knock on wood
三井の自分勝手で自己中で俺様な性格は周囲の人間の共通認識ではあったが、根のところで人がよく、面倒見もいいし、頼って来る者を無下に拒まないところもまた異論の出ることのない一面だった。
進路を検討する上で見学したいのだとねだれば、渋い顔をしても三井は親身になってくれるだろう。
仙道の目論見通り、三井は自分の通う大学の敷地内と構内、それにバスケ部の使用している施設の見学の計画を立て、案内をかってくれた。
蔦の這う古びた校舎は歴史を感じさせて、その中を行き交う学生は当たり前だがみな私服でなんとなく大人っぽく見える。キャンパスライフに憧れたことなど一度もないが、一年後、自分も私服で三井と並んで歩く様を考えると悪くない。
進路先候補の見学ということで、部の連中にも田岡監督にも堂々とお休みをもらっている。
推薦をくれた大学でもあるので、バスケ部からも見学に来るなら案内すると言われていたが、もちろん三井の案内の方が楽しいに決まっている。帰りはそのまま三井の部屋へ行くことだって自然な流れだ。
そう、自然だ。
帰りは何か食材を買っていこうか、三井のいつも行く外食でもねだってみようか。いや、外食だとそのまま神奈川に帰らされる可能性が強いから、何かコンビニ弁当か惣菜でも買っていくか。
楽しく、だが計画に漏れのないよう頭を働かせていたが、まだ待ち合わせの時間には早い。
三井は今日は4限まであってまだその講義が始まったばかりの時間だった。担当教授の出版した値の張る学術書さえ買えば単位が取れるとブツブツ言っていた確か民俗学。そこまでは聞き出している。ちらちらと自分を窺ってくる女の子のグループに愛想よく近づいていって首尾よく教室番号を聞き出した。
すり鉢状の広い講義室は後ろのドアからそっと入れば誰も気にしない。自分の高身長は心得ていたので一番後ろの席に座り、茶色の短髪を探せば、窓に近い座席で肘をつき、こっくりこっくりと船を漕いでいる小さい頭がすぐに見つかった。
顔が見えなくても三井がどんな表情をしているのか目に浮かぶ。
思わず笑みが浮かんでしまった顔で誰憚ることなく見つめていると、その三井の肩を肘で押す腕が目に入った。
座って並んだ座高は三井よりも大きいくらいなのでバスケ部のお友だちかなーと見ていたが、Tシャツから伸びる陽に焼けた肌を見るとそうではないようだ。が、しっかりした体幹は何かしらスポーツをやっているようでもある。
それでも起きない三井に、今度は髪をひっぱっている。少し慣れ慣れしいんじゃないだろうか、と思っていると今度は頬を指でひっぱり始めた。
さすがにこれは許容範囲外だ。
仙道は席を移動しようとして、横に長く繋がった机と一体化した独立してはいない椅子だったことを忘れ、足で蹴って大きな音が立つ。講義中の教授は聞こえなかったのか気にもとめないのかそのまま授業を続けたが、周りの人間の視線は集めて、ヤベェと思って見ると、転寝していたはずの三井が顔を顰めてこちらを睨んでいた。
「どうだった?」
「え?」
三井に問われたのが何を指していたのだか一瞬わからず、仙道は箸を持った手を止めた。
「おまえ何しにきたんだよ」
呆れたような声で言われて「いろいろ考えちゃって」と笑って返す。
「そりゃそうだよなー。進路なんて難しいよなー」
三井は仙道の頭を占めていたものを勝手に想像して頷いた。仙道にとってもそれは都合のよいことだったので、そのままにしてまた曖昧に笑う。
進路はもうほぼ決めている。今日来たのは確認と下見だ。三井にそれを告げれば何かと説教を食らいそうだから、もう少し進路決定に切羽詰まる時期をみて話そうと思っている。それより今は。
「お茶飲みます?コーヒー?」
仙道はローテーブルの上の皿やらゴミをまとめて持って立ち上がり、テレビに気を取られたままの部屋の主に尋ねた。三井はといえば「麦茶飲むー」「おまえってホントまめだよなー」とか呑気に伸びをしている。
「明日も大学見学なんですよ。一気に回っちゃおうと思って部にも休みもらってます」
「ふーん。まあ電車代とかもったいないもんな」
「そう、もったいないし。でね、」
三井に麦茶のコップを手渡し隣に座り込む。食事の時は向かい合っていたのに自分の隣にきた仙道に三井はちょっと間を空けたが、仙道は気づかないふりをしてそのまま続けた。
「ここに泊まっていいですか?」
「へ?!」
三井は今度こそ固まって言葉に詰まった。
三井がここのマンションに越してから何度か仙道は遊びにきた。引越しだって手伝ったし、自分と三井の空きの時間を見つけてはこまめに通ったのに未だに泊めてもらったことはない。泊めてもらったことがないどころか。
「おまえ実家は?東京だろ?」
「ほぼ23区横断しないとだし。遠くて」
「…だって布団とかねーし」
仙道はニッコリ笑って背後のベッドに手をのばし、パンパンと叩いた。それを見た三井の顔が赤く染まり、アーだのウーだのどもりだす。
「ダメですか?」
目を覗きこめば逸らされる。そんなこんなで三井がここに越してからまだキスしかもらっていないのだ。もうすでにあんなこともこんなこともやっちゃってるのに。
三井が卒業してから早3か月。
首尾よく恋人関係にもちこめたと思っていたのははじめの1か月ほどだった。
どうにも三井の態度が固い。「恋人ですよね」と言葉にすれば、またなんだかんだと理由をつけて逃げ道を与えてしまうので、外堀から埋めていこうと思っていたら、意外に三井の守備は堅かった。
本気で仙道の将来のことを考えているのかもしれなかったが、それとは違う戸惑いのようなものも見える。キスは許してくれるし。
最初ちょっと突っ走っちゃったからなーと仙道も反省しないでもない。もしかして後ろを使うセックスはもうごめんだとか思っちゃってるのかもしれない。が、仙道も今はいろいろと勉強して、ちゃんと三井にもご満足いただける自信はあるのだ。
ゆっくりと進める気ではいたがいろいろ気にかかることがある。
例えば今日講義で見かけた三井に気やすく触れる腕だとか。
大学構内で三井に気軽に声をかけてくる人間だとかバスケ部でやっぱりもう馴染みまくってる三井に構ってくる先輩だとか。よく行くコンビニの愛想のいいバイトくんからマンションの気の良さそうなお隣さんのおじさんにまで。
こんなことを気にする人間だったんだ、と自分でがっかりだ、が。
「じゃあおれソファで寝るわ。あれベッドになるし。おまえベッド使っていいぞ。おれ明日も練習あるしもう寝る」
「三井さん」
「風呂入れ」
つれない三井は仙道を置いて立ち上がる。
あたしとバスケ、どっちが大事なの?!
横になり、暗闇の中で同じ部屋の中の三井の寝息を聞きながら、寝られない仙道はいつだったか言われためんどくさい部類の女子の言葉を思い出す。思考がループに陥りかけている、と自覚して聞こえないように小さくため息をもらした。
明日も練習があるという先輩のベッドを使うことは憚られ、寝返りを繰り返した挙句仙道は音を立てないように気をつけながら起き上がった。暗闇の中で頭をかき、水でももらおうかとキッチンへ足を向ける。
「寝られないか?」
寝入っているとばかり思っていた三井からふいに声をかけられて、仙道は暗がりの中、ベッドがあると思われる方角へ顔を向けた。
意外にお坊ちゃまだったらしい三井の部屋は、自分と同じワンルームには違いないが、10畳ほどの広さにトイレと風呂は別だし、荷物置き場になってしまっているがかなり広いロフトまでついている。ソファベッドもデカい自分が寝てもギリ足の指が出るくらいで、ベッドはセミダブルで余裕があってちょっと羨ましい。
部屋を出たキッチンからベッドの上の三井の表情は、ブラインドから入る外の僅かな光では距離も邪魔をして推し量ることができなかった。
「すみません、起こしちゃいました?」
「いや…。あー…おまえこっち来るか?」
「いえ、ベッドは先輩使ってください」
「…来いって」
仙道は戸惑い、期待はしないようにと自分に言い聞かせて、そっと三井に近づいた。
外からの淡い光が半身を起こした三井を青白く浮き上がらせている。仙道は静かに上掛けの上からベッドに腰掛けた。
「…ごめん、おれ…焦らしてるわけじゃないんだ」
「はい…」
輪郭が朧げな三井はいつもの勢いがなく、どこか途方に暮れたような顔で幼く見えた。濃い睫毛がじれったそうに揺れ、ぽってりした唇を赤い舌が舐める。
「おまえを…ホントに自分のものにしちゃっていいのかなって」
やっぱりそんなこと考えてたんだな、と仙道は思う。三井の考えていることを、頭の中にあることを知りたくて、急かさぬように、自分の情動を抑えこんで上掛けの上に置かれた手を見つめる。
「おれが大学行けば自然に距離ができておまえも目を覚ますのかもしれないって思ってた。けど、おまえちょいちょい来るし。…そしたらもう大学もここに決めたって。コーチに言ったって?」
あ、バレてた。自分で説明しようと思っていたのに。
「…おれがいるから、じゃないよな?」
「それはもちろんありますけど」
自分の言葉に三井が不安に揺れていた目を見開くのがわかった。他にも言い出しにくい、自分でもまだ悩んでいる件があった。
「…留学の条件も一番よかった」
今度は三井は動かなかった。きれいな大きい瞳が闇の中で自分を見つめている。その瞳の中の自分は今どんな表情をしているんだろうか。
「今すぐってわけじゃなくて、それなりに成績残せて、教養課程が修了したら、の予定ですけど」
「そうか…」
さっきより三井の表情が和らいだような気がするのは僻みだろうか。
三井を自分のものにしたいと何よりも願っているのに、数年後には置いていく。そのことにこの人が安心しているようで。
どうしたら自分の本気をわかってもらえるんだろうか。
布団の上に置かれた、ほの白く浮かぶ三井の手をそっと撫でた。
同じバスケットボールを追う手。
しっかりとした男の手だけど、自分よりも細く繊細だ。この手であのきれいな3Pを打つ。少し丸い爪の先まできれいだ。
手に取って小指を根本から爪先まで辿る。他の指も1本づつ撫でて、薄く血管の浮かび上がった手の甲へ滑らせる。三井が小さく息を吸う音が聞こえて、仙道は顔を上げた。
手を伸ばし、ゆっくりと目を閉じた三井の頬をそっと覆った。
そのまま引かれるように唇にキスをすれば抵抗なく受け入れられる。
軽く触れて離れて、もう一度欲しくなってまた口づける。
触れるだけにして離れようとすると、三井の口が小さく開いて下唇を柔らかく食むようにキスされる。思わず開いた口を追うようにするっと入ってくる舌に驚いて肩を掴んだ。
「我慢できなくなっちゃうから」
「…するなよ」
自分の方に引き寄せるように三井の両腕が仙道の首に巻かれる。
この人の匂い、熱、肌。全部全部焦がれたものだ。
おれだけのものになってよ。
言葉には出さずに、唇と舌に込めて想いを三井へ送る。
薄く開いた三井の瞼の奥が潤んで、自分を受け入れてくれたと思った。キスを深くしながらゆっくりと三井の体を倒していく。
その時玄関のインターフォンが鳴り響き、暗い部屋の中に起動したモニターの画像の光が乱暴に差し込んだ。
『おーい、三井ー!』
『いるんだろー!』
『ちょっと声大きいですよ!』
三井が弾かれたように起き上がり、仙道もつられて半身を引き上げた。固まったように二人で玄関ドアの方を見る。
「…誰?」
「部の先輩達だ…」
外廊下までは距離があるし、モニターの集音マイクも距離があって部屋の中の声は拾わないだろうとは思ったが、ついひそひそと小声になる。
「もう部屋の外にいる…」
「え、オートロックは?」
確かここのマンションは1階のロビーに入るにも鍵が必要で24時間の有人管理だったはずだ。
「先輩、顔パス」
「…オートロックの意味ねぇ。ってか、そんなにしょっちゅう来るの?」
「おれまだ新入生だからなぁ」
ひそひそと話している間にも外はにぎやかなままだ。インターフォンを容赦なく連打してくる。
「先輩達も明日練習でしょ?」
「みんなツワモノだからな。オールで飲んで翌日の練習でぶっ倒れて、医務室で点滴打ってまた練習に戻ってきた先輩もいる」
「…体育会ってヤダなぁ」
というか、こんな話は聞いてない。三井の部屋にそんなに先輩の襲撃があるなんて。
『おーい?三井ー?』
『ホントにいないんじゃねぇの?部屋電気ついてなかったし』
『あー今日そういえば高校の後輩が来てたなぁ』
『外に飲みに出ちまったか?』
収束方向に向かっているらしい話の内容にホッとする。今この部屋には誰も入れたくない。
やがて玄関の外は静かになり、モニターの画像が消え暗闇が戻る。部屋の中もいきなりシンとする。
どうしよう。
振り返ると三井も気が抜けたように仙道を見る。
「…寝るか」
「……………はい」
毒気が抜かれたように呟いた三井に、仙道もただ頷くしかできなかった。
前に進んだような進まなかったような。後退したのではないことは確かだと思うけれども。仙道はボールを手にため息をついた。
ついこの間まであの人もここにいたのになぁ。
わかっていたことだけれど、俺サマな先輩の不在は思った以上に、大勢の部員で埋まった活気のあるはずの体育館を寂しく見せた。この年の一年の差は小さいようでとても大きい。
「進路先、迷ってるのか?」
気づけば福田が自分のすぐ隣にいた。
「んー、まあそう、かな」
先週、仙道が大学見学で部を休んだことは部員ならみな知っている。ため息をつけばそこに結び付けられるのも当たり前かもしれなかった。ただ自分の頭を占めていることとは違うだけで。
「三井先輩、元気だったか?」
「うん…元気だった」
三井のことを聞かれるとは思わず、少し驚いて福田を見る。思えば福田も三井を早くから受け入れていた一人だった。二人でボーッとコートを眺めていると、副キャプテンから怒鳴り声が飛んでくる。
「そこ!またなに遊んでんだよ。下にシメシがつかねぇだろ?!」
「仙道が三井ロス」
「福田は魚住ロス」
「はあっ?!」
越野はちょっと複雑そうな顔をして二人を眺めた。
「…その先輩達のためにも今年こそインハイ本選行かなきゃだめだろ。おれ達も今年が最後だ」
そうか、そうだな。またインターハイを逃したとなれば三井にどんな罵詈雑言をくらうことか。
あれから一年も経ったんだ。
三井とのきっかけになったとも言えるインターハイ。ふと他校の生意気な一年坊の顔が浮かび、いや、あいつももう2年か、と考える。今年こそ叩いておくべき相手であることを仙道は認識した。
「インターハイ本選出場記念のお祝いは?」とねだると、ぽけっとテレビを眺めていた顔を三井は赤く染めた。話の脈絡としては多少おかしなリアクションだが、仙道は三井の頭の中にも自分と同じ懸案があるのだと満足する。
それでもいいんだけど。
仙道はニコニコしてかねてから考えていたお願いを実行することにした。もっともっとよくばりで中長期的なおねだりだ。
「やっぱり大学のそばに下宿したいなーと思いまして」
「あー実家が同じ東京でも通学にちょっと時間はかかるよなぁ」
「でもー東京って家賃高いじゃないですかぁ」
そこまで言うと三井は仙道の本心を見抜いたように警戒して眉を寄せた。
「おまえ…」
「家賃半分払いますから!」
「…ここは親が投資目的で買ったんだ。賃貸じゃねぇ。大学に通う期間だけ住まわせてもらってる」
やっぱりお坊ちゃんだったか。じゃあ。
「管理費とか修繕費とか」
「んー………」
「ロフト、使ってないですよね?」
上を指さすと、「あー…」と気づいたように、少し態度が軟化する。もう少しだ、と思ったところで、「それより」と三井が声を挟んだ。
「本選出場記念ってなんだよ。優勝とかじゃねーし」
「え…?えー」
まあそれはそうなんだけど。
今年は自信がある、というより、本選出場は自分の中では決定事項だったので三井からの早めの約束が欲しかったのだ。優勝する自信がないとは言わないけれども、三井のマンションに住むことは周囲への威嚇警戒にも好都合で、これも自分の中では決定事項なのだ。
「…まー、一応親にも聞かないとなー」
勝負は水物って言うしーと考えあぐねていると、三井から譲歩するような言葉が出た。すかさず仙道はそれに食いつく。
「挨拶行きます?」
「何の挨拶だよ。あー、でも顔ぐらいは見せといた方がいいのか?」
「じゃあ明日にでも」
「早ぇーよ」
屈託なく笑う三井にホッとする。
要求は通りそうだとひとまず安心し、さて、と今日これからの予定を思い出して重い腰を上げる。本選出場が決定して、その勢いをかりて急いで三井の約束を取り付けにきていたのだ。電話ではなく、直に顔を見てお願いすればどうにかなるだろうという勢いだけのノープランで。
「じゃあ、そろそろ行こうかな?」
「え、もう帰んの?」
三井の意外そうな言葉に自分のただでさえゆるい意志が揺らぐ。でも今日はこれから…
「…合宿なんです…これから夜行で静岡まで」
「おまえ!そんな日にここに来たのか?!ってか、昨日の今日でもう合宿か。さすが田岡先生…」
「合宿、行かなきゃダメかなぁ」
「もうここ来んな」
「ああ、ウソです。三井さぁん」
情けない声を上げた自分の尻を三井が足を上げて軽く蹴ってくる。そのまま玄関まで追い立てられて、置いてあったドラムバッグをしぶしぶ取り上げた。
「おまえそんな荷物で来るからてっきり…」
「え…?」
「なんでもない」
そっぽを向いた三井の顔が赤くて、何を言おうとしたのか仙道は察する。要領がいいとか言われているけれど、こんな時に自分は詰めが甘い。
なかなか思うようにいかないもんだなぁとドアノブに手をかけたところで、背中のシャツを引っ張られた。振り向くと赤いままの三井の顔。
「とりあえずインハイ終わるまで来んな」
「えぇー…それはぁー…」
反論しかけて三井の睨みにあって黙る。紅い顔で睨まれても正直怖くはないのだが、そこは賢明に口を閉じておく。
「見に来てくれますよね」
「おう。…合宿がんばって来いよ」
「うん…」
「優勝しろよ」
「…はい」
「そしたら…」
言葉が続かずに黙り込んだ三井の赤い頬に手を添えると、おずおずと顔が向けられる。自分を迎えるように寄せられた唇にそっと自分の唇を落とし、バッグを抱えた腕と反対の腕で一瞬きつく三井の体を抱きしめ目を閉じた。
「いってきまーす」
未練を断ち切るように仙道はドアを開け外に踏み出した。
スコアを見て息を吐いた。頭の中でカウントしていた秒と違わない数字がどの攻撃パターンにも足らない。試合終了のホイッスルが静まりかえったコートに響く瞬間に耳がそばだち、鬼の形相の福田が持っていたボールを力任せに遠投した。
ボールはボードとリングに大きな音を立てて当たり、勢いが消えずに枠の周囲を巡って息をのむ観客選手全員の目の前でネットに吸い込まれた。途端に湧き上がる大歓声。
仙道は笑った。残念。
それでも2点のビハインドが残り、吹き始められていたホイッスルが長くコート上に響いて消えた。足を止めて目を閉じる。
長く息を吐いてから目を開き、対戦チームの歓声の飛び交う中、真っ先に探したのは卒業した先輩の姿だった。ベンチ裏に魚住と池上と陣取り、あーだこーだと散々に愛の籠った野次を飛ばしてくれていた。
その姿はすぐに見つかる。立ち上がって真っすぐに自分を見ていた。ボロボロに泣いて、でも口を震わせて笑みを浮かべている。
泣き虫は変わらないんだよな。
三井を見る時、心の中のトゲやら気負いやらがぽろぽろと剝がれ落ちていく。
今すぐに駈け寄りたかった。駆け寄って抱きしめたかった。
と思っていたら三井はいつの間にか目の前にいて、考える前に自分の足が動いていたことに仙道はようやく気付き、遠慮なくその体を抱きしめた。
「ごめんね、優勝逃しちゃった」
「じゅ…!じゅーぶんだ、バカヤロー!!」
周囲がなんか騒がしいような気もしたが構わなかった。泣き続ける三井を今は離すことが出来ない。
と思っていると衝撃がきて、三井を抱きしめる自分を抱きしめてくる大きな体があった。さらにその外側にまた誰か人の体が抱きついてくるのがわかった。さらに衝撃が続いて、多分外から見たら大きな円陣みたいになってるんだろうなーと思っていると、「く、くるし…!」と三井のうめき声が聞こえた。
どさくさ紛れに腕の中の三井の瞼にキスして涙を掬いとり、顔をにやつかせてから自分に被さっている多分魚住のものだろう肩を腕を伸ばして叩く。徐々に人の輪が崩れて、腕の中の三井がぷはっと顔を上げた。
「死ぬかと思った!」
笑い声が上がって場が緩む。三井の真っ赤な顔は多分円陣の真ん中でもみくちゃにされたせいだけじゃないだろう。仙道が微笑むと三井はその顔で睨みつけてきた。
「表彰式だ!行ってこい!」
魚住が大声を張り上げ、メンバーの足がコートへと向かう。
もう一度振り返った仙道の目には強く頷く三井の姿があった。
試合前の日に宿泊先まで内緒で来てくれた姿と同じ。
声には出さず、口の動きだけで「愛してる」と送ると、わかったのかわからないのか三井の顔がくしゃっと歪み、唇が「おれも」と形作った。
玄関ドアを開けると少数ではない人間の気配を感じて、仙道はとりあえず「お邪魔しまーす!」と部屋の奥に向かって大声を上げた。
広くはない土間にはサイズの大きいスニーカーやらサンダルやらがみっちりと履き捨てられてあり、仙道は足でスニーカーを寄せて隙間を確保しつつ自分も靴を脱いで部屋に上がりこんだ。
「お、早かったな」
「ちわーっす。あれ、なんか部屋広くなった…?」
「なわけねーだろ」
乱暴な言葉とは裏腹にどこか自慢げに三井は腕を広げる。
「あー、ベッドがない…?」
「ふっふっふ」
にやりと笑って三井が振り返ったとき、部屋の上部から大声があがった。
「おーいっ!こんな感じでいいの?ってか、三井!自分もやれよ!」
「おお、わりーわりー!」
三井が怒鳴り返した先を見ると、天井大丈夫か?という体格の男が4人、窮屈そうに背を屈めてロフトにいた。
あのベッドを引き上げたのか、とちょっと驚いて掛けられていた梯子に足をかけて覗くと、ロフトのほぼ半分以上を見覚えのあるベッドが占めていて、一番近くにいた日に焼けた男と目が合った。
あ、こいつ知ってる。と思い、とりあえず笑ってペコりと頭を下げる。が、スルーされて、あれれと眉を引き上げる。
「三井の後輩?」
奥にいた男が声をかけて降りてこようとしたので、仙道は梯子からどいて後ろに下がった。
「そー。仙道っての。インハイ準優勝チームの主将だぜ!」
三井が自慢げに紹介して、裏拳で軽く仙道の胸を叩く。そこからじんわりと喜びと誇りが湧き上がって、仙道は思わず顔をにやけさせて頭をかいた。
「おおーっ!」と拍手が湧き上がる。
「ウチのガッコーに来るの?スゲーじゃん」
「はは、よろしくお願いします。みなさんバスケ部…じゃないですよね?」
先日見学で行ったときには見なかった顔ばかりだ。一人をのぞいて。
「おう、同じ教養科目取ってるやつらでよ。ベッド移動さすのバスケ部に頼るとまた夜に襲撃受けるしどうしよーかなって思ってたら、こいつが手伝うって」
仙道を無視した男を三井が親指で指す。三井の前で再度頭を下げたが、男からの反応はやっぱりなかった。こいつはあれだ。転寝していた三井の頬をつついたやつ。横顔しか見えなかったが間違いない。
手伝うだって?自分には決して言ってこないだろうと仙道は確信した。
「こいつはサッカー部。他もみんな体育会だけど部はバラバラ」
「雑な紹介」
笑って次々に部名と名前を告げ、「よろしくな」と言ってくる他の3人に愛想よく挨拶し、最後にどうしたもんか、とサッカー部の男を見ると、仏頂面でようやく「吉田」と名乗る。「よろしくお願いします」と笑顔で挨拶しながら、この鉄面皮っぷりがどっかのバスケバカの色男を思い出すなぁ、と仙道は思う。
「ありがとな。今度約束通り学食のA定大盛おごらせてもらう」
「えー焼肉食い放題じゃねぇの?」
「おまえらにそんなんおごってたら学費がふっとぶって」
三井の周りには相変わらず人が集まる。さすがと思うのが半分、少し、いや大分おもしろくないと思うのが半分。
「こいつ?ここに住むの」
吉田がぼそり、と口を開き、バカ笑いしていた声が止む。
「そうだよ」
三井が真顔で頷くと、はじめに自分に声をかけてきた男が吉田の首に腕を回した。
「相変わらず人付き合いできねーやつ。ホラ行くぞ」
まだ何か言いかけていた吉田をそのまま有無を言わさずズルズルと玄関まで引っ張っていってくれる。仙道は心のうちで深く感謝して三井に向き直ると、「で、おれ上な」と早々に宣言される。
「え、そうなの?」
「そー。おまえそのソファ、ずっとベッドにしたまま使ってもいいし、ベッド持ち込んでもいいぜ」
まぁ最初は妥当なのかなーと考える。いずれにせよ引っ越してくる春まではまだまだ間があるので、その間に関係性はいくらでも変わっていくしなーと瞬間に算段し、仙道は了承した。
「おめでとうな。やりやがったな」
三井が目の前で笑ってくれる。それだけでほっこりと胸の中が温まる。
「はい。優勝はできなかったけど」
「じゅーぶんだって言っただろ」
「だって、優勝したらって」
「…優勝したら…何も言わなかったじゃねぇか」
「うん」
三井の顔がまたじわじわと赤くなっていく様を見ていると、逆に自然に自分の顔がニヤけていくのがわかる。
「とりあえず焼肉行くぞ」
「やった、同衾食!」
腹の中でいろいろ考えていたことがすべてバレるような言葉を思わず口走ったあとで、あ、しまった、と三井の顔を見るとまたしても赤く染まっていたが、眉間には深く皺が刻まれていて、ヤベェと思う。
「…そうかそうか。わかった。悪かった。おまえは女の子を取っ替えひっかえしてたわけじゃねぇ。振られまくってたんだな。おまえにはデリカシーってもんがねーから!」
「ひどい!そんなこと…」
ない、と仙道は否定しようとして、強ち間違いではないなーと思い話を変える。
「学費ふっとんじゃいませんか?」
「お前ひとりだったらどうにかなる」
そう言ってもう玄関に足を向けた人の後を慌てて追う。
まだまだ春には遠いけれど、春からは二人一緒。
進路を検討する上で見学したいのだとねだれば、渋い顔をしても三井は親身になってくれるだろう。
仙道の目論見通り、三井は自分の通う大学の敷地内と構内、それにバスケ部の使用している施設の見学の計画を立て、案内をかってくれた。
蔦の這う古びた校舎は歴史を感じさせて、その中を行き交う学生は当たり前だがみな私服でなんとなく大人っぽく見える。キャンパスライフに憧れたことなど一度もないが、一年後、自分も私服で三井と並んで歩く様を考えると悪くない。
進路先候補の見学ということで、部の連中にも田岡監督にも堂々とお休みをもらっている。
推薦をくれた大学でもあるので、バスケ部からも見学に来るなら案内すると言われていたが、もちろん三井の案内の方が楽しいに決まっている。帰りはそのまま三井の部屋へ行くことだって自然な流れだ。
そう、自然だ。
帰りは何か食材を買っていこうか、三井のいつも行く外食でもねだってみようか。いや、外食だとそのまま神奈川に帰らされる可能性が強いから、何かコンビニ弁当か惣菜でも買っていくか。
楽しく、だが計画に漏れのないよう頭を働かせていたが、まだ待ち合わせの時間には早い。
三井は今日は4限まであってまだその講義が始まったばかりの時間だった。担当教授の出版した値の張る学術書さえ買えば単位が取れるとブツブツ言っていた確か民俗学。そこまでは聞き出している。ちらちらと自分を窺ってくる女の子のグループに愛想よく近づいていって首尾よく教室番号を聞き出した。
すり鉢状の広い講義室は後ろのドアからそっと入れば誰も気にしない。自分の高身長は心得ていたので一番後ろの席に座り、茶色の短髪を探せば、窓に近い座席で肘をつき、こっくりこっくりと船を漕いでいる小さい頭がすぐに見つかった。
顔が見えなくても三井がどんな表情をしているのか目に浮かぶ。
思わず笑みが浮かんでしまった顔で誰憚ることなく見つめていると、その三井の肩を肘で押す腕が目に入った。
座って並んだ座高は三井よりも大きいくらいなのでバスケ部のお友だちかなーと見ていたが、Tシャツから伸びる陽に焼けた肌を見るとそうではないようだ。が、しっかりした体幹は何かしらスポーツをやっているようでもある。
それでも起きない三井に、今度は髪をひっぱっている。少し慣れ慣れしいんじゃないだろうか、と思っていると今度は頬を指でひっぱり始めた。
さすがにこれは許容範囲外だ。
仙道は席を移動しようとして、横に長く繋がった机と一体化した独立してはいない椅子だったことを忘れ、足で蹴って大きな音が立つ。講義中の教授は聞こえなかったのか気にもとめないのかそのまま授業を続けたが、周りの人間の視線は集めて、ヤベェと思って見ると、転寝していたはずの三井が顔を顰めてこちらを睨んでいた。
「どうだった?」
「え?」
三井に問われたのが何を指していたのだか一瞬わからず、仙道は箸を持った手を止めた。
「おまえ何しにきたんだよ」
呆れたような声で言われて「いろいろ考えちゃって」と笑って返す。
「そりゃそうだよなー。進路なんて難しいよなー」
三井は仙道の頭を占めていたものを勝手に想像して頷いた。仙道にとってもそれは都合のよいことだったので、そのままにしてまた曖昧に笑う。
進路はもうほぼ決めている。今日来たのは確認と下見だ。三井にそれを告げれば何かと説教を食らいそうだから、もう少し進路決定に切羽詰まる時期をみて話そうと思っている。それより今は。
「お茶飲みます?コーヒー?」
仙道はローテーブルの上の皿やらゴミをまとめて持って立ち上がり、テレビに気を取られたままの部屋の主に尋ねた。三井はといえば「麦茶飲むー」「おまえってホントまめだよなー」とか呑気に伸びをしている。
「明日も大学見学なんですよ。一気に回っちゃおうと思って部にも休みもらってます」
「ふーん。まあ電車代とかもったいないもんな」
「そう、もったいないし。でね、」
三井に麦茶のコップを手渡し隣に座り込む。食事の時は向かい合っていたのに自分の隣にきた仙道に三井はちょっと間を空けたが、仙道は気づかないふりをしてそのまま続けた。
「ここに泊まっていいですか?」
「へ?!」
三井は今度こそ固まって言葉に詰まった。
三井がここのマンションに越してから何度か仙道は遊びにきた。引越しだって手伝ったし、自分と三井の空きの時間を見つけてはこまめに通ったのに未だに泊めてもらったことはない。泊めてもらったことがないどころか。
「おまえ実家は?東京だろ?」
「ほぼ23区横断しないとだし。遠くて」
「…だって布団とかねーし」
仙道はニッコリ笑って背後のベッドに手をのばし、パンパンと叩いた。それを見た三井の顔が赤く染まり、アーだのウーだのどもりだす。
「ダメですか?」
目を覗きこめば逸らされる。そんなこんなで三井がここに越してからまだキスしかもらっていないのだ。もうすでにあんなこともこんなこともやっちゃってるのに。
三井が卒業してから早3か月。
首尾よく恋人関係にもちこめたと思っていたのははじめの1か月ほどだった。
どうにも三井の態度が固い。「恋人ですよね」と言葉にすれば、またなんだかんだと理由をつけて逃げ道を与えてしまうので、外堀から埋めていこうと思っていたら、意外に三井の守備は堅かった。
本気で仙道の将来のことを考えているのかもしれなかったが、それとは違う戸惑いのようなものも見える。キスは許してくれるし。
最初ちょっと突っ走っちゃったからなーと仙道も反省しないでもない。もしかして後ろを使うセックスはもうごめんだとか思っちゃってるのかもしれない。が、仙道も今はいろいろと勉強して、ちゃんと三井にもご満足いただける自信はあるのだ。
ゆっくりと進める気ではいたがいろいろ気にかかることがある。
例えば今日講義で見かけた三井に気やすく触れる腕だとか。
大学構内で三井に気軽に声をかけてくる人間だとかバスケ部でやっぱりもう馴染みまくってる三井に構ってくる先輩だとか。よく行くコンビニの愛想のいいバイトくんからマンションの気の良さそうなお隣さんのおじさんにまで。
こんなことを気にする人間だったんだ、と自分でがっかりだ、が。
「じゃあおれソファで寝るわ。あれベッドになるし。おまえベッド使っていいぞ。おれ明日も練習あるしもう寝る」
「三井さん」
「風呂入れ」
つれない三井は仙道を置いて立ち上がる。
あたしとバスケ、どっちが大事なの?!
横になり、暗闇の中で同じ部屋の中の三井の寝息を聞きながら、寝られない仙道はいつだったか言われためんどくさい部類の女子の言葉を思い出す。思考がループに陥りかけている、と自覚して聞こえないように小さくため息をもらした。
明日も練習があるという先輩のベッドを使うことは憚られ、寝返りを繰り返した挙句仙道は音を立てないように気をつけながら起き上がった。暗闇の中で頭をかき、水でももらおうかとキッチンへ足を向ける。
「寝られないか?」
寝入っているとばかり思っていた三井からふいに声をかけられて、仙道は暗がりの中、ベッドがあると思われる方角へ顔を向けた。
意外にお坊ちゃまだったらしい三井の部屋は、自分と同じワンルームには違いないが、10畳ほどの広さにトイレと風呂は別だし、荷物置き場になってしまっているがかなり広いロフトまでついている。ソファベッドもデカい自分が寝てもギリ足の指が出るくらいで、ベッドはセミダブルで余裕があってちょっと羨ましい。
部屋を出たキッチンからベッドの上の三井の表情は、ブラインドから入る外の僅かな光では距離も邪魔をして推し量ることができなかった。
「すみません、起こしちゃいました?」
「いや…。あー…おまえこっち来るか?」
「いえ、ベッドは先輩使ってください」
「…来いって」
仙道は戸惑い、期待はしないようにと自分に言い聞かせて、そっと三井に近づいた。
外からの淡い光が半身を起こした三井を青白く浮き上がらせている。仙道は静かに上掛けの上からベッドに腰掛けた。
「…ごめん、おれ…焦らしてるわけじゃないんだ」
「はい…」
輪郭が朧げな三井はいつもの勢いがなく、どこか途方に暮れたような顔で幼く見えた。濃い睫毛がじれったそうに揺れ、ぽってりした唇を赤い舌が舐める。
「おまえを…ホントに自分のものにしちゃっていいのかなって」
やっぱりそんなこと考えてたんだな、と仙道は思う。三井の考えていることを、頭の中にあることを知りたくて、急かさぬように、自分の情動を抑えこんで上掛けの上に置かれた手を見つめる。
「おれが大学行けば自然に距離ができておまえも目を覚ますのかもしれないって思ってた。けど、おまえちょいちょい来るし。…そしたらもう大学もここに決めたって。コーチに言ったって?」
あ、バレてた。自分で説明しようと思っていたのに。
「…おれがいるから、じゃないよな?」
「それはもちろんありますけど」
自分の言葉に三井が不安に揺れていた目を見開くのがわかった。他にも言い出しにくい、自分でもまだ悩んでいる件があった。
「…留学の条件も一番よかった」
今度は三井は動かなかった。きれいな大きい瞳が闇の中で自分を見つめている。その瞳の中の自分は今どんな表情をしているんだろうか。
「今すぐってわけじゃなくて、それなりに成績残せて、教養課程が修了したら、の予定ですけど」
「そうか…」
さっきより三井の表情が和らいだような気がするのは僻みだろうか。
三井を自分のものにしたいと何よりも願っているのに、数年後には置いていく。そのことにこの人が安心しているようで。
どうしたら自分の本気をわかってもらえるんだろうか。
布団の上に置かれた、ほの白く浮かぶ三井の手をそっと撫でた。
同じバスケットボールを追う手。
しっかりとした男の手だけど、自分よりも細く繊細だ。この手であのきれいな3Pを打つ。少し丸い爪の先まできれいだ。
手に取って小指を根本から爪先まで辿る。他の指も1本づつ撫でて、薄く血管の浮かび上がった手の甲へ滑らせる。三井が小さく息を吸う音が聞こえて、仙道は顔を上げた。
手を伸ばし、ゆっくりと目を閉じた三井の頬をそっと覆った。
そのまま引かれるように唇にキスをすれば抵抗なく受け入れられる。
軽く触れて離れて、もう一度欲しくなってまた口づける。
触れるだけにして離れようとすると、三井の口が小さく開いて下唇を柔らかく食むようにキスされる。思わず開いた口を追うようにするっと入ってくる舌に驚いて肩を掴んだ。
「我慢できなくなっちゃうから」
「…するなよ」
自分の方に引き寄せるように三井の両腕が仙道の首に巻かれる。
この人の匂い、熱、肌。全部全部焦がれたものだ。
おれだけのものになってよ。
言葉には出さずに、唇と舌に込めて想いを三井へ送る。
薄く開いた三井の瞼の奥が潤んで、自分を受け入れてくれたと思った。キスを深くしながらゆっくりと三井の体を倒していく。
その時玄関のインターフォンが鳴り響き、暗い部屋の中に起動したモニターの画像の光が乱暴に差し込んだ。
『おーい、三井ー!』
『いるんだろー!』
『ちょっと声大きいですよ!』
三井が弾かれたように起き上がり、仙道もつられて半身を引き上げた。固まったように二人で玄関ドアの方を見る。
「…誰?」
「部の先輩達だ…」
外廊下までは距離があるし、モニターの集音マイクも距離があって部屋の中の声は拾わないだろうとは思ったが、ついひそひそと小声になる。
「もう部屋の外にいる…」
「え、オートロックは?」
確かここのマンションは1階のロビーに入るにも鍵が必要で24時間の有人管理だったはずだ。
「先輩、顔パス」
「…オートロックの意味ねぇ。ってか、そんなにしょっちゅう来るの?」
「おれまだ新入生だからなぁ」
ひそひそと話している間にも外はにぎやかなままだ。インターフォンを容赦なく連打してくる。
「先輩達も明日練習でしょ?」
「みんなツワモノだからな。オールで飲んで翌日の練習でぶっ倒れて、医務室で点滴打ってまた練習に戻ってきた先輩もいる」
「…体育会ってヤダなぁ」
というか、こんな話は聞いてない。三井の部屋にそんなに先輩の襲撃があるなんて。
『おーい?三井ー?』
『ホントにいないんじゃねぇの?部屋電気ついてなかったし』
『あー今日そういえば高校の後輩が来てたなぁ』
『外に飲みに出ちまったか?』
収束方向に向かっているらしい話の内容にホッとする。今この部屋には誰も入れたくない。
やがて玄関の外は静かになり、モニターの画像が消え暗闇が戻る。部屋の中もいきなりシンとする。
どうしよう。
振り返ると三井も気が抜けたように仙道を見る。
「…寝るか」
「……………はい」
毒気が抜かれたように呟いた三井に、仙道もただ頷くしかできなかった。
前に進んだような進まなかったような。後退したのではないことは確かだと思うけれども。仙道はボールを手にため息をついた。
ついこの間まであの人もここにいたのになぁ。
わかっていたことだけれど、俺サマな先輩の不在は思った以上に、大勢の部員で埋まった活気のあるはずの体育館を寂しく見せた。この年の一年の差は小さいようでとても大きい。
「進路先、迷ってるのか?」
気づけば福田が自分のすぐ隣にいた。
「んー、まあそう、かな」
先週、仙道が大学見学で部を休んだことは部員ならみな知っている。ため息をつけばそこに結び付けられるのも当たり前かもしれなかった。ただ自分の頭を占めていることとは違うだけで。
「三井先輩、元気だったか?」
「うん…元気だった」
三井のことを聞かれるとは思わず、少し驚いて福田を見る。思えば福田も三井を早くから受け入れていた一人だった。二人でボーッとコートを眺めていると、副キャプテンから怒鳴り声が飛んでくる。
「そこ!またなに遊んでんだよ。下にシメシがつかねぇだろ?!」
「仙道が三井ロス」
「福田は魚住ロス」
「はあっ?!」
越野はちょっと複雑そうな顔をして二人を眺めた。
「…その先輩達のためにも今年こそインハイ本選行かなきゃだめだろ。おれ達も今年が最後だ」
そうか、そうだな。またインターハイを逃したとなれば三井にどんな罵詈雑言をくらうことか。
あれから一年も経ったんだ。
三井とのきっかけになったとも言えるインターハイ。ふと他校の生意気な一年坊の顔が浮かび、いや、あいつももう2年か、と考える。今年こそ叩いておくべき相手であることを仙道は認識した。
「インターハイ本選出場記念のお祝いは?」とねだると、ぽけっとテレビを眺めていた顔を三井は赤く染めた。話の脈絡としては多少おかしなリアクションだが、仙道は三井の頭の中にも自分と同じ懸案があるのだと満足する。
それでもいいんだけど。
仙道はニコニコしてかねてから考えていたお願いを実行することにした。もっともっとよくばりで中長期的なおねだりだ。
「やっぱり大学のそばに下宿したいなーと思いまして」
「あー実家が同じ東京でも通学にちょっと時間はかかるよなぁ」
「でもー東京って家賃高いじゃないですかぁ」
そこまで言うと三井は仙道の本心を見抜いたように警戒して眉を寄せた。
「おまえ…」
「家賃半分払いますから!」
「…ここは親が投資目的で買ったんだ。賃貸じゃねぇ。大学に通う期間だけ住まわせてもらってる」
やっぱりお坊ちゃんだったか。じゃあ。
「管理費とか修繕費とか」
「んー………」
「ロフト、使ってないですよね?」
上を指さすと、「あー…」と気づいたように、少し態度が軟化する。もう少しだ、と思ったところで、「それより」と三井が声を挟んだ。
「本選出場記念ってなんだよ。優勝とかじゃねーし」
「え…?えー」
まあそれはそうなんだけど。
今年は自信がある、というより、本選出場は自分の中では決定事項だったので三井からの早めの約束が欲しかったのだ。優勝する自信がないとは言わないけれども、三井のマンションに住むことは周囲への威嚇警戒にも好都合で、これも自分の中では決定事項なのだ。
「…まー、一応親にも聞かないとなー」
勝負は水物って言うしーと考えあぐねていると、三井から譲歩するような言葉が出た。すかさず仙道はそれに食いつく。
「挨拶行きます?」
「何の挨拶だよ。あー、でも顔ぐらいは見せといた方がいいのか?」
「じゃあ明日にでも」
「早ぇーよ」
屈託なく笑う三井にホッとする。
要求は通りそうだとひとまず安心し、さて、と今日これからの予定を思い出して重い腰を上げる。本選出場が決定して、その勢いをかりて急いで三井の約束を取り付けにきていたのだ。電話ではなく、直に顔を見てお願いすればどうにかなるだろうという勢いだけのノープランで。
「じゃあ、そろそろ行こうかな?」
「え、もう帰んの?」
三井の意外そうな言葉に自分のただでさえゆるい意志が揺らぐ。でも今日はこれから…
「…合宿なんです…これから夜行で静岡まで」
「おまえ!そんな日にここに来たのか?!ってか、昨日の今日でもう合宿か。さすが田岡先生…」
「合宿、行かなきゃダメかなぁ」
「もうここ来んな」
「ああ、ウソです。三井さぁん」
情けない声を上げた自分の尻を三井が足を上げて軽く蹴ってくる。そのまま玄関まで追い立てられて、置いてあったドラムバッグをしぶしぶ取り上げた。
「おまえそんな荷物で来るからてっきり…」
「え…?」
「なんでもない」
そっぽを向いた三井の顔が赤くて、何を言おうとしたのか仙道は察する。要領がいいとか言われているけれど、こんな時に自分は詰めが甘い。
なかなか思うようにいかないもんだなぁとドアノブに手をかけたところで、背中のシャツを引っ張られた。振り向くと赤いままの三井の顔。
「とりあえずインハイ終わるまで来んな」
「えぇー…それはぁー…」
反論しかけて三井の睨みにあって黙る。紅い顔で睨まれても正直怖くはないのだが、そこは賢明に口を閉じておく。
「見に来てくれますよね」
「おう。…合宿がんばって来いよ」
「うん…」
「優勝しろよ」
「…はい」
「そしたら…」
言葉が続かずに黙り込んだ三井の赤い頬に手を添えると、おずおずと顔が向けられる。自分を迎えるように寄せられた唇にそっと自分の唇を落とし、バッグを抱えた腕と反対の腕で一瞬きつく三井の体を抱きしめ目を閉じた。
「いってきまーす」
未練を断ち切るように仙道はドアを開け外に踏み出した。
スコアを見て息を吐いた。頭の中でカウントしていた秒と違わない数字がどの攻撃パターンにも足らない。試合終了のホイッスルが静まりかえったコートに響く瞬間に耳がそばだち、鬼の形相の福田が持っていたボールを力任せに遠投した。
ボールはボードとリングに大きな音を立てて当たり、勢いが消えずに枠の周囲を巡って息をのむ観客選手全員の目の前でネットに吸い込まれた。途端に湧き上がる大歓声。
仙道は笑った。残念。
それでも2点のビハインドが残り、吹き始められていたホイッスルが長くコート上に響いて消えた。足を止めて目を閉じる。
長く息を吐いてから目を開き、対戦チームの歓声の飛び交う中、真っ先に探したのは卒業した先輩の姿だった。ベンチ裏に魚住と池上と陣取り、あーだこーだと散々に愛の籠った野次を飛ばしてくれていた。
その姿はすぐに見つかる。立ち上がって真っすぐに自分を見ていた。ボロボロに泣いて、でも口を震わせて笑みを浮かべている。
泣き虫は変わらないんだよな。
三井を見る時、心の中のトゲやら気負いやらがぽろぽろと剝がれ落ちていく。
今すぐに駈け寄りたかった。駆け寄って抱きしめたかった。
と思っていたら三井はいつの間にか目の前にいて、考える前に自分の足が動いていたことに仙道はようやく気付き、遠慮なくその体を抱きしめた。
「ごめんね、優勝逃しちゃった」
「じゅ…!じゅーぶんだ、バカヤロー!!」
周囲がなんか騒がしいような気もしたが構わなかった。泣き続ける三井を今は離すことが出来ない。
と思っていると衝撃がきて、三井を抱きしめる自分を抱きしめてくる大きな体があった。さらにその外側にまた誰か人の体が抱きついてくるのがわかった。さらに衝撃が続いて、多分外から見たら大きな円陣みたいになってるんだろうなーと思っていると、「く、くるし…!」と三井のうめき声が聞こえた。
どさくさ紛れに腕の中の三井の瞼にキスして涙を掬いとり、顔をにやつかせてから自分に被さっている多分魚住のものだろう肩を腕を伸ばして叩く。徐々に人の輪が崩れて、腕の中の三井がぷはっと顔を上げた。
「死ぬかと思った!」
笑い声が上がって場が緩む。三井の真っ赤な顔は多分円陣の真ん中でもみくちゃにされたせいだけじゃないだろう。仙道が微笑むと三井はその顔で睨みつけてきた。
「表彰式だ!行ってこい!」
魚住が大声を張り上げ、メンバーの足がコートへと向かう。
もう一度振り返った仙道の目には強く頷く三井の姿があった。
試合前の日に宿泊先まで内緒で来てくれた姿と同じ。
声には出さず、口の動きだけで「愛してる」と送ると、わかったのかわからないのか三井の顔がくしゃっと歪み、唇が「おれも」と形作った。
玄関ドアを開けると少数ではない人間の気配を感じて、仙道はとりあえず「お邪魔しまーす!」と部屋の奥に向かって大声を上げた。
広くはない土間にはサイズの大きいスニーカーやらサンダルやらがみっちりと履き捨てられてあり、仙道は足でスニーカーを寄せて隙間を確保しつつ自分も靴を脱いで部屋に上がりこんだ。
「お、早かったな」
「ちわーっす。あれ、なんか部屋広くなった…?」
「なわけねーだろ」
乱暴な言葉とは裏腹にどこか自慢げに三井は腕を広げる。
「あー、ベッドがない…?」
「ふっふっふ」
にやりと笑って三井が振り返ったとき、部屋の上部から大声があがった。
「おーいっ!こんな感じでいいの?ってか、三井!自分もやれよ!」
「おお、わりーわりー!」
三井が怒鳴り返した先を見ると、天井大丈夫か?という体格の男が4人、窮屈そうに背を屈めてロフトにいた。
あのベッドを引き上げたのか、とちょっと驚いて掛けられていた梯子に足をかけて覗くと、ロフトのほぼ半分以上を見覚えのあるベッドが占めていて、一番近くにいた日に焼けた男と目が合った。
あ、こいつ知ってる。と思い、とりあえず笑ってペコりと頭を下げる。が、スルーされて、あれれと眉を引き上げる。
「三井の後輩?」
奥にいた男が声をかけて降りてこようとしたので、仙道は梯子からどいて後ろに下がった。
「そー。仙道っての。インハイ準優勝チームの主将だぜ!」
三井が自慢げに紹介して、裏拳で軽く仙道の胸を叩く。そこからじんわりと喜びと誇りが湧き上がって、仙道は思わず顔をにやけさせて頭をかいた。
「おおーっ!」と拍手が湧き上がる。
「ウチのガッコーに来るの?スゲーじゃん」
「はは、よろしくお願いします。みなさんバスケ部…じゃないですよね?」
先日見学で行ったときには見なかった顔ばかりだ。一人をのぞいて。
「おう、同じ教養科目取ってるやつらでよ。ベッド移動さすのバスケ部に頼るとまた夜に襲撃受けるしどうしよーかなって思ってたら、こいつが手伝うって」
仙道を無視した男を三井が親指で指す。三井の前で再度頭を下げたが、男からの反応はやっぱりなかった。こいつはあれだ。転寝していた三井の頬をつついたやつ。横顔しか見えなかったが間違いない。
手伝うだって?自分には決して言ってこないだろうと仙道は確信した。
「こいつはサッカー部。他もみんな体育会だけど部はバラバラ」
「雑な紹介」
笑って次々に部名と名前を告げ、「よろしくな」と言ってくる他の3人に愛想よく挨拶し、最後にどうしたもんか、とサッカー部の男を見ると、仏頂面でようやく「吉田」と名乗る。「よろしくお願いします」と笑顔で挨拶しながら、この鉄面皮っぷりがどっかのバスケバカの色男を思い出すなぁ、と仙道は思う。
「ありがとな。今度約束通り学食のA定大盛おごらせてもらう」
「えー焼肉食い放題じゃねぇの?」
「おまえらにそんなんおごってたら学費がふっとぶって」
三井の周りには相変わらず人が集まる。さすがと思うのが半分、少し、いや大分おもしろくないと思うのが半分。
「こいつ?ここに住むの」
吉田がぼそり、と口を開き、バカ笑いしていた声が止む。
「そうだよ」
三井が真顔で頷くと、はじめに自分に声をかけてきた男が吉田の首に腕を回した。
「相変わらず人付き合いできねーやつ。ホラ行くぞ」
まだ何か言いかけていた吉田をそのまま有無を言わさずズルズルと玄関まで引っ張っていってくれる。仙道は心のうちで深く感謝して三井に向き直ると、「で、おれ上な」と早々に宣言される。
「え、そうなの?」
「そー。おまえそのソファ、ずっとベッドにしたまま使ってもいいし、ベッド持ち込んでもいいぜ」
まぁ最初は妥当なのかなーと考える。いずれにせよ引っ越してくる春まではまだまだ間があるので、その間に関係性はいくらでも変わっていくしなーと瞬間に算段し、仙道は了承した。
「おめでとうな。やりやがったな」
三井が目の前で笑ってくれる。それだけでほっこりと胸の中が温まる。
「はい。優勝はできなかったけど」
「じゅーぶんだって言っただろ」
「だって、優勝したらって」
「…優勝したら…何も言わなかったじゃねぇか」
「うん」
三井の顔がまたじわじわと赤くなっていく様を見ていると、逆に自然に自分の顔がニヤけていくのがわかる。
「とりあえず焼肉行くぞ」
「やった、同衾食!」
腹の中でいろいろ考えていたことがすべてバレるような言葉を思わず口走ったあとで、あ、しまった、と三井の顔を見るとまたしても赤く染まっていたが、眉間には深く皺が刻まれていて、ヤベェと思う。
「…そうかそうか。わかった。悪かった。おまえは女の子を取っ替えひっかえしてたわけじゃねぇ。振られまくってたんだな。おまえにはデリカシーってもんがねーから!」
「ひどい!そんなこと…」
ない、と仙道は否定しようとして、強ち間違いではないなーと思い話を変える。
「学費ふっとんじゃいませんか?」
「お前ひとりだったらどうにかなる」
そう言ってもう玄関に足を向けた人の後を慌てて追う。
まだまだ春には遠いけれど、春からは二人一緒。