。今後バスケットに関わっていけるかどうかも今年にかかっていた。その最後の年に本選出場をものにしたことはこれ以上なく三井を高揚させた。
頭に熱が戻ると、試合の中のシーンが次々に思い出される。
予選を勝ち抜いた今、脳裏に浮かんでくるのは自分が決めたシュートではなく、反省すべきプレーの数々だった。そして最後までコートに立っていられなかった自分への歯がゆさに苛立つ。一年の流川だって前半からのペース配分を考えていたのに。
明日からの朝のロードワークの距離をもう少し増やそうと決めて、三井は目を開ける。
前を行く仲間の大きい後ろ姿を見ているとまた試合のプレイバックが始まる。ふざけて隣を歩く赤木の頭を叩く桜木は驚くほど頼もしく上達していたし、その隣で怒る赤木はライバル魚住を抑えてまた一回り大きくなったように見える。宥める小暮の最後の3Pは誰にも言えないが正直感動して涙が出そうになった。辛い時期もバスケから離れることなく、自分がグレていた間にもこつこつと練習を積んできた当然の結果だ。桜木と赤木の争いに我関せずの宮城は、曲者揃いのメンバーを使ってのゲームの組み立ては半端ない判断力だろうに、最後まで完璧にPGを努めあげた陰の功労者だ。
その少し後ろを行っていた流川がふと後ろの三井を振り返った。変わらない無表情。相変わらずのバスケセンス。その流川でも思うところがあったらしく、前半では自分を抑えて後半にオフェンス力を爆発させた。その流川のシュートをブロックした白いユニフォームから伸びる長い腕が脳裏に蘇る。
腕から肩、顔へと順を辿り、「あれ?」と思った。太い眉と濃く長い睫毛、少し下がったような目尻。
ゲーム中には考えもしなかった。ただそのプレーを追うのに必死だった大きい影。
どこかで…見た?
「まだ具合悪い?」
不意に流川から声をかけられ、三井は自分の足が止まっていたことに気づいて夢から覚めたように目を瞬いた。
「悪くねぇ。悪いわけねぇ」
「なんだミッチー、天才のプレーに感動し過ぎて目が眩んだか」
「なーに言ってやがんだ、バーカ!」
「まだまだこれからなんだから。今度は倒れないでくださいよ」
「うるせー!」
桜木に睨みを返し、きっちり嫌味を言ってくる宮城に忙しく罵声を飛ばして、三井はさっき頭に浮かんだ考えに戻った。
会ったとしてもどこで…?
陵南高校は近いわけでもなく湘北とは電車で幾つが駅を挟んでいるし、その前はあいつは東京の中学出身だと聞いた。グレてる間?あんなに目立つヤツならいくら自分でも覚えていそうだけれど。
コートを離れる間際の、白いユニフォームの、少し茫然としたような表情が頭を過った。
あんなやつでも全国に行くことができねーんだ。
何か一つ、どこかで間違えたり判断が遅れたりしていたら…あの顔をしていたのは今頃自分たちであったのかもしれない。
三井は速足で仲間たちとの距離を縮め、また生意気を言ってきた後輩の肩に乱暴に腕を回した。
「どっかで見たよーな気がすんだよ」
ファストフードのカップに刺さったストローを行儀悪く噛んで最後に残った炭酸飲料を飲み干すと、三井はまた腕を組んで上を向いた。
「センドー?ああ、桜木がつっかかってたヤツ?」
「そー。マッチアップしてたのは流川だけど」
未だつきあいのある三井のグレていた時代もよく知る堀田はしばらく首をひねって考えていた。
「ハリネズミみたいな頭のヤツだよね。うーん、覚えはナイ、と思うけどなー」
「おまえは?」と隣のゴツい眼鏡に聞いても、その眼鏡は「ナイ」と首を振る。
「なに、三っちゃん、ケンカ売られた?!」
堀田と眼鏡がテーブル越しに身を乗り出して三井に聞いてくる。
「俺らが代わりにシメといてやるぜ。陵南だったよな」
「ちげーよ!そんなんじゃねーけど」
「ふーん…」とつまらなさそうにまた腰を落ち着ける二人を見て、こいつらもヒマしてんだなーと三井は思う。
あんな横断幕まで作って来やがって。男の野太い声援はビミョーだけれど、その心意気は正直うれしい。こうしてバスケを続けてこれたのも前に座っているこのゴツい不良どものおかげだし。
「どっかで遊んでるときに見たんじゃねー?あいつもフラフラしてそうだし」
「そーかなー」
まあ思い出せないところで困るわけでもないのだ。三井はもう3年だし、引退はまだしないので選抜やウィンターカップで顔を合わせることがあるにしても、その他で他校の生徒と関りを持つことはまずない。ヤバい時代の繋がりでなければ問題はないだろう。
話しが途切れ、ふと店の窓の外に目をやって三井は目を見開いた。雑踏の中、頭一つ飛びぬけたツンツン頭を誰かと思ってみれば、正に今、話していた男だった。
「わり、またな!」
返事を待たずに店を飛び出す。
見かけた辺りまできて周囲を見回すが、あの目立つ長身の姿を見つけられなかった。
見間違いとも思えないけどなーと、頭を巡らせて目の前のコンビニに目をやると、雑誌コーナーから自分に気づき、手を振ってくる男がいた。普通に笑って手を振る仕草に一瞬知り合いか?と思ったが、それは紛れもなく今姿を追って飛び出してきた男で。
自分に振ってるのじゃないのか?と思い後ろを振り向いてから首を戻すと、一瞬真顔になり指をさされて、またすぐにニコニコと笑って頷かれる。
三井は戸惑い、少し躊躇ってから冷房の効いた店内に足を踏み入れた。すぐに近くに行くのもなぜだか癪で、興味のない新聞やら雑誌やらを覗きつつ、隣に並ぶ。並んだところでしまった、と思った。
相手はただの顔見知りだと思って手を振っただけだったのかもしれない。それに自分は陵南が全国に行くのを阻んだチームの一人だ。隣に並んだところでかける言葉もなく、三井は焦ってそばを離れようとして、肩に手をかけられ止められてびっくりして振り返った。
「三井さんですよね?湘北の14番」
「おう。仙道…だよな?」
わかっているのに素直に対応できない三井は確認するような口をきく。にっこり笑った仙道からかけられた、確かめるような言葉からして、自分が仙道を前に知っているということは気のせいのように三井は感じた。少なくともそれは前から知っていた人間にかける言葉ではなかった。失敗したなーと思いつつ、すぐには逃げられそうもない雰囲気に負けて、三井は仙道に向き直った。
「本選出場、おめでとうございます」
「…おう。おまえも県ベスト5だよな」
まず祝う言葉をかけられて、三井も相手をたてるような言葉を返した。下手に出てくる人間には強気で出られない。が、やはりそこからまた言葉がつながらない。
じっと自分の顔を見てくる仙道に、「やっぱりどっかで会ったか?」と三井はだしぬけに頭に引っかかって離れないことを聞いていた。
「あれ、おれナンパされてます?」
考えていたことと角度が違う言葉を、すぐに意味が理解できず反応が遅れる。
「ばっ、おまえナニ言ってんだよ!」
ハハッと能天気に笑う声で、冗談としてスルーできなかったと気づいて自分に赤くなる。
「いや、マジに」
照れを押し切るように再度言えば、仙道も笑いをおさめて三井をまた見つめてきた。
「んー、三井さんが覚えていないんならないんじゃないですか?」
「ん?」
なんだ、その返し。
三井は面食らった自分のリアクションにヘラヘラとまた笑う読めない男に苛ついた。
それは裏返しに会ったことがあると言ってないか?
どうしてこいつと駆け引きめいたやりとりをしなきゃいけないんだ、と三井は早くもキレ始める。試合では近くにいたかもしれないが、親しく話すには距離があって当たり前の相手だ。
「悪かったな。こっちの勘違いだ、きっと」
「今度会ったらどうしてくれようかと思ってたけど」
言い捨てて踵を返した背を引き止めるような声に三井が思わず振り向くと、仙道は剣呑な言葉の内容とは裏腹に、薄く笑みを浮かべながら手に取っていた雑誌に目を落としていた。
睨み続けていると、雑誌を棚に戻し、ゆっくり正面から三井を見てくる。
「時間あります?」
ニッコリ笑って問われて、三井は売られたケンカを買うように勢いよく首を縦に振った。
「まだ人はそれほど多くはないですねぇー」
どうでもいい世間話のような言葉に、三井は海岸線を眺め、だが返事はせずに仙道を睨み上げた。
波間にサーファーはチラホラ見えるが、光を反射する波打ち際には散歩する地元の人間くらいしかいない。
「おれ地元は東京だから、海っていうと真夏の混んでる浜辺しか知らなかった」
「で、どこで会った?」
おれは何かしたのか?と本当は聞きたかった。今はチームの足を引っ張るようなことはできない。
仙道のさっきの口振りからすれば、あまりいい出会い方をしたと思えなかった。であれば、きっと不良時代。ケンカした相手だったのか、難癖つけて絡んだ奴だったのか。
できれば今ここでケリをつけておきたかった。来週にはもう合宿に出て、その後はすぐにインターハイ本戦が始まる。
「高校入ってから釣りにはまっちゃって。海見てると落ち着くんですよね。こんな過ごし方があったんだなーって」
仙道はわざとなのか読めない笑顔で遠く眩しそうに海を見ながら、三井の問いを無視してどうでもいいような話しを続ける。
「おい、」
「短い髪も似合いますね」
突然仙道は振り向いて三井の顔を覗き込んだ。
決定だ。不良時代の因縁。
三井は顔を強張らせて仙道を見た。その仙道は珍しく笑みを引っ込めて、難しそうな顔を作ってまた提案してきた。
「明日はヒマです?」
「は?」
ここまできてまだ引っ張るつもりか?と、三井は眉間の皺を深くして相手を見つめる。
「ここまで引っ張ってきてホント申し訳ないんですけど、そういえばおれ今日はこのまま部に出なきゃいけなかったんです。よかったらバスケしませんか?リングのある場所知ってるから」
近場とはいえコンビニから連れてこられた挙句の仙道の言葉に、三井はちょっと唖然とした。ふざけんな、とキレかけて、弱みはこちらにあったのだと思い直してこらえる。
明日の練習は午前のみで確かに時間はあるが、すぐに食いつくのも相手の出方がわからずに躊躇われる。だが今この時期に文句も言っていられなかった。
「どこに行けばいい」
問えば仙道は大きな口を開けて楽しそうに笑った。
三井が指定された場所に行くと、約束した時間にはまだ大分早いにも関わらず、仙道はすでにそこにいてスリーポイントラインからシュートを打っていた。
ボールがリングに当たり高く跳ね返る。
「前はもうちょい入ったんだけどなー」
ハーフコートの中に入ってきていた三井を振り返らず、だがそこにいることはわかっているのだと仙道は声をかけた。
「おまえは何かとムラがあるからじゃねぇの」
1回試合で手合わせしただけだが、印象に残った気の入れ方の温度差を思い出して投げやりに言う。
「うーん…そんなつもりはないんですけどねぇ」
片手でボールを回転させて持ち直し、再度ライン外からボールを放つ。今度のそれは高くきれいな弧を描いてリングを通過した。
「軸がブレてんじゃねえ?今のはよかったけど」
「え?」
仙道がきょとんとした顔で三井を見てきたので、思い当たることを指摘する。
「おれが近付いてきたとき、その情報が邪魔して体の芯まで気がいってなかったんだ」
対海南策でPGとしてコンバートされたばかりであれば当然の気の散りようかもしれなかった。
ビデオの海南戦で見た仙道は問題ないどころか自在にこなしてはいたが、これからもPGを務めることがあればゴールだけに集中することはできない。仲間をうまく使いゲームの流れを読んで組み立てられてこその司令塔だ。しかしゲームによってはフォワードを兼任しつつ更に上を目指すのであれば、いつまでも言い訳にすることはできない。フォワードとして集中できない仙道の器用さを少し気の毒には思う。
「そっかー」
ボールを何回かバウンドさせて構え直す。
ボールはまたきれいに籠を揺らせた。
「左から犬を連れた女性。右はじゃれ合ってる小学生」
「何人?」
「3人」
「あと散歩してるじいさんな」
仙道は焦ったようにコートの金網の外を見た。
「ホントだ」
「まーそこまで遠くを把握する必要はないと思うけど」
来年は魚住も陵南にはいない。仙道にとっては海南戦での苦しかった時間帯が当たり前のこととなる。
あの控えセンターがどこまで伸びるか、まだ見ぬ新人に期待を託すのか。
仙道の類を見ない才能を目の当たりにしただけにチームとしての陵南を思い返し、少し勿体ないな、と思った。
翔陽の藤間しかり。チームの中の欠けた何かを補うために自分本来の力を出しきれないのは歯痒いだろう。
「おれは陵南に来てよかったと思ってますよ。おれが起点になってパスが通ってシュート決まるの、自分が決めたときと同じくらい気持ちいい」
三井が考えていたことを読んでいるようなことを言って、またボールを構える。ボールはまたリングに嫌われて三井の足元に転がってきた。それを拾い、三井は軽くドリブルして構える。ボールは過たずリングを通過して落ちて弾んだ。
「おれは集中して打たしてもらえるからな」
「やっぱりきれいなフォームだなー」
ボールを受け取った仙道は、こうかな?と言いながらボールを構える。それはさっきの完璧に見えた仙道自身のフォームと微妙に違って、三井は瞠目した。この再現能力の高さも才能のうちなのだろう。見たままを即コピーできる人間などそうそういない。
そういえば試合でも流川がやられてたな、と思い出す。ボールはきれいにネットのみを揺らして地面に落ちた。
仙道はああ言うけれど、一人で一試合50点近くもぎ取ったという一年のときの暴れっぷりも見てみたかったな、と三井は思った。
「思い出せました?」
ふいに問われ、そうだ、そのためにここに来たのだったと三井は思い出す。
「…わからねぇ」
一晩かけても思い出せなかった。こんなやつを忘れるとは思えないのに。
正直に言えば、仙道はちらりと三井を見て、ボールを拾い上げ、三井の元へ足を向けた。自分の顔の上に影ができたと思った次の瞬間、唇に暖かい何かが降ってきて、キスされたのだ、とわかったときには仙道はもう離れていた。
「てめっ…!」
茫然として、驚いて、怒りが湧いてくる。口元を腕で拭い仙道に詰め寄ろうとしたとき、きつめのパスが胸元に飛んできて焦って受け止める。
「ヒントは一日一つね。さーバスケやりましょう。三井さんからどーぞ」
悪気のないような笑みを浮かべて、仙道は言った。
「あれがヒントかよ?!嫌がらせじゃねーか!」
怒り狂う三井を前に堀田は困ったようにストローをすすった。
「嫌がらせ?何された?」
「え…」
三井は問われて言葉に詰まって顔を赤くした。堀田はそれを見て太い眉の間に深い縦皺を刻む。
「…やっぱシメとく?」
「やめとけって」
三井は屋上の床にひっくり返って空を見上げた。
こんなことは部の連中にも相談できない。自然、屋上にサボりにきていた堀田に愚痴を漏らすことになる。それも要所は隠して言うものだから、堀田は困ったような表情を浮かべるばかりだった。
髪を伸ばしていたことを知っていた。
キスされた。
その後何回かバスケを一緒にやって、…それだけだ。
「やっぱ鉄男に聞いてみっかなー」
「それは…」
「なんだよ」
気まずそうに言葉を飲み込んだ堀田に唇を尖らせる。
あの頃のことならツルんでいた時間の一番長かった悪友に聞くのが一番だと思いついたのだが、自分でも会いにくいとは思うのだ。
病院の前で偶然に会ってから鉄男からは何の連絡もない。それが不必要な馴れ合いの言葉は持たない鉄男ならではの優しさであるのだろうことは、三井にもわかる。それに寂しさを感じるのは自分の我が儘な甘えでしかない。
「ちっ」
つまらなくなって昼寝でもするか、と目を閉じた。
今日の呼び出しにも応じたものか。
すぐにどこで会ったか教える気もなさそうだし、ヘンなことはしてくるし。
特に恨み言を言うわけでもない仙道だから、このまま会いにいかずに放っておいても問題がないような気もする。鉄男の不器用な、柄じゃない心遣いを無駄にするまでもない。
それでも。
錆たリングのある公園の一角のハーフコートに佇む長身を思い出す。
わからない、と言ったとき、小さく笑った横顔が残念そうに見えたのは気のせいだったのか。
「あーくそっ!」
寝れねー!と起き上がって伸びをする。
夏休みが始まればすぐに合宿で、それが終わればもうインターハイ本番だ。
「仕方ねーなぁ」
「また行くの?」
「んー、あぁ。今日でキメてきてやる」
何をキメるんだかわからない言葉を残した三井に、堀田は心配そうにその背を見送った。
「今日は来ないかと思った」
約束した時間に大分遅れてコートに現れた三井に仙道は微笑みかけた。
「おう…。今日は、」
ミョーなことすんなよ、と言いかけて、却って意識していると取られるのも嫌で三井は唇を尖らせた。仙道はそんな三井を見てまた笑う。
「今日のヒント!」
「まぁまぁ」
仙道はスリーポイントラインからシュートを打った。3本連続で成功させて三井を振り返る。
「どうですか?」
「うん、いんじゃね?これが試合中でも出せればな」
「そこなんですよねー」
もう一度放ったボールはリングに当たり、それを取りに三井は走った。
「んじゃ、今日もおれからな」
「え」
言うなり、ドリブルで下がってライン外から打つ。きれいに弧を描いてリングに吸い込まれたボールに満足して、キシシと笑う。
「えー今のもカウントすんの?」
「たりめーだ」
「じゃあその前のおれの三連続3Pもいれて」
「甘えんな」
「横暴だなー」
口でブツブツ言いながらも仙道はどこか楽しげで、三井も調子に乗る。
会うきっかけとなった事がなければ、仙道は気のいい後輩で三井をうまく立ててくれて、二人で競う1on1も楽しかった。時間はあっという間に過ぎるし、仙道クラスのプレイヤーから得るものは大きい。
「…合宿、いつから…でしたっけ」
「明後日っから…1週間」
「長い…なぁ」
「…」
「その間…会えないんだ」
気をもたせるようなこいつの言い方は何だろう。
三井は苛立ちまかせにドリブルしつつ強引に抜こうとして突っかかり、仙道の肩に強かに体を打ちつけた。さすがに受け止めきれずに仙道の体が後ろに倒れ、バランスを崩した三井もその上に乗るようにして倒れ込んだ。
仙道の匂いを間近で感じ、「わるい」と一言かけて焦って起き上がる。腕を取られて、それを引っ張りあげて助け起こそうと逆手に掴み、あ、と思った。
これだ。この感じ。
一瞬の躊躇の後、絡んだ腕を引っ掴み立ち上がった仙道と勢いあまって体がぶつかる。
「…おまえさ、おれといて楽しいの?」
「確認したくて」
「何を?」
疑問に答えずに見つめてくる瞳が居心地悪い。握ったままだった手を解くと、仙道も掴んでいた自分の腕を離した。
さっきはもう少しで思い出せそうだったのに。
思わせぶりなこの男とこれ以上一緒にいると何か他のことを考えさせられそうで、困る。何が困るかわからないけれどもとにかく困る。
「で、なんだよ。ヒント!」
「今のかな?」
「今の…?」
「なんか思い出しかけたでしょ、今」
「え?」
仙道の変わらない笑みに瞬間苛立ちが募った。
「おまえ!ちゃんと思い出させる気があるのかよ!ってか、思い出させてどうするつもりだ?!」
苛立ったのは自分にだ。このまま仙道と一緒にいたいとか。ずっと約束が続けばいいのにとか。
わけのわからない欲求やら湧くはずのない感情やらが溢れて自分で制御できなくなった。
徐々に笑みを無くしてゆく仙道の表情を見ているのが辛かった。怒るより目からヘンなものが溢れ出そうで焦った。
「そもそもホントに会ったことあるのかよ!」
「…そうかも。おれの気のせいだったのかも」
いつものように卒なく笑ったのに、その顔は見慣れてきていた三井の知っているいつもの仙道ではなかった。
「ごめん、三井さん。別に過去に何があったところで、おれはあなたにどうこう言うつもりはなかったんです。本戦、がんばってください」
そう言ってボールを拾い上げ、三井を見ることなく仙道はコートから出て行った。
桜木は合宿に来なかった。スペシャルメニューとやらをなんと贅沢にも安西先生を独占してこなすらしい。
「おれももう帰ろうかなー」
「バカなこと言わんでください」
合宿のメニューは予め安西先生と話し合い決めていた。合宿先のインハイ常連校である常誠高校との練習試合も組まれている。最終日の今日は勝って安西先生に報告したい。昨夜三井自身が夕食の席で部員に演説をぶっていた。宮城はそれも忘れたか、と細い目を向ける。
「ち。ジョーダンだよ。練習試合でもおれがいないと困るもんな!?」
「それはナイナイ」
「てめぇ!」
体を乗り出しかかってこちらを睨みつけている赤木と目がい、口先を尖らせるのみで終わらせる。おれも角が取れてきたよなぁ!と自分をホメて三井は苛立ちをおさえた。
午前中に最後の練習試合を終わらせれば、準備支度をして午後イチでもう神奈川に戻る。長いと思った1週間の合宿もインターハイ本番を思えばあっという間だった。その時間はバスケット以外の余計な思いを締め出せておけたのに。
いや、もう仙道は過去は関係ないと言ったのだから、自分も気にする必要はないのだ。
ただヒマだったとか。もしかしたら試合に負けておもしろくない気持ちがあったとか。
考えて、三井はすぐに違う、と否定した。あいつはそんなつまんねー男じゃない。
仙道はよく笑う男だったが、一緒に過ごす時間が長くなるとその笑い顔にもいろいろな表情があるとわかった。
機嫌を取ろうとしている時とか。こちらを探ろうとしている時とか、本当におもしろがっている時とか、ちょっと機嫌が悪い時とか。
どれも笑顔だったが、ちょっとづつ違っていて。
最後に会ったときも笑顔だった。笑顔で、言葉はストレートじゃなくても、もう会うのは終わりだと示された。
飽きたのか面倒くさくなったのか。
あの笑顔がもう自分には向かないのだと思うと、息がしづらくなってまた目からおかしなものが出そうになる。
「こっちが願い下げだっつの」
思わず頭の中に浮かんだツンツン頭に向かって悪態をつけば、向かいにいた無口な後輩が眉を寄せた。
「なに」
「なんでもねー」
独り言がもれていたことに気づいて仏頂面で誤魔化すが、その後輩が腕を通していた真っ赤なユニフォームが自分を睨むように見ていた顔に被り、その目つきと色彩で自分が狼藉を働いた体育館を思い出した。
「あ…」
堀田を思い出し鉄男を思い出し、ツルんで遊び歩いていた時間を思い出す。
薄暗い地下のバー、紫煙の中にダーツがあって、ビリヤード台の上には割れたボトルがあって。
倒れている男たち。踏み出す鉄男の先にキューを持って立ちすくんでいるガキがいて。
自分が何か叫んだ。
固まった三井に流川が再度「どうした?」と声をかけてきたが、三井は「わるい。なんでもない」と視線を断ち切った。
いるわけない、と思って行った公園内のハーフコートは知らない中坊たちで溢れていて、三井は息をついた。
他に仙道がいそうなところ、と考えても思い浮かばない。そういえば連絡先も交換していなかったことに今更ながら気づいた。当たり前だが会う場所も仙道まかせで、そのほとんどがこのバスケットコートだった。
会ってどうする、という思いは消えずにあった。
自分でも訳がわからずに苛ついて仙道に当たったのに。仙道ももうゴメンだと思ったから次の約束もなかったんだろうに。
初めてコートの外で会って、引っ張って行かれた海岸線へと足を向ける。釣り…そうだ、釣りにハマったとかなんとか言ってた。
普段何気なく見かける突堤に並んだ釣り人をイメージして、そういえば朝のランニング中にそんなような光景を見たと思い出してその場所へ急ぐ。
暮れかけた海を見てもう釣りなんかやってる人間はいないか?と見渡して、夕焼けの逆光の中、突堤の先にポツンと一人座り込んでいた人影を見つけた。
こういう時は見つけやすくていい髪型だな、と三井は海岸線を走った。
横顔が判別できるくらいに近づくと、三井は急いでいた足を遅くした。
何を考えているのかいつも読めなくて苛ついた顔は、好きな釣りをしているとは思えないほど寂しそうに見える。
「おまえ、すごい背伸びたのな」
隣までなんとか足を運んで思い切って声をかける。仙道は微動だにせずに釣り糸を垂れたままだった。
「…あれから20cmくらい伸びました」
返事があったのに安心して、三井はその隣に同じように座り込んだ。仙道が静かに口を開く。
「おれの家は共稼ぎで二人とも残業やら出張やら多くて。夏休みとか長い休みは神奈川の叔母の家に預けられてたんです。その家の息子…従兄がちょっとワルいヤツでね。夜に家を抜け出していろんなとこに連れまわされて。夜遊びが楽しかったわけじゃないけど、好奇心だったのかな。あの時はバスケ以外のこともやってみたかった」
それであんな場末のバーにいたのか、と合点する。
きっかけはなんだったのかもう忘れた。どうせ大したことない、肩が当たったとか目つきが気に入らないとかなんとか。そんなよくある不良同士のケンカだった。
気づけば鉄男が暴れていて、相手のグループはほとんど床に這いつくばっていた。いつもだったら放っておくが、鉄男が足を向けた先を見て驚いた。見るからに線の細そうなひょろひょろした、まだ中学生と思われる子供のようなやつがキューを持ったまま突っ立っていた。
鉄男は暴れ始めると止まらなくなることがある。止め時を自分でわからなくなるのか、そんな時には制止しようとした仲間にまで拳を振り上げた。
最初、三井は自分が何を考えてそんなことをしたのかわからなかった。流血と暴力に沸き立って暴走する脳を止めることが出来ず、腕力で敵うわけもなく。ただ鉄男を驚かせて正気づかせたかったのか。
三井は殴られることを覚悟していきなり鉄男に抱きついてキスをした。鉄男は鉄男で驚きもせずに、三井の後頭部の髪を鷲掴んで噛みつくように貪ってきた。それが長く続くと、鉄男は三井を突き放し、ケンカが終わる。いつからか鉄男を止めることができるのは三井だけ、という不文律が生まれてそんな茶番をまかされるようになっていた。
『そいつまだガキだぞ!』
突き倒された中坊の腕を引っ張り上げて、鉄男に向き直り、いつものように乱暴にキスをした。
「髪の毛もそんなんじゃなかったな。サラッサラだったじゃねぇか」
「あなたたちが逃げた後にすぐに警察が来て補導されて。東京で高校から推薦もらってたけど、バレてパーになりました」
仙道は三井にようやく顔を向けて、にっこり笑ってとんでもないことを言ってきた。固まる三井を安心させるように首を振る。
「自業自得ですから。まああの時は頭まっしろになったけど、その後すぐくらいに田岡先生が陵南に誘ってくれて。従兄と叔母も、もう絶対こんなことはないからって先生に頭下げてくれました」
わからなくったって仕方ないと思う。あの時の中坊と今の仙道じゃ2年近く経った今、2回り以上サイズが違う。縦も横も。髪もツンツン逆立っておらず、降ろされてサラサラしていた。今の仙道も人が振り返る男前だが、あのときは少し下がった目尻が印象的なそれはきれいな顔をしていて、助け起こしたときに驚いた覚えがある。ほとんど詐欺だ。自分よりこんなにデカくなるなんて。
「…わるかった…」
「それより目の前で繰り広げられた男同士のベロチューの方がショッキングだった」
「…あー」
それについては申し開きのしようがない。なんと説明していいのかわからず、三井は頭を抱えたくなった。
「誰と付き合ってもあのキスを思い出しちゃって。なんで思い出すのかわからなかったけど、あのときおれ、興奮してたって思い出したらもっとショックで」
しおしおと未だショックを受けているのだとばかりに仙道は片手を胸に当ててみせる。三井はもう顔を上げることができなくなった。
「それなのに三井さん覚えてないし。…おれはすぐわかったのに」
「あれは…その…あいつとつきあってたとかそーいうんじゃなくって…うー…」
「だから確認したかったんです。おれ、三井さんのこと好きになっちゃってたのかなーって。いろいろ連れまわして、なんだやっぱりフツーの男じゃんとか。こんなつまんないヤツだったんだ、とかそのうちに思えるんだろうなーって。でも違った」
仙道の言葉に三井は顔を上げ、仙道を見た。
「三井さん、やさしいしかわいいし。やっぱり好きだなーって確認しちゃいました」
そういって笑った顔は三井がはじめて見た笑顔だった。
自分の顔が赤くなるのがわかる。三井は再度下を向いた。もしかして夕日でわからないかもしれないし。
「おれがやさしい?かわいい?ナニバカ言ってんだ、おまえ…」
引っ掛かりを覚える言葉にも、どもって強く返せない。
「やさしくない人は他校のライバル選手の立場にたってアドバイスなんてしないし、かわいくない人はそんなに赤くなって照れたりしません」
しっかりバレてた。ますます顔を上げられなくなって三井はテトラポッドのフナ虫を数え始める。
「…ねぇ、そんなに照れちゃうってことは少しは期待してもいいんですか?」
「わかんねぇ。わかんねぇけど…おまえともう会えなくなるのは絶対イヤだ」
しつこく覗きこんでくるのに根負けして、仙道へ小さく顔を向ける。その頬へ片手を伸ばし、少し乗り出してきた仙道の体を迎えるように、三井はゆっくりと目を閉じた。
「で、なんだよ。その髪型」
指摘されて、仙道は自分の前髪を一房つまんで見せた。今日は髪をツンツンに固めておらず、洗いっぱなしを無造作に横に流しているだけだ。
「だって三井さん、あんまり詐欺だウソだって言うから」
「おまえの場合は髪型だけじゃねぇんだよ」
三井は唇を尖らせて、隣を歩く男の分厚い胸板を裏拳で叩いた。
「ナニ食ったらこんなんなるんだか」
「三井さんは変わらないですよね」
「…あ?ケンカ売ってんのか?」
「まさか。スタイルいいなぁーって」
「おまえに言われたってホメられてるよーに感じねーよ」
ぶつぶつ言いながら遠く前方に目をやると、早朝の人気のない駅前に似たようなデカい体格の男が2人、こちらを窺うように首を動かしているのが見えた。
「ち。もういやがる」と三井は呟いて、仙道が持つと言ってきかなかったドラムバッグを奪うように取り上げる。
「もうここらでいいから」
「はい…」
仙道は過度な言葉を吐かない。だが、三井はもちろん頂点を狙うつもりでいる。
これまでに打ち勝ってきた者たちのためにも。
目の前の男を含めて。
「帰ってきたら…」
「はい」
「…また連絡するから」
「はい」
「…ナニしてんだ」
「え、いってきますのチューは?」
「殴られてーのか?」
仙道は笑って両手を上げる。それは三井の大好きな満開の笑顔で。
「ジョーダンですって。がんばってきてくださいね」
「おう!」
足を踏み出し、しばらくしてふと後ろを振り返ると、にこにこ笑ったままの仙道がいた。
三井はドカドカと4,5歩大股で戻って仙道のTシャツの胸倉をつかみ、シャッターの降りたままの店先へ引き込んで掠めるように唇を合わせた。それだけで痺れるような感覚が唇から伝わって身を焦がす。これくらいいいだろ。自分に言い聞かせて。
もう後は目も合わせられずに背を向けた。それへ「いってらっしゃーい!」と仙道の能天気な声が追いかけてくる。
バッグを抱えた腕とは反対の腕で背後の仙道にガッツポーズを作って、三井は真っ赤な顔をくしゃくしゃな笑みに歪めてから顔を振り上げ、駅へ足を踏み出した。