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ゴールポスト上部のカウントダウンとインサイドの密集を前に仙道は息を一つ吐いた。指示を受けたオフェンスパターンは2度阻まれてもう猶予はなかった。自分についたディフェンダーの走り寄ってくる体を視界に入れて、ボールを一バウンドさせて3Pラインにステップバックする。一度フェイクを入れるとモーションに合わせてジャンプしたディフェンダーの顔が歪んだ。到達点から落ちていくその体から掴むように伸ばされた腕に、体を僅かに寄せてシュートを放った。目で追ったボールはリング周りを滑ってコート外に落ち、審判の笛と24秒ブザーと、仙道の口から漏れたラッキーの呟きが同時だった。
フリースロー前の相手チームからのタイムアウトの招集に一番最後にベンチに戻ると、脇からタオルが肩に投げかけられて、仙道は自然に開いた円陣の中に恐る恐る顔を出した。
「よし! 並んだな」
マジックのキャップを口にくわえてホワイトボードを抱え直した三井ヘッドコートに、「まだ1ポゼッションあります」と生真面目なACが、抱えたPCのスコアに目を落としつつ訂正を入れた。
「仙道が決めるから。3本とも」
な?と目に力が籠った顔で微笑まれて、仙道は参ったな、と内心ぼやきつつ微笑み返した。
指示を守れなかったことへの怒号はない。流れで仙道が選択した攻撃パターンは三井も納得してくれたのだと、ポイントに繋がらないながらすとんと納得できたところはあって、残り少ない分数に使う次のオフェンス指示が乱暴に書かかれるホワイトボードを、三井の指示を聞きながら、止まらない汗をタオルで拭いつつ仙道は目で追った。ディフェンスはオールコートへ切り替え、ファウルゲームのタイミングは仙道に任せる。と切り上げて三井は勢いよく立ち上がった。両手を強く打ち鳴らす。
「よし、勝ちを奪ってこい!」
その力強い、どんな秒数でも諦めるということを知らない挑戦的な横顔が好きだ。少し見惚れて、持っていたスポーツドリンクをスタッフに奪うように取られた自分に三井の目が向く。近づき顔を寄せても不審に思う者はいない。HCがキャプテンに策を授けている。そんな風に捉える周囲の中で、唇が触れそうに近づいた三井の目が悪戯に笑う。
「負けたら今日はナシな」
「えーーーッ?!」
「勝ちゃいーんだ!」
ビシッと指を突きつけられて、ヘッドコーチにドヤされたと思ったチームメイトが笑い合う。発破をかけられたことに違いはない。
「よーし、頑張っちゃいますよ」
3Pを決めたときに掲げる選手が多い、親指と人差し指で輪を作り、他の指を立てたハンドサインを三井の顔の前に突き出すと、「勝てたらな」と不敵な笑みが返る。相手チームには3Pの予告に見えたのかもしれない。こちらを伺う顔にまたへらっと笑ってみせてから仙道には珍しい大声を張り上げた。
「ッシャー! 行くぞおーッ!」
常にない仙道の鼓舞にチームメンバーが肩を揺らせて驚きつつも、アドレナリンの上がりきった声で「おうっ!」と揃ってこたえる。その広い背を見送りつつ、三井はきつく締めたネクタイのノットに手をやり、口を緩めた。
この地方での連戦時のホテルは決まっている。そのホテル側の配慮なのか、宛がわれる部屋も大体が固定されていて、何度か見たドアの横の、角のメッキが剝げかかった数字のプレートを見て部屋を確認しつつ、仙道はドアをノックした。
くぐもったような声が応えを返してきて、数秒のちに仙道の前にドアが開かれる。三井は既にシャワーを浴び終わっていたようで、ふっと仙道の鼻に自分と同じシャンプーの匂いが届けられた。こざっぱりとしたTシャツハーフパンツで、しかしデスクの上にはまだラップトップが光を放って置かれている。歓迎してくれとまでは言わないけれども、まだ仕事モードから抜けていないようで、仙道は少しガッカリしながらも自分に待てをかけた。
「…熱心ですね?」
「いろいろ忘れねーうちにやっときたいんだ」
三井は仙道からさっさと背を向け、またデスクについた。
「ふーん…」
仙道は照明の落とされた部屋の中に入り、テレビ台の扉を開いた。一世代前のゲーム機を取り出して手際よくテレビに接続する。このゲーム機も顔馴染みになったホテルのスタッフの配慮だ。
「こっちは準備オッケーでーす」
「うんー」
わかっているのかいないのかわからない曖昧な声だけが返ってきて、三井の顔はラップトップの淡い光に照らされたままだった。
高校時代に何度か対戦したライバル校のメンバーだった三井が、早々に選手生活に区切りをつけて収まっていたB1のアシスタントコーチから、B2リーグへヘッドコーチとして移籍していたのは知っていた。来季前の交渉時にそのチームから提示された書類に積まれた金額よりも、他にもB1から選手を数名補強したフロント陣の本気度よりも、自分がこのチームに決めた理由はこの三井だった。仙道は立ち上がり、無遠慮に冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。
「あ、発泡酒じゃない! ホントのビールだー。もらっていいっすか?」
「んー…っておまえ、さっきも結構飲んでたよな。あんまり飲み過ぎんなよー?」
「はーい」
その三井HCがあるゲームにハマっていると知ったのは、偶然見つけたSNSでの呟きだった。見れば湘北高校時代の三井のチームメンバーの一人のアカウントで、未だに三井とは仲良く連絡を取り合っているらしい。それを知ってからの自分の行動は早かった。同じく連絡を取り合っている高校時代の古い友人にゲーム好きがいたことを思い出し、自分も気になっていたのだと嘘をついて教えを乞い、慣れないコントローラーを手に研鑽を積んだ。それから三井に近づき、さり気なく話題を振れば、三井の方から食いついてきた。
なぜそんなことまで面倒臭がりの自分がやったか。
プルタブを引き上げて口をつけると冷たく苦い刺激が喉を滑り落ちる。
もちろん下心がある。
三井がB2のあるチームのヘッドコーチに就任したというニュースを目にして、仙道が思い出したのは高校時代の三井の姿だった。きれいなフォームに似合わない、やんちゃそうな全開の笑顔に顎の傷。IH予選で気になって仕方なくなって、国体で一緒のチームになって自覚した。自分が男もいけるということを知ったはじめての恋だった。なんとか近づいて気兼ねなく話せるようになっても、もちろん告白などできようはずもなく、忘れようと努めていたのに、大学時代も数度対戦し、同じプロバスケットボールプレイヤーの道を歩み、あまつさえ今では同じチームのHCと選手だ。
近づいてはみたものの、プロリーグなど考えてみれば当たり前に高校時代より更に告白などできない状況だった。せめても二人だけの時間を持ちたいなど、ずいぶん未練たらしい心情が自分にもあったのだな、と仙道はしみじみと缶ビールに口をつける。
「おし! 待たせたな」
「今日は負けませんよ。ゲーム勝ったし。3戦連取までオッケーなんですよね?」
「んーいいけど、おまえ疲れてんだろ。後日に回してやってもいいぜ?」
「大丈夫です。三井さんこそお疲れ?」
「ハハッ! 誰に言ってんだ?」
どかっと勢いよく自分が座ったベッドの隣に腰をかけてくる。鼻を擽るシャンプーの香りに揺らいで三井の方に倒れそうになる体と心を戒めて、仙道はテレビの画面に向き直った。
ゲームはストーリーは一応あるけれども単純なシューティングだ。あまり頭を使わないのがいいんだよ。そう言って三井はコントローラーを握り直した。
そうして深夜に画面の前に二人並んで襲い掛かってくる敵機相手に、ビールを飲みながらどうでもいい話をする。バスケの話しはしない。自チーム所在地から距離のある遠征時の、仙道にとっては何物にも代えがたい大切な時間だった。が、やはりここ最近で迷惑をかけてしまった話題にどうしても流れていく。
「で、どうなの?」
「何がですか?」
「ナニがって。おまえ、」
「あー…すみません。別れましたよ」
「そっか。あ、おまえそっち危ねぇ」
「おっとっと」
カチカチと操作する音の合間に投げかけられた質問の内容は、先週別れたばかりの交際相手。今度の相手はちょっとばかり世間的に名前が知られていたから、クラブチームにもいらない迷惑をかけてしまった。
もちろん遊びで手を出したわけではない。忘れさせてくれたら、という願いも、隣で口を尖らせる当の本人には勝てなかった。そういう事に女の子は勘がいい。ましてや、社会的にも認められた容姿に自信のある相手はさっさと自分を切ってくる。そんなことを繰り返しているうちに、よくない噂が立ってしまっているのは不本意ながら、あまり心の痛んでいない自分は確かにひどいことをしている男なのかもしれない。
「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
「んー…いや、いーんだけどよ。ここだけの話し、広報なんか話題ができたなんて不謹慎に喜んでたしな。おまえはその…大丈夫?」
「俺は全然。…っし!」
「あー…負けたー! くそっ! おまえ強くなったな?」
「そうですか?」
コントローラーを放り投げて自分の肩に勢いよく頭を預けてくるが、仙道はそれを見ない。と思うとすぐに背後に倒れてベッドに横になった三井も仙道は敢えて目にしない。これで今日も終わり、と仙道は立ち上がって、三井のコントローラーを拾った。片付けていると、背後から伸びた手が仙道寄りのテーブルに置きっぱなしになっていた飲みかけの缶ビールを持ち上げる。
「あ…」
気づいた時には三井はそれを一気に呷っていた。
「なに、まだ飲むんだったか? いいぞ、もう1本ぐらいなら」
言って、冷蔵庫に向けられた指に首を振る。
「いえ、もう」
「そうか?」
もう時間も遅い。あともう少しで日付を変えようとしている。明日は遅めの出発で移動だけの日だが、選手がヘッドコーチの部屋にあまり遅くまで居座るのもおかしいだろう。片づけを終えて振り向くと、思ったより近くに三井の顔があって、仙道は思わず体を引いた。
「おまえさー」
「なんですか?」
「…なんか俺に言いたいことあるんじゃねぇ?」
近くで見る三井は思ったより酔っていたようだった。いつもの厳しいコーチの顔が、瞼が半分に落ちた眠い子供のような瞳で不満そうに口を尖らせて至近距離から自分を見上げてくる。
「言いたい事? そうですねぇ…給料アップとか?」
プレイタイムは存分にもらえてるし、むしろオールラウンダーの自分は使い勝手がいいのかもしれないが、もう少し休憩させてくれてもいいくらいだ。そんなことを真剣に考えることによって、自分を見上げる大きな三井の目から逃げる。
うっかりと引き込まれてキスでもしようものならキャリアの終わりだ。それを惜しいと思うほどにはバスケにもまだまだ未練がある。
「ふざけんな。てめーの年俸が一番たけーよ。…いや、真面目にさ」
「真面目ですよー。この上もなく」
少し茶化すように答えれば、基本性格も子供のようなこの人はすぐに、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。簡単に、あっけなく、三井の温もりは離れていってもう自分の手には届かない。
「そーかよ。ならいーんだけどよ」
「はい、大丈夫です。キッチリ働いて来年はB1行きましょ」
破格の年俸はそのためのものだ、という意識はしっかり持っている。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「おう。寝坊すんなよ? 朝食はちゃんと食べに降りてこいよ?」
「はーい」
いい返事をすれば笑って見送ってもらえる。それで満足だ。仙道は自分に言い聞かせて部屋を後にした。
「ちょーっと待ったー!!」
審判の笛よりも、自陣のベンチのHCの大声にコート内の目が一斉に向いた。ライン際に立つ主審につかつかと歩み寄った三井が、馴れ馴れしくその背に手を置き顔を寄せる。
あーまただよ。敵味方なく苦笑が漏れる中、それを認めた仙道は苛々と顔を顰めた。
今はそういうシチュエーションだから。
自分の大人げない態度に対する言い訳に、他の選手とは違った意味合いの苦い笑いが漏れる。
「なに、今の、肘?」
「そうです。わかってるんだったらベンチに戻ってください、三井ヘッドコーチ」
「ちょちょちょっと待てって。よーっく見てた? 今の! 仙道の! 華麗なユーロステップ! ありゃーディフェンダーがついてけなくて体当ててったから、」
「ベンチに。戻ってください。三井ヘッドコーチ。あと今度ライン踏んだらテクニカル取るから。ちゃんと見てるからな!」
「木暮~」
主審の咥えた笛に頬の力が籠められて、三井は一歩引いてハンズアップした。
二人が湘北高校のチームメンバーであったことは、対戦した仙道も覚えている。コアなファンは2人のやり取り目当てにゲームを観に来るほどだ。それでも毎度2人の距離が近い。ように仙道には見えて仕方がない。睨みつけて三井を追い払う木暮主審を複雑な思いで仙道は眺め、審判にまで嫉妬をするようじゃなーと天井の電光表示板を仰いだ。
今夜部屋に行くのはやめておこうかな。
そう考えただけで胸が苦しい。
催促されるまでボールを無駄にバウンドさせていた仙道は、木暮の真面目そうな顔に情けなく笑ってボールを手放した。
チームバスから降りて、駐車場を自分の車へ向かっていたところに背後から呼び止められた。すぐにわかってしまう三井の声。重症だなーと思いつつ、笑顔を作って仙道は振り向いた。
「どうしたんですか?」
「いや、おまえさ、この頃俺の部屋来ないじゃん?」
まさか。そこを言ってくるとは思わなかった。三井の気をそんなことで遣わせていたのだと思うと申し訳ない。が、ここでまた絆されてしまうと、今までの我慢が水の泡だと、仙道は強いて面倒そうな顔を作った。
「うん、ちょっと疲れちゃって」
「そっか。大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。じゃ」
さっさと切り上げて運転手席側に向かおうとすると、三井が邪魔をするように立ち塞がった。
勘弁してほしい。
仙道は大きく溜息をついて、荷物をわざとらしく背負い直した。
「…疲れてるんです」
「仙道、…俺、何かしたか?」
仙道は驚き、目の前の三井を見直した。ふざけてはいない。この上もなく真面目な顔が、ふっと苦しそうに眉が寄せられた。
「もしかして、…おまえ」
気づかれた? いや、そんな筈はない。細心の注意を払ってこの気持ちは押さえ込んできた。
仙道は三井が次に何を言い出すのか、極力話さないと決めていたのに、息を詰めてその顔を見つめた。
「俺のこと気持ち悪いか?」
「…はい?」
予想外の言葉を切り出されて、仙道は思わず高い声を出していた。
「おまえ、俺のこと気づいたんじゃねぇの?」
「三井さんのことって…」
気づく。ずっと三井のことを見続けていたけれども、何を気づくというのか。
三井は仙道への探るような視線を外し、小さく息をついた。
「チームがこのまま優勝したら…B1上がったら俺はここを辞める。だからおまえは契約通りここにいろ」
「はい? なんで三井さんが辞めんの?!」
「そんだけ。引き留めて悪かったな」
「ちょっ!」
仙道は来た時と同じように唐突に踵を返した三井に手を伸ばした。腕を掴むと、三井が振りほどこうとして暴れる。
「ちゃんと説明してくださいよ、三井ヘッドコーチ! 納得いきません」
「言った通りだ。これ以上なんもない!」
「俺は! あんたがいたからここに来たんだ!」
勢いで言葉が口から滑り出ていた。暴れていた三井の体が止まる。
「は?」
「あ…」
言ってしまった言葉は戻らない。仙道は覚悟を決めて三井に向き直った。
「あんたがいたから俺はこのチームに来たんです。…あんたと一緒に戦いたくて」
驚いたまま固まったような三井からは、何の言葉も返ってこない。「じゃ」と言い置いて、仙道は三井の体を避けて、運転手側に回りドアに手をかけた。
「ちょ、待てって!」
キーが解除された音が聞こえて、だが、開く前に仙道の腕に三井が伸ばした手をかけた。
「なに、おまえナニ言って」
「あーもう、だから!」
なるようになれ。
そう考えると体が勝手に行動していた。三井の体を自分の車に押し付け、自分の身体と挟みこんで動けなくしてから手で顎を掴んで乱暴に持ち上げ、三井の唇にキスをした。触れて、その痺れたような感覚にすぐに離した唇をまた押し付ける。胸の間に入って自分の着ていたシャツを掴んでいた三井の手にようやく気付いて、仙道は顔を離した。
「こういうことです。そこどいて」
三井は仙道に腕で押し除けられるままによろけるように脇へ避け、仙道は無言で車に乗り込んだ。一つ息を吐き、エンジンをかけた時、助手席のドアが勢いよく開けられた。
「ちょっ!」
制止する間もなく、助手席に乗り込んできたのは三井だった。
「な、あんた何考えてんの?!」
「おまえこそ!」
三井は運転席に身を乗り出して仙道に詰め寄った。
「何も言わずになんだよ! なんだってんだよ!」
「何ってわかんでしょ?! そういうことですよ!」
「そういうことじゃわかんねぇよ!」
「なっ…あんたバカなの?!」
もう自チームのヘッドコーチもなにもあったもんじゃない。あんなことをした男の車に乗り込んでくるとか。あまりの話しの通じなさに頭痛までしてくる。
「いいから降りてください。俺はもう、」
「降りるか! おまえ、わけわかんねぇよ! だっておまえ女の子好きじゃん。ずっと付き合ってきたの女の子じゃん。しかもとっかえひっかえしやがって、そんなヤツが俺にいきなりナニ言ってんだよ! ナニやってくれてんだよ! 俺の部屋に来たって何言うわけでもするわけでもねーし! ずーっとゲームやってっし! どーでもいいこと話して帰ってくし!」
三井は激昂すると言葉が悪くなる。高校時代、グレていた時期があったらしい。というのは後で聞いた話しだった。ちょっと想像がつかなかったけれど、怒っているときはその片鱗が見えて、それはそれで三井の知らなかった面が見えたようでうれしい。というか、え…?
仙道は目の前の怒鳴り続けている三井を見つめた。ダレ気味の練習中よりも、負け戦の時よりも、ずっと怒りに興奮して我を忘れているように見える。長い間後を追い続けてきた人が怒り狂って目には薄く涙の膜まで張っている。
「三井さん、それって…」
「それでいきなりキスとかナニ考えてんだよ! からかってんのか?! そんなに俺がおかしいか?!」
「そんな、え、待って、待ってください」
仙道は両手で、怒鳴り続けている三井の肩を掴んだ。
「待って!」
「んだよ!」
「からかってなんかいません。本気です。本気で俺、三井さんのことが」
吃驚して固まったような三井は大きな目を瞠る。堪えきれなかった涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。それにまた唇を寄せたくなって、仙道は堪えた。
「好きです。ホントです。ずっと…ずっと好きでした」
「…ウソつけ…」
「ホント! 本当です!」
「ウソだ。ウソ…」
嘘だ、を繰り返す目の前の人に弱り、仙道は掴んだ肩を自分の身体へと引き寄せた。力が抜けたような体はすんなり素直に抱き寄せられる。
「ずっと。あんただけだ。でも正直に言うのが怖くて。誰か忘れさせてくれねーかって思ったけどダメでした。やっぱ忘れらんねー」
「ウソつけ」
「ホントだって。ね、三井さんは? もしかして三井さんも俺のこと…?」
ここまで怒るそのことを考えてみると、少しばかり自分に都合よく考えてみてもいいのではないだろうか。
そんな期待をして恐る恐る自分の肩に額を押し付けている人に聞くと、顔が横に振られて自分の肩により強く押しつけられた。
「…おまえ、ムカつく」
「すいません…」
「俺、上司だぞ」
「そうですね」
「年も一コ上だし」
「はい」
辛抱強く、我慢強く。ここまで耐えてきたことを考えれば、三井の今の機嫌が直るまでの時間など大したものではなかった。
「謝んなよ。悪いなんて思ってねーだろ」
「うん。ずっと待ってたから」
「待ってたって。…待ってたのは俺だ」
やっと。やっと聞けた。
待っててくれた? 全然気づけなかった。鈍い自分を殴りたい。
「顔見せて?」
今の三井の顔が見たい。どんな顔をしているのか知りたい。
「おまえが俺のこと抱え込んでんだろ。クソ、このバカ力」
勢いよく顔を上げた三井が、下から仙道の顔を覗き込んでくる。涙はもう流していなかったけれども赤い目元をして、あの自分の大好きな大きな目できつく睨み上げてくる。
「キスしていいですか?」
「…んなこと聞くんじゃねぇよ」
腕の中から伸びあがった三井が勢いよく顔をぶつけてきた。ぶつかる前に三井の頬に手を添えて、勢いを和らげて目を閉じる様を見届けて、三井の唇を受け止めた。
「このまま攫っていきたいけど」
耳元で呟くと、頭が身じろぎしてまた下を向いてしまった。三井は手ぶらだったから、まだ帰る用意が整う前に自分を追いかけてきたのだろう。その予想通りに、「…荷物まだロッカーん中」とくぐもった声が聞こえてきた。
「この後、俺ん家でメシでもどうですか?」
「…メシかよ」
「うん。じゃないと」
あんたをすぐに食っちゃいそう。
すると、ドンと胸に手を突かれて、三井が笑いに弾けた顔を上げた。
「バーカ! ホントおまえって」
仙道が眉を下げて笑うと、三井も笑い声を止めた。照れたように顔を背けながらうれしい提案をしてくれる。
「…テキトーに食うもん買っておまえん家行くからよ」
「うん…待ってる」
「おう」
三井は小さく返事をし、助手席のドアに手をかけた。降りてすぐに閉められたドアの窓に三井の悪戯そうな笑顔が覗く。振られた手に応えようと手を上げた時にはもう三井は踵を返して走っていった。選手よりも動きが多いHC。今はもう自分の恋人なのだろうか。そう考えると湧き上がる笑みと胸の苦しさに、仙道は顔をハンドルに倒した。
end