蛇衣を脱ぐ
「なにしてんすか。終わったらどいてくださいよ」
背後から自分を邪魔扱いするような急かす声が飛んで、三井は我に返った。
目の前には部屋割り表が貼ってある。ミーティングルーム代わりの食堂への出入り口脇の掲示板。
古く黄ばんだ防犯ポスターの横に貼られた紙に簡単な各部屋への案内図と、高校名と学年氏名が202号と書かれた四角い枠の中に5名分書かれてあった。何度見ても変わらないそれを三井はもう一度睨みつけてから振り返った。
「…あぁ、ワリ」
海南の選手だな、と制服を見て記憶を探る。
そうだ、対戦したスターターの一人だ。桜木と子供のように張り合っていた一年、とまで思い出した。
下級生からの遠慮のない物言いにムッとはしながらも部屋割りを見ながらしばらく茫然としていた自覚はあったので、三井は素直に謝って場所を譲った。
「あ、俺、三井さんと同じ部屋だ」
「え?」
「よろしくお願いします!」
その一年坊は三井を邪魔扱いしたことは忘れたのか、それとも元がそんな喋り方なのか、他意のなさそうな笑顔で勢いよく三井に頭を下げた。
「お、おう」
確か信長とかいった。その後ろからひょろりと自分よりも背の高い、海南の2年が同じく紙を覗き込んでくる。
こいつもシューターだと思い出して自然顔が強張ってくるが、チームメイトになるのだと三井は気持ちを改めた。
「あと藤真サンと、仙道かー。ホンッと学年も高校もバラバラだなー」
大声で呼ばれた名前に思わず肩が揺れた。
見間違いじゃないか、と考えていた頭に最後通牒を突きつけられたようだった。
「おまえ、なんで仙道は呼び捨てなの」
「えー神さんだって呼び捨てじゃないっすか」
「俺は同学年。そこはこれからきちんとしよう。な?」
「…はーい…」
いつもであれば2,3ツッコミを入れたい会話に混ざるでもなく、三井は探るように周囲に目をやった。
合宿前のオリエンテーションの終わった食堂は、選抜招集された大柄な選手達で溢れ、すぐに探している人間を見分けることができない。
が、ふと人の垣根が割れた先に、背を向けて立ち上がったツンツン頭が目に飛び込んできた。スポーツバッグを肩にかけて、振り向こうとした瞬間に三井は慌てて顔を逸らした。
もう一度貼りだされた紙に向かい、他の部屋割りを真剣に目で追い隣の部屋に湘北の名前を二人見つけて、その名前の後輩達の顔を振り返って探した。ちょうど席を立った姿を見つけて宮城と流川の元へ走り寄る。
「おい、どっちか部屋変われ」
「はい? 部屋?」
宮城は面倒そうに眉間に皺を寄せて三井を見上げた。
「泊まる部屋だよ。おまえら同じ201号だった。どっちでもいいから俺と変われ」
「はぁ? ナニ子供みたいなこと言ってんすか」
「…宮…キャプテン変われば」
「はぁぁ? 流川までナニ言ってんの!?」
目の端にゆっくりと掲示板に歩み寄る仙道の姿が映る。あまり大騒ぎをして聞きつけられても厄介だ。
「とにかくダメっすよ。そーいう団体行動を乱すような真似はやめてくれませんかね。今も田岡先生にキツく言われたばっかりじゃないっすか」
宮城はそう言うとさっさと自分の鞄を持って、自分も掲示板の方へ足を向けてしまった。
「なぁ流川、頼めねぇ?」
不本意ながら残った後輩に手を合わせていると、流川が口を開くより先に、すぐ背後に立った赤木の気配に三井は重ねて乞おうとした口を閉じた。
「何か不都合でもあるのか」
「な、なんもねーよ!」
チ、と舌打ちして自分の荷物を背負い直し、三井は食堂を後にした。
荷物を置くと休む間もなくすぐに集合がかかって余計なことを考えている暇はなくなり、始まった通常の部活動より過酷な基礎運動は三井には都合がよかった。
参加した4校の全員が人のことなど気にしてはいられなかった。まだボールにも触れない、噂には聞いていた田岡の基礎練習は聞きしに勝った。三井は何度か吐きかけて、それでも食らいついたのは自分に残っていた体力というよりも、矜持と名をつけたい意地だった。
ようやく午前が終わり、食堂に入っても三井にはテーブルに並んだ食事に手をつけることができなかった。ようやく味噌汁とサラダに箸をつけることができて、後は人の目を盗んで茶で無理に胃袋に流し込んだ。
午後からはボールに触ることがようやく許可されて、メンバーの中にも安堵や軽口の声が聞こえてきた。ポジション毎に練習のチーム分けが指示されてさらに三井は安堵し、それでも目は特徴のある髪型を目で探していた。
こっそりと探し当てた仙道は一番端のコートで海南の高砂と組んで、田岡ではなく高頭の指導を受けていた。
親しく顔を合わせていた時とはまた別の顔。当たり前だが、そんな練習風景を見るのも初めてのことで、ついつい自分の練習がおそろかになっていたのか厳しい叱責を受けることも度々で、仙道の顔が振り向きそうになる度に顔を背け、己を叱咤した。
何のためにここに呼ばれたのか。来ているのか。
このメンバーの中で少しでもプレイタイムを稼ぎ、大学のスカウトの目を少しでも多く集めるため。
もちろん目標は全国制覇だが、高校三年のこの時期にきてまだ一校からも声がかからない、というのは三井の中の焦りを加速させたようだった。
好きだの恋だの。そんなことに構っている時間は今の自分にはないのだ。
疎かにになっていた集中力にコーチから怒鳴られないまでも自分に問い聞かせ、三井はボールを持つ自分を戒めた。
余計な雑念を入れられない程に練習は厳しく体力を削ぎ、その夜は騒ぐ余力のある人間もなく、布団に入るとすぐに体が疲労を思い出して、部屋のほぼ全員がまるで気絶でもしたようにすぐに静かになった。
「ちょっと三井さん、大丈夫?」
トン、と背中を軽く合わせてきた宮城に気遣われて、初めて人が少なくなったコートに立っていた自分に三井は気が付いた。
「あ?」
「あんたさっきから構えたまんまずっと動かなかったから」
4面並んだコートに立っていたメンバーは4分の1ほどに減っていた。そのメンバー達もボールを拾い集めており、練習を終いにする様子が見て取れた。
夕食後の練習は個人の裁量に任されていた。22時まで解放されていて、そこで粘れば部屋に戻って余計なことはせずに風呂に行ってすぐ寝につくことができる。
そうやって3日間を過ごし、自分の思惑通り部屋に仙道と二人だけになるという事態は避けることができた。
部屋にいる時は努めて藤真に絡みにいった。藤真がどう思っているかはわからなかったが同学年同士、話しは思ったよりも弾んだ。視線を時折感じることはあっても、三井はそちらに振り向くことはしなかった。
宮城に声をかけられて思わず端のコートに目をやると、そこには既に居残っているメンバーはいなかった。
「大丈夫だ。もう少し…」
「もう少しってさ、あんたもう顔色ヤバいですよ。連日一番遅いらしいじゃないっすか。俺んとこももうみんな引き上げるし」
全体練習が終わり、個人で居残ったメンバーもほぼ片付けと清掃を始めていた。宮城が指示したPGが集められたコートにも確かに人はもう残っていなかった。
仙道のことだけじゃない。少しでもみんなに追いつくために。
当初の目的こそが言い訳になっているようだった。合宿も気づけば最終日で、首尾よく逃げおおせたという安堵とは別に湧いてくるどこかに気持ちを置いてきてしまったような心許なさは、自分の煮え切らなさだけではないのだろう。
「俺ももう引き上げようかと思うんですけど。よかったら一緒に片づけますんで」
同じコート内にいた神が声をかけてくる。明らかに自分に気を遣ったとわかってはいても、三井はもう指先に力の入らないことを自覚してコックリとうなづいた。
「…ああ、そうだな。悪い」
手に持っていたボールを神に預けると、三井は誰もいなくなった端のコートを見つめた。
当初三井が懸念していたようなことは何も起こらなかった。
それに不満を覚える自分はどうかしている。
聞こえてくる寝息の中に寝そびれ、一人置いていかれた思いで、三井は薄いカーテンから漏れ入ってくる外灯の光の中に浮かんだ天井を睨みつけた。白いそれを睨みつけるのもあと一日。長いようであっけなく合宿は終了を迎えようとしていた。
「寝られません?」
はじめは聞き間違いかと思った。次には誰かの寝言でもあるのかと。
この合宿中で仙道に話しかけられたのは初めてだった。避け続けてきたのは自分だった。
「…ちょっとな」
壁の両端に寄せられた2段ベッドの中、しかも自分は下段で、仙道は向かい側の上段だった。狭い部屋とはいえ、よく自分が起きていることがわかったなと思いつつ、戸惑い迷った末に潜めた声をようやく返した。
「俺、水飲んできます」
誘われたわけではなかった。ギッギッと梯子を降りる音がして部屋のドアが控えめに開け閉てられ、それからしばらく天井を睨み続けていた三井は、体を起き上げていた。
一階に降りて食堂に向かう廊下に自販機が何台か並んでおり、そこからの淡い人工的な光を受けて古びた長椅子がぼんやりと照らし出されていた。合皮のそれは体育系部員の合宿所として手荒く使われてきたことを示すように座面が大きく破れていた。
昼間に座った時の体が斜めになるような感覚を思い出して、三井はなんとなく避けて自販機側に寄ると、その手前で動いた背の高いシルエットに気づいて足を止めた。
「三井さん」
暗い中で表情は見えない。低く呟くような声もどこか平坦で、それが会ったばかりの不安定だった頃の仙道を三井に思い起こさせた。
「うん」
「なんだか久しぶりですね。毎日同じ部屋で寝てるのに」
「…うん」
「飲みます?」
「いらない」
三井は差し出された缶に首を振り、仙道に近づいた。
「今日は逃げないんです?」
「…逃げてたわけじゃねぇ」
自分でもバレバレの嘘をついているという自覚はあった。クスリと小さく仙道は笑ったようだった。
「三井さんてさ、」
低音の言葉の調子に三井はまた古いアパートの部屋を思い出した。
オバケが出るとか仙道がふざけたあの話は全く意味がわからなかった。あれからいろいろこの男との間にはあったはずなのに、いつの間にかまた目に見えない壁が間に出来てしまったようで、でもそれはきっと自分のせいなのだ。
仙道は缶に口をつけたまま、何を考えているのか読めない顔で言葉を続けようとする素振りを見せなかった。
沈黙に耐え切れなくなった三井が、「なんだよ」と催促すると、仙道は誰にでも見せるあの人のよさそうな笑顔を三井に向けた。
「誰とでもキスしちゃう人?」
「…あ? なんだって…?」
自然と声が低くなった。
「あの後輩くん、流川とかさ」
「ハハ、」
その流川とワンオンワンやって黙ってたのはどこのどいつだ。
「妬いてんのか? おまえが? ウケんな」
「妬いてんのかって? そんな嫉妬なんて」
仙道は缶から口を離し、顔を歪めた。
「…してるよ。夏から…毎日毎晩あんたに振り回されてさ」
言い終わる前に伸びてきた仙道の両腕に、三井は首元のTシャツを握られ、目が回って気が付くとソファに引き倒されていた。放り出された缶が転がる音が暗い廊下に響く。
「いい加減逃げんのやめて?」
「逃げてなんかねぇ!」
「あんただって忘れてねーくせに」
仙道の無表情が崩れて眉が苦し気に寄せられ、三井は目を見開いた。
その時すぐ隣の階段の上で足音がした。話し声も聞こえたようだった。三井は思わず身を竦め、「離せ!」と唸った。
「俺も男だから? 付き合えねぇ?」
「仙道!」
こんなとこ見られたら終わりだ。俺も、おまえも。
三井の内心を読み取ったのか、仙道の口元が笑ったように歪んだ。拘束された手は緩められないまま、仙道の顔が降りてきた。唇を塞がれて驚きに目が開く。首を振っても固定された顔は動かない。
階上の話し声と足音が頭に響いて三井はパニックになった。体中でもがいて、跳ね上げた膝が勢いよく仙道の腹に埋まった。
仙道が呻いて腕の拘束が緩んだところで、三井は仙道の体を思いっきり両手で突き飛ばし、起き上がろうとした時によろけたその体に体当たりした形になった。
それまでの圧倒的な力が信じられないように、バランスを崩した仙道の体があっけなく後ろに吹っ飛び、大きな音を立てて自販機横のゴミ箱ごと倒れこんだ。
「何やっとるんだ、おまえら!」
階段から降りてきた田岡がそこに立っていた。