A Season's Wait




3日振りの駅に降りた夜、久しぶりに親と顔を合わせることが億劫で、三井は改札を出てからもなんとなくフラフラと反対側の出口から構内を抜けた。
 帰ればよくて説教か、悪ければ母親に泣かれるかが簡単に想像できて、すぐに自分の部屋へ逃げ込むにしても自分を待ち受けているであろう面倒を考えると、その鬱陶しさに心底うんざりした。
 三井はいつの間にか肩まで伸びていた顔にかかった髪を苛々とかき上げた。やけに眩しい光を放つ自販機が目について、親が寝付くまで時間を潰すか、とそちらの方向にふらふらと寄っていきながらポケットの中の小銭を探っていると、先にその自販機の前で立ち止まったカップルがいた。男は目を惹く程に背が高く、女の子の背はその胸の辺りまでしか届かない。「ち」と舌打ちして、三井はすぐ傍のガードレールに腰を落とそうとして、あらぬ場所の痛みに顔を顰めた。
 めちゃくちゃやりやがって。
 今日紹介された男は最初こそ丁寧だったものの、挿入してからが執拗だった。竜に迎えを頼んでいなかったら自分よりウェイトも上背もある体で押さえつけられて、まだ解放されていなかったかもしれない。そう思うと三井は嫌悪感に小さく身を震わせて、それに気づいてまた舌打ちをした。
 まだ慣れることが出来ない痛みは、後悔とはまた違った後ろめたさを連れてくる。体を同性に明け渡したきっかけはもう忘れてしまった。勧められるままに酒を飲み、ベロベロに酔っぱらって意識を取り戻すと知らない男が自分の上で腰を振っていた。だが異性をひっかける手間がいらない即物的な関係は、今の自分には楽だった。面倒なことはなく、身を任せていれば暴力にも似た乱暴な快楽を与えられて、全てを放り出して忘れていられる。酒は然程に強くなく、未練に煙草にすら手を出せない自分にとって、気遣いのいらない体を捨て去るようなセックスはただ気が楽だった。
 何を買うわけでもなく自販機の前に立つ二人は明るい人工的な光に照らし出されて、同じぐらいの年齢でいながら今の自分とは対極にいる人間のようだった。座ることは諦めてそっぽを向いていても、人通りの少なくなった夜では聞くとはなしに、その二人の会話が耳に届いてくる。
「…どうしても?」
「うん、ゴメン」
「私なんかしちゃった? 気をつけるから、」
「ちがうよ。…俺がわるい」
 んだよ、別れ話かよ。他でやれ。
 苛々ともう一度睨みつけると、男の背負ったドラムバッグが目についた。
 球技系の部活か、と考えるとますます三井の眉間の皺が深くなった。見ればツラも随分と整っている。自分の捨てたもの、失ったものを全て持っているような男に憎悪すら湧いた。
 三井は立ち上がり、大きく聞こえるような舌打ちをして背を向けた。

 今度会ったらヤキ入れてやる。そう思っていたのに、なぜだか駅に降りるとあの背の高い男と会う機会が多かった。
 重い足取りで改札を抜けた時も目の前を先に歩いていたし、顔の傷の痛みには顔を顰めつつも心の重みが外れて、髪を短く切ってきた帰りには、駅前のコンビニでレジ待ちの列のすぐ目の前に並ばれた。もしかしたら家の最寄り駅が同じなのかもしれないが、それでも自分の中での区切りの時には必ず目に入ってきて、何かの呪いか?と考えてみたりもした。
 会うといっても一方的に自分が相手をそれと認識しているだけで、わざわざ探していたわけでもなかったが、どうしたってあの飛びぬけた長身とおかしな髪型は目に入ってきた。今日も改札を抜けようとしたところで、その先を歩いていた広い背中を見つけた。が、何度目かの邂逅を経て、今の三井には初めてその男を見かけた時ほどのの苛々と忌々しさはなかった。
 短く切った髪の毛を風が抜きぬけていく。まだ慣れないこの髪型で、この時期この時間は少し肌寒い。身を震わせてさっさと家に帰ろうとした三井の目に、男のトレーニングウェアの背のローマ字が見えた。
 リョーナン…陵南。
 男がバスケ部だとしたら、噂に聞いたあの仙道なのかもしれない。いや、きっとそうだ。宮城達が話していた、驚くほどのセンスを持つ、バスケ部にしても長身の、いかにも女にモテそうなイケメンツンツン頭。100%外見は合ってる。
 そう思いついた時には三井の足は止まっていた。今日も女連れ。結構なご身分だ、と思いながら眺めていると、その連れの女の子が泣き始めた。
 またか。
 顔を顰め、今度こそ足を返そうとした三井は、だが「その…俺…、女の子が好きになれないだけで」と低く聞こえてきた声にぎょっとして足を止めた。仙道の目の前の女の子もびっくりして泣き止んで仙道を見上げている。
 バカなのか?
 遅い時間で人通りはまばらとはいえ、こんな往来で自らの性的指向を打ち明けている仙道に驚いた。
 いや、ゲイなのか? でも前にも違う女の子と歩いてるとこ見たぞ?
 仙道がゲイだったとしても驚きには変わりないが、それでもそんなパーソナルなことを付き合っている人間を振る理由にしても、いやだからこそその相手に言うなんて。バカ正直通り越してただのバカとしか思えない。赤の他人の三井でさえ、思わず立ち止まったまま成り行きを見守ってしまった。
 が、相手の女の子はそうとは考えなかったらしい。
「ウソばっかり! バカにしないで!」
と、一発背伸びの平手を仙道に食らわして、肩を怒らせて帰っていった。

「…あのー…今その話ししなきゃダメですか…?」
 情けないような切羽詰まったような声が上がって、三井は今目が覚めたように瞬きをして目の前の男を見た。
 あの時の背の高い男が。仙道が、今自分のすぐ目の前にいる。顔を赤くして困ったような顔をして、至近距離から三井の顔を覗き込んでいる。つくづく今の自分達の関係が不思議だなぁと思いつつ、三井は近過ぎる仙道の肩を押しやった。
「ちょっと思い出したら気になってよ」
 仙道は三井の方に乗り出し気味だった体をすごすごと大人しく引っ込めた。
「まさか見られていたとは…」
「見てた。2回も別れ話を見た。ということは俺のいないところでもっとあった確率は高いな」
「いえ、その2回だけです」
 その仙道と自分はどういう因果か今はお付き合いをする関係だった。あの頃の自分に言ってもきっと信じないだろう。
「ふーん…?」
 目の前の麦茶の入った薄い緑色のグラスを見る。仙道の言葉を信じればあの女の子のどちらかが置いていったものだ。これはどっちの女の子からもらったもんだ?
 今日で仙道の家に来るのも何回目か。その度に無神経にも出されるグラスに大人げないとは思いつつ苛ついて、ちょっとばかりいい雰囲気になったところで昔話をしてやると、仙道は面白いように焦って挙動不審になった。
「そういやさ、…あれ、ホント?」
「あれ?って?」
「…女の子が好きになれないってヤツ」
「あー…そこまで聞こえてましたか…」
 今度は顔に手をやって天を仰いでいる。
 大きな手。
 そうやっていると男前の顔がほとんど全部隠れる。その手に繋がる腕も長い。長いし太い。太いだけじゃなくて、筋の通ったきれいに筋肉がついたアスリートの腕だ。それが自在にバスケットボールを操っていた姿を思い出して、三井は仙道から見えないことを言いことにしばらくその姿を眺めていた。仙道はといえばしばらくそうやって固まっていたが、ふーっと大きく息を吐きだすと、渋々といった様子で白状した。
「…ホントです…」
「…ふーん」
 でもやるこたやってたんだろう。 
 三井はこちらに向けられている、困ったような仙道の色男面から顔をぷいっと逸らした。
 じゃなければ間合いを詰めてくるこの手慣れた感じはないし、バカにしないでと女の子に殴られたりもしないだろう。
 三井はますます面白くなくなって、仙道がいつの間にか消していたテレビのリモコンを取ってまたつけた。
 癇に障るようなタレントの嬌声が上がって尚更に苛々に拍車をかける。三井は電源を消して、リモコンをベッドの上に乱暴に放った。
「やっぱり…気持ち悪いですか?」
「…ハ?」
 驚いて振り向くと、仙道は自分と並んでベッドに腰かけていた体を、床に落としていた。
「なんで? ナニ言ってんの?」
「だって」
 あー。
 思い当って三井は慌てた。
「チゲー。チゲーよ。そんなんじゃなくてさ」
 とは言っても、自分の悋気を白状することはできなかった。
 改めて頭の中で数えればここに来るのも4度目。三井は休みの日にやってきて大体はコンビニで買ってきた食料を持ち込んで、ビデオを観て、他愛ない話しをして実家には寄らずに寮に帰る。仲のいい友達と変わらないただそれだけの関係。ガードレールから仙道の部屋に移動しただけで、高校生の出会ってお互いを認識したばかりの頃と全く変わりはなかった。
 三井とて相手に触れたい。自分よりも大きな手に触れ、長い腕に触れて、仙道の全てを感じたい。
 でも何かが自分の手を止めるのだ。
「…おまえと付き合いたいってはっきり言ったの俺じゃん」
 三井は仙道に、というより、自分に言い聞かせるように言った。見つめてくるこの優しい目をした顔が、他にも向けられていたのだと考えるとどうしてもイラッときてしまう。まるで「あなたがとても好きです」と目で訴えてかけてくるような。
 これだから男前はズルい。と思う。
 きっと。だから。一歩を踏み出せないのだ、と三井は口を尖らせつつ思う。
「うん。でも、」
「でもなんだよ」
「…三井さん、スキって言ってくれないし」
「…は?」
 時々乙女なこと言い出さないか、この男?
 いや、付き合いたいって言った時点で、そんなの仙道にもわかりきっていることだと思っていたけれど。もしかしたらやっぱり気にしているのかもしれない。
 仙道と駅で会うようになったのは、はじめは偶然だったが、かなり早い時点で、あ、これは待ってくれてるんだな、と三井は気づいていた。
 自分を見つけた時の仙道の本当にうれしそうな笑顔とか、冷え切った体に偶然で触れた時とか、どうしてなんだろうと考えざるを得なかった。考えて行きついた答えに気づいた時はもう自分も仙道のことが気になって仕方がなかった。自分でも悩んで、それなのに仙道がゲイであるかのようなことを立ち聞きしたことは、迂闊にも今のいままで忘れていたのだ。
 三井には同性と関係を持った過去があった。多分、ゲイであると自認している仙道より関係した男は多い。自暴自棄になって自分を抱きたいと言ってくる男には、気分が乗れば簡単に体を明け渡してきた。が、自分の上を吹き荒れる圧倒的な力や快楽に身を任せはしたものの、相手の男を好きになったことはなかった。正直、誰一人として顔も覚えていない。好きになった男はただ一人、目の前の仙道だけだ。だがそれを認識したことで、自分の過去をも思い出して、今まで頭の中で作り上げていた理由ではなく、その事実があったからこそ仙道の求めに応じられない自分に三井は気づいた。気づいて怖気をふるった。
「…そんなの。…わかんだろ」
「うん…でもちょっと不安になっちゃって。すいません」
 そうやって情けなさそうに笑う姿はこんなに大きいのに庇護欲すら感じさせて、本当にズルいと思う。いや、本当にズルいのは自分なのか。
 三井もベッドに掛けていた腰をズルズルと床に落として仙道と並んだ。
 自分を追いかけてくる過去をどうにか払いたかった。
「俺だって」
 大学に進学してからは不安だった。いや、その前から。仙道と週一で会っていた習慣がなくなると決まった日から。
 最後のチャンスだと思って、最後に塾に行った日になんとか走って駅に辿り着いて仙道に会えて、考えていた言葉で仙道のアパートに入り込むことに成功したのに。
 確信はあったけれども、もしかしたら。
 もしかしたら自分の思い込みで、本当は違うのかもしれないと思うと悶々として、自分からはとうとう言い出せなかった。仙道の方から言ってくれるかもしれない。そうズルくも考えていた。
 そうだ、これ。このグラスのこともあった、と三井は目の前のローテーブルの上のグラスを睨みつけた。
「俺だって…なに?」
 言いかけて一向にその次の言葉が続かない三井に、仙道がその先を促した。
「俺グラス使わねー。ペットボトルでいーし」
 あ、と思った時にはそんなことを口を尖らせて言っていた。仙道はヘロっと眉を下げて、「わかりました」と笑う。
 …どーしてそんなに優しーんだよ!
 三井は床に手を片手をついて仙道へと身を乗りだし、乱暴に勢いよく顔を近づけた。タイミング悪く振り返った仙道の高い鼻梁と自分の鼻が当たって、「って!」と聞こえて、唇が届く直前に慌てて三井が離れると仙道が鼻を抑えた。その顔が赤い。
「え…あ…え?! 三井さ…え?!」
「おめー鼻高過ぎ」
 勝手に顔が赤くなるのは、仙道の赤面が移ったからだ。
 三井は不発に終わってますます身の置き所がなくなり、体育座りの足に乗せた腕の上に顔を伏せた。
「あの…三井さん? こっち向いて?」
 うるせー。向けるか、バーカ。
 声にならない罵り言葉を口の中で繰り返して三井は唸る。
「ねぇ、お願いです」
 耳元で囁かれる、低いのに胸の奥にまで甘く響いてくる声に、耳朶まで赤くなっていそうだ。
 ふ、と顔を伏せた腕からはみ出ていた耳が温かくなった。仙道が顔を寄せているのだ、と気づいてまた心拍数があがる。三井はそちらに少しづつぎこちなく顔を動かした。自分の腕と体の隙間から部屋の明かりが見えて、仙道の顔が覗いている。やっぱり優しい顔は赤いままで、でもいつもより真剣な表情で、長い睫毛が頬を擽ってこそばゆい。
 三井が顔を完全に向け終えると、仙道の唇がそっと自分のそれに触れてきた。じわりと伝わってくる熱に頭の中が沸き上がりそうになる。 キスなんて何回も繰り返してきたのに。もっと触れたくて感じたくて堪らなくなる。確かな熱に泣きたくなる。
 こんなことはあっただろうか。
 中学生の頃に付き合った女の子と。高校に上がって、夜に巷を徘徊しながら抱いた女の数だけを競っていた頃と。顔も覚えていない男達に体をまかせた時と。
 三井は顔の下に組んでいた自分の腕を振りほどき、その動きで離れてしまった仙道の顔をその腕で引き寄せた。間髪入れずに自分の背にも仙道の、あの長い太い腕が回る。夢中になって唇を合わせていると、自然に上唇が開いた。その間からハッと仙道の吐息が漏れて、また三井は、仙道の胸に手をついて唐突に体を離した。
「あ…」
 仙道の眉が下がる前に。
「好きだ」
 助けを求める代わりに、自分が本当だと信じる気持ちを言葉にした。三井の好きな顔が驚きに固まって、それから泣きそうな顔になって歪んだ。
 その表情を見つめる三井の顔も緩む。
「うん…俺も。あんたが好きです」
 仙道の笑んだ顔が近づき、額が三井の額に触れた。
 少し離れて、目を伏せてまた唇を求めると、初めて合わせた時のように仙道はまたそっと触れてきた。その上唇を舌を出して舐めると、困ったような顔をして微笑んでくる。
「…なんだよ」
「止まんなくなっちゃうから」
「…いーじゃん」
 そう言って仙道の体に手を伸ばすと、焦ったような声を上げた仙道に手を掴まれた。
「ちょ…待って待って!」
「んだよ」
「まさかの急展開で」
「おまえだって初めてじゃないだろ?」
「そりゃそうですけど、でも…」
「でもなんだよ」
 やっぱり、と思いつつ口が尖る。
「その、同性とは初めてで…」
「そうなの?!」
 驚いた。仙道のことだからもう性別関係なく経験済みなのかと思ってた。
「なんとなくはその…やり方は知ってますけど…三井さんに無理はさせたくないから」
 そんなの。
 慣れてるから平気。言葉が口から出そうになって三井は体を固まらせた。
 またあの感覚が体を動かなくさせる。目の前の触れたい体を遠いものに感じさせる。
 あ、これか、と気づいた。
 やっぱり仙道に触れてはいけないのかもしれない。自分なんかが。
「うん…」
 三井は曖昧に返事をして、仙道から体を離した。立ち上がって、視線を感じつつ、自分の荷物を乱暴に拾って玄関に向かう。
「今日は帰るわ」
「あ、待って」
 慌てた仙道が立ちあがり近づいてくる。
「送ってきますって」
「だからさ。言ったじゃん。俺、女じゃねーの。おまえが付き合ってきた女達とチゲーの」
 仙道の笑顔が固まり、足が止まる。
 違う。
 おまえのせいじゃないんだって。
 こんな言い方しかできない自分に幻滅する。
 本当の理由を言えば仙道の誤解は解けるだろうが、自分をゲイだと自覚している仙道にはもしかしたら侮蔑されげしまうのかもしれない。あの優しい笑顔が自分にはもう二度と向けられなくなってしまうのかもしれない。
 それをおしてまで仙道に告白する勇気を、三井は自分の中に見つけられなかった。
 黙って動かなくなってしまった仙道を置いて、三井は玄関のドアを開け、振り返らずに仙道の部屋を後にした。





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