蛇衣を脱ぐ




「流川っていい顔してるよな」
「え、ナニ? 突然。気味悪リ」
 部活後の汗まみれの練習着を着替えもせずに座り込んだ更衣室で、仙道は独り言のように口を開き、越野は目を見開いた後にそれを嫌そうに見下した。
「おまえが男の名前を独り言って。でも俺の方が男前ってか?」
「…俺は仙道の方がいい顔していると思う」
 ボソッと呟くようにTシャツを脱ぎながら福田が言って、仙道はハハッと思わず声を上げて笑った。
「サンキュー、福田」
「ナニ、おまえら。ホントにうすっ気味ワリィんだけど」
 越野は顔を歪めて、もう取り合わないというように自分のTシャツに手をかけ着替えを再開しはじめた。
 座りこんでいても思考はどんどん悪い方向に潜ってようで、仙道は本格的に立ち上がることができなくなる前に、床に手をつき息を吐きながら重い体を立ち上げさせた。
 練習している時はまだいい。体を酷使してバスケに集中していると自分に思い込ませれば、直に本当に夢中になって大体のことは忘れていられた。
が、あの夏の大雨の日から部活が終わるとすぐに思い出される顔があって、疲労が体全体を覆い尽くす前に頭の方で思考が停止する。
 今日はそれに気になる顔が加わった。三井を思い出せば楽しいだけの思い出でなくとも胸は痛みと甘さを伴ってどうしようもなく疼くのに、そいつの顔はどうにも癪に障るし焦燥感がいや増される。
 そもそもが男の顔なんかいいも悪いも考えたことがなかった。流川はバスケに関しては確かに見るべきところがある。だが待ち伏せされて1on1をしたときもただそれだけで、お願いしてくる割にはエライ仏頂面だったよな、ぐらいの印象しか残っていない。
 それが今日。
 あの二人の距離の近さを間近に見て瞬間腹が煮えるような怒りを感じた。
 人から感情が平坦だと言われることはよくある。実際そうなのか、と思い込んでいたところにこの感情が突然降って湧いたようで、新鮮な驚きとともに曖昧に感じていた三井への感情が自分の本気であると認めざるを得なかった。
 同じ高校の同じバスケ部の先輩後輩なんだから、気遣うのも親し気に見えるのも当たり前のことなのかもしれない。例えば自分と相田のように。
 …いや、違う。
 仙道は開けたロッカーをまた叩きつけるように閉めて、一瞬で静かになった周囲の目が集まった。
「なに、ホントどうしたんだよ」
 眉を寄せた越野が顔を近づけて小声をかけてくる。乱暴なようで実は面倒見のいい友人だった。
 そうだ、こいつにはずっと心配かけてきたんだ、と思い出し、「ゴメン」と仙道は力なく笑った。
「手が滑って」
 越野は仙道を見、納得したようではないけれども、「気ぃつけろよ」とだけ声をかけて、また着替え始めた。
 バレバレの嘘でも、そういうことにしておいてくれる。本当にありがたい友人だ、と仙道は感謝しつつ、溜息はまた漏れる。
 手に入れた、と思ったのに。いつも手をすり抜けて逃げていってしまう。
 今まで付き合う時ってどうしてたんだっけ、と記憶を遡るが、大体は告白されて、というパターンしか思い出せずに仙道はまた沈んだ。
 口説くって…どうすればいいんだろう。その前にあれはやっぱり拒否られたんだろうか。やっぱりやっぱり男じゃダメなんだろうか。
 大体がはじめから印象は最悪だったに違いない。でもキスを返してくれた。抱きしめてくれた。自分を見上げてくる顔は恥ずかしそうだったけれども、大きな瞳は照れているように潤んで、キスの後の唇は濡れて光って。思わず下腹が疼いて、言わなくてもいいことを言ってしまった。
「あぁぁぁ…」
 仙道はロッカーに手のひらを当てたまま、ズルズルとまたしゃがみ込んだ。
 しばらく体育座りのまま放心していると、上から清潔な匂いの乾いたタオルが落ちてきて、頭の上から顔が覆われた。
 友人の気遣いに感謝しつつ、しばらくそれに甘えて仙道は膝の上に置いた腕に顔を埋めた。



「仙道! まだいるか?」
 呼び掛けられて、顔を上げると更衣室には既に同学年の部員の姿はなく、体育館の清掃が終わったらしい一年生達が仙道に遠慮しながら、静かに着替えていた。
 寝ちゃったのかな。
 少し頭の中がすっきりしたような心地でかけられていたタオルを掴んで取り除けながら、「はーい、いまーす!」と立ち上がる。
 部室を覗き込んでいた田岡が、安心したように顔を緩め、それからまた見慣れた怒った表情へと強張った。
「おまえ! まだ着替えておらんのか! 汗をかいたまんまでいると体が冷えて、」
「すいません、寝ちゃったみたいで」
 説教の途中とわかっていながらヘラッと笑って言うと、ムッとした顔が仕方のない、というように緩んでため息をついた。
「国体の件だ。4校合同出場が正式に決まった」
 田岡は大きな封筒を仙道に差し出してきた。
「要項だ。失くすなよ? 近い内に4校の主将同士で集まる機会を設けるから目を通しておけ。…絶対に失くすなよ?」
「リョーカイです。…?」
 突き出された封筒を手で持ち、引こうとしても、田岡の手は封筒から離されない。
「…越野は? 植草でも…」
「もう帰ったんじゃないかなー。部室にはいないんで」
「福田も?」
「いませんねー」
 部室内を振り返ってみても2年はもういない。
「…そうか。いいか、絶対に絶対に! 失くすなよ?」
「…はい」
 最後に3回目の念押しをされて、ようやく仙道は田岡から封筒を受け取った。
 4校合同。あの人は選抜されているんだろうか。されてる。決まってる。
 そう思うというより念じながら封筒を開こうとして、田岡からまた声が飛ぶ。
「まずしまえ!」
「…はい」
 部室の入口で踏ん張ったまま田岡が目を光らせていて、仙道は仕方なくロッカーを開けて封筒を入れた。
「早く帰って休めよ」
「…はーい」
 ドアが閉められて田岡の姿が消えると、仙道はまずロッカーから封筒を出して中の書類を引き出した。選抜選手一覧のページへ飛んで湘北高校の欄を目で追う。探し出すまでもなく、上から2番目に見たかったその名はあった。
「っしゃー!!」
 思わず叫んだ仙道に部室中の目が集まった。それへ「ごめん、さっさと着替えるな」と笑って声をかけ、手に持った書類を大切に封筒に入れ直して学生鞄にしまい、鞄の蓋を念入りに閉じた。



 そっかー。そうだよね。
 ミーティングに集まった男達の顔ぶれを見渡して仙道は溜息をついた。
 国体選抜チームの説明会が自校で開かれ、放課後を待って足取りも軽く指定された教室に向かうと、目当ての顔が見つけられずに仙道はしおしおとしかめっ面で手招きしていた越野の隣の席についた。
 あの人、主将じゃないもんね。
 湘北の席には同学年の宮城と覚えているようないないような男の姿があった。海南と翔陽は3年の牧と藤真が来ると聞いて、もしかして、と思った。
「なんだ、いきなり人のツラ見て溜息ついてんじゃねぇよ」
 相変わらず顔は滅多に見かけないほどに整っているのに口は悪い翔陽の主将が仙道を睨みつけてくる。かと思うとその顔はすぐ笑いに変わった。
「それとも仙道くんは違う誰かを期待していたのかな?」
 ズバリ正解を言われて眉が上がる。
 知ってるはずはない、と逸る動悸を抑えていると案の定、「俺も女子マネがよかったなー」と藤真は宮城の顔をチラ見した。
「なっ! ナニ言ってんっすか! ふざけないでくださいよ!」
 クールな宮城が顔を真っ赤にして怒っている。
 へーと思って見ていると、藤真も同じことを考えたのか、「悪い、冗談だ」とすぐに顔を改めた。
 これからこのメンバーで一つのチームを作っていくことになる。さすが、というか、どんな軋轢も残さないように努めているのだろう歴戦の主将の顔に、仙道は自分も見習わなくちゃな、と気持ちを改めた。
 田岡がすぐに入って来て雑談の口が止まった。各校顔合わせの後の合同練習スケジュールの説明から強化合宿へと話しが進み、仙道のページを捲る手が止まった。たった今引き締めたばかりの気持ちが揺らぐ。
 宿泊施設の整っている海南で二週間後に一週間。あの人と同じ宿泊所に泊まる。
 他愛もなくうれしい気持ちが湧き上がり、と同時に病院近くの海岸でやったスイカ割りを思い出した。
 流川の名前も当たり前のようにリストに記載されていた。
 浮かれてばかりはいられないな、と仙道は手に持ったシャーペンを指の上で回した。



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