A Day's Wait




 朝とは打って変わって閑散とした静まりかえった改札口を覗き、周辺を見渡して目当ての人がいないことを確認して息を一つ吐くと、それが白く目の前に立ち登った。本格的な冬というにはまだまだ間があったが、今日は季節外れの寒波が到来したとかで体は指の先まで冷え込むようだった。仙道は白い息にちょっと驚いて、すっかり冷たくなった鼻の頭を擦った。
 越野に気味悪がられながら部誌を隅々まで真面目に書いて、恐縮して遠慮する一年生の鍵当番を半ば無理やり変わり、時間調整してここの駅に着くともうプラットフォームからの階段を降りてくる乗客もまばらだった。ここに着いてから既に20分は経っている。先週会えた時間帯からするともしかして今日は会えないのかもしれない。そんなことを考えると寒さが余計に身に染みる。あと5分、いや10分だけ待ってみよう、と少しでも北風を避けようと壁際に足を向けると、背後から「よう」と会いたかった人からの声をかけられて、沈みかけていた気持ちが一気に浮上した。
「三井さん、お疲れ様です」
「おう」
 ニカッと笑うその口元からも白い息が立ち昇る。
「仙道もお疲れ。今日はまた遅いんだな」
 当たり前のように二つ持っていた缶コーヒーの一つを手渡されて、暖かさに思わず頬が緩む。
「ありがとうございます。今日はまたもいっちゃんのシゴキに熱が入って」
「ハハッ! そっか。俺もちょっといろいろあって残ったから。今日はさみーし…さすがにもういねーかと思った」
 照れ臭そうに、ちょっと余所を見ながら唇を尖らす人をまじまじと見つめてしまう。
 それでも来てくれた。暖かい缶コーヒーを持って暖まった手よりも、心の中が暖まっていくようだった。


 三井とこの駅で初めて会ったのは、まだ少しだけ暑さの残る秋の夜だった。自分は家に入ることが出来ずに、ただひたすら地面を睨みつけてうっかり落としたものを探していたのだった。
「おまえ、仙道だよな」
 しゃがみ込んで行き交う雑踏の中でその人々の足元を見ていた自分に、頭の上から聞きなれない声がかかった。妙なことをしているとは思うだろうが、ただの好奇心であればできれば放っておいて欲しい。そう思って顔は上げなかった。
「ナニしてんの?」
「…鍵落としちゃって」
 名前を知ってるということは自校の生徒だなーと思いつつ、この声に思い当たる友人はいなかったし、適当に答えて放っておいた。定期入れをポケットから引き出した時にアパートの鍵が一緒に引っ掛かって落ちて、それが後から来た乗降客に蹴られて、それをまた後から来た人に蹴られて、また蹴られて、見る間に遠ざかって見失ってしまった。そんなことを説明するのも億劫だった。
「あー…」
 呆れたような声が上がって、だからそのまま立ち去ったのだと思った。自分は鍵がなければ家に入れない。目の端に見える人の足が少なくなってきて、人波が途切れてきたようだと立ち上がって引き続き捜索を続けていると、同じように両手をズボンのポケットに突っ込んで、下を向いて地面をキョロキョロと睨みつけている学生服が目に入った。少し驚いて見ていると、気付いて声をかけてくる。
「見つかったのか?」
「あ…いえ」
 見覚えがある顔だった。湘北のシューターだ。仙道は少し驚いてその姿を見つめた。
 一度試合で当たっただけなのに。こんな遅い時間なのに。そんなことをしてくれるような人には見えなかったのに。
 IH前の練習試合ではなぜか見なかった人だった。後からどうやら訳アリらしいという話を彦一からちらっと聞いて、少し意外に思った。チームの中で見せた楽しそうな弾けるような笑顔は真っすぐで、その印象が強かったから。そういえば自分達を見る目つきが怖そうな感じの人だったかも、とは後で思い返した。あとはあの3Pには参ったなー、とか。途中で下がっちゃったし。戻ってこないシューターが気になって湘北のベンチを見ても、その姿は見つけ出せなかった。
「すみません、いいですよ、もう遅いし」
「遅いから困るんだろーが。家には連絡したか?」
「俺一人暮らしなんで」
「え? そうなの?!」
「東京からの越境なんです」
「あーもしかして田岡監督に引っ張られた?」
「そうそう。そういえば三井さんも声かけられたんですよね」
「よく知ってんな。あの人しつこくなかった?」
「ハハハ、まぁちょっと…?」
 二人で駅の構内を下を向いてウロウロしながら、そんな話で盛り上がった。
「お」
 声を上げた三井が隅に置かれていた自販機に向かって走っていった。しゃがみ込んで地面に膝をついて、指を自販機の下の隙間に突っ込もうとしていて、仙道は驚いて止めようとその肩に手を置いた。
「そんないいです、俺やりますから。下にありました?」
「んーなんか光ってんのが見えたんだけど」
 地面につきそうなほどに顔を寄せて、「取れた!」と明るい声を上げた三井の開いた手のひらに乗っていたのは、鍵ではなくて500円玉だった。
「お、ラッキー」
「ハハハ、ラッキーって」
「時効時効。喉乾かね? 俺ミルクティー飲もうかなー。仙道は?」
「…じゃあ俺も」
 その場で缶のミルクティーを二つ買って、「どっか座れるとこ」と、三井は構内を出てガードレールに腰を降ろした。
「この辺り住んでるんですか?」
 プルタブに指を引っ掛けて、こんな遅い時間に三井がこの駅にいたことが今更ながら気になった。
「うん。最寄り駅」
「そっか。今まで会いませんでしたね」
「いや、俺は知ってるよ。おまえ何度も見た。ってか、おまえ目立つんだよ。デカいしその頭」
「えーそうですか?」
 ちらっと頭の隅に彦一から聞いた三井の噂が頭を過る。
 きっとすれ違っていたとしても気づかなかっただろう、その頃の三井。だって今の三井だったら絶対覚えてる。その人と今、隣り合って座って缶コーヒーなんか飲んでいる。少し擽ったいような気持ちが湧き上がってきて、仙道は緩めた口元を缶につけて誤魔化した。
「ほら。こういうのってさ、ちょっと休んで目先変えると見つかったりすんじゃん」
「あーそういうことありそうですね」
「あ!」
 言った傍から、三井は声を上げて、ガードレールから勢いよく腰を上げた。見ているとそう遠くない植え込みまで歩いて、屈んで何かを摘まみ上げた。
「コレか?」
 ニカッと笑って、掴んだそれを顔の横に上げる。奇跡のように現れたそれに仙道も声を上げた。
「あ! ソレ! ありがとうございます!」
 手を伸ばすと、ひょいっと避けられる。
「おまえさーこんなん失くすって。なんかキーホルダーとかつけとけよ」
 確かに裸のままのそれは見つけにくくて、何か目印をつけようと思いつつそのまま忘れていた。どうしてかやっと見つけた鍵よりも、それと並んで顔を綻ばせる三井の笑顔の方に目がいった。なんとなくこのまま別れるのは寂しいな、と思った。
 それから一週間後に改札を通ると、「お、いたいた。仙道ー!」と声をかけてきた男がいた。練習後の重かった足取りと荷物が途端に軽くなって、三井が来る前にそちらに走り寄った。
「三井さん! こんばんは」
「おー。おまえさ、鍵どした?」
「え、ありますけど?」
「じゃなくて、なんか付けた?」
「や、まだ」
「これ」
 目の前にぶら下げられたのは、プラスチックのはりねずみのマスコットがついたキーホルダーだった。
「え? これ?」
「家に転がってたんだけどさ、これ見たらなんかおまえ思い出して。おまえに似てね?」
 キシシと音が出るような悪戯な笑い方をする三井にまた目がいった。
「ハハッ! そーかなー。でもいいんですか?」
「おう。おまえにやろうと思って持ってきたんだからよ。じゃな」
「あ、待って!」
 すぐに踵を返そうとした三井に焦って引き留めていた。引き留めてから、不思議そうに見上げてくる顔を見て、あ、かわいいと思いつつ、どうしようとまた焦って考える。
「なに?」
「えーと、キーホルダーとこの間のお礼に…あー…缶紅茶驕ります!」
「缶かよ!」
 咄嗟に財布の中身を考えて出てきた情けない誘い文句に、三井は笑ってくれた。そんなツッコミを入れながら、そろそろ寒風の吹く中を「俺今日はココアー。ホットね」とか言いながら付き合ってくれた。
 お互いの学校のこと、部活のこと、興味深いこともあったし、正直三井の口から出る言葉でなければ興味のない話しもあった。それでもころころと表情を豊かに変えて話し続ける三井を見ていることは楽しかった。
「そういえばこの間もですけど帰り遅いですね」
「あー。部活のない日は塾行ってんだ。俺3年だし?」
「え、受験?」
「そー。推薦取れればいーんだけどさ。もしどっからも声がかかんなかったらって考えるとやっぱな。まあ最悪ローニンしてでもバスケ続けてーよなー」
 おまえなんか引く手あまたなんだろーけどよ、と本気の入った平手をペチッと後頭部に受けて、「そんなことないですよー」とヘラッと笑って返すと、「イヤミか」と口を尖らせる。その時、あ、もしかしたらこの人と同じ大学に行ける未来もあるんだ、と仙道は思いついた。ポツポツと推薦の話しが既に舞い込んできている大学名を頭の中に並べて探りを入れた。
「三井さん、どっか狙ってるとこあるんですか?」
「今はもうんなもんねーよ。そりゃ一部リーグの大学狙いたいけどよ。俺ブランクもあるし。…カッコ悪いよな」
「そんなことないです! カッコ悪くなんかない! 三井さんは」
 かわいいです。
 違う、そんなことが言いたいんじゃなかった
「なんだよ」
「俺も一緒にやりたいなって。三井さんと」
「何を?」
 何を。
 またしても仙道は缶ココアを片手に固まった。初めて飲んだ缶のココア。三井に合わせて同じものにしてみた。甘い。甘くてあたたかい。
 もちろんバスケを一緒にやりたい、そういう意味で言った。でも、改めて聞かれると、そうか、この人と一緒にバスケ以外のことだってできる。そう気がついた。例えば同じように缶をすする唇に目がいく。
 いやいやいや。
「バスケットボールです!」
「なんだよ、バスケかよ。もったいぶるから何かと思ったぜ」
 また弾けるような笑顔。それから仙道はその曜日だけ、部活が終わった後もずるずると居座って、三井が帰ってくるだろう時間に合わせるようになった。ただ植え込みを歩道と分けているガードレールに二人並んで腰かけて、意味のあるようなないような話しをしているだけで楽しかった。


「なぁー、おまえ一人暮らしなんだよな?」
「はい、そうです」
 いつものガードレールに座ると冷たさが一入尻に沁みた。隣で同じように腰を降ろして、立ち上がった三井も同じことを考えたのかもしれない。缶コーヒーのプルトップにかけた指を戻して、立ったまま座った仙道の顔を覗き込んできた。
「今日さーすっげーいい話しがあんだよ。…おまえん家行っちゃダメ? 今日さみーし」
 え?
 あ。それは気付かなかった。
 この時間があんまり楽しかったから。少し考えれば気づけたのに。
 っていうか来てくれんの?
「やならいーんだけどよ」
 固まっていた仙道を勘違いして、三井は拗ねたように横を向く。
「やっ! いいんですか?! え? ホント?」
「いいんですかって! 俺が聞いてんの。じゃ行こうぜ。ここさみーわ! ケツが凍る」
 一転笑顔になった三井の顔にまた胸がずきんときた。慌てて荷物を持ち上げて、「こっちです。ちょっと歩くんですけど」と先に立って仙道は歩き始めた。
 途中のコンビニで弁当やら清涼飲料水やら菓子やらを買い込んで、アパートの外階段に足をかけた。カンカンと音を立てる足音が今日は二人分で、それが一つは三井ののものだと思うとなんだかそんなことにも浮かれてしまう。
「散らかってます…ケド」
 ハリネズミのキーホルダーをつけた鍵を取り出してドアを開けつつ、もうちょい片づけていきゃよかったなーと思う。6畳一間の部屋はきっと足の踏み場にも困る。電気をつけて先に上がり、台所兼用の短い廊下を通って部屋に入ると想像と変わらない風景が広がっていた。仙道はとりあえず暖房をつけて、買ってきたコンビニのビニール袋をベッドの前の小さいローテーブルの上に乗せ、せめてもと落ちていた部屋着や雑誌を雑にまとめてベッドの上に放り投げた。
「あーわかってるって。男の一人暮らしなんてそんなもんだろ」
 他にも一人暮らしの男を知ってるような、そんな気になることを言いつつ三井はスニーカーを脱ぎ、「お邪魔しまーす」と声をかけて上がってくる。
 自分の部屋の中に三井がいる不思議にちょっと感動しつつ、律義に台所で手を洗う三井の横に立って待ち、同じように手を洗った。
「腹減ったよなー。弁当弁当」
 三井は勧める前にローテーブルの前に腰を落として、コンビニのビニール袋から自分が買った弁当を取り出している。仙道はペットボトルから茶を適当にグラス二つに注いで持ち、一つを「どうぞ」と三井の前に置いた。
「へー洒落たコップだな」
 言われて、仙道は持ってきた薄いグリーン色のグラスに目をやった。確かに色のない雑然とした自分の部屋では浮いている存在かもしれない。
「人にもらったんですよ」
「カノジョとか?」
「あー…まあそうです。前に付き合ってたコにもらいました」
 やたらとペアの雑貨を持ち込まれて辟易した思い出がある。別れてすぐに大体は処分したけれども、そういえばこれは地味めだったし大きくて使いやすくて残しておいたのだった。
「…ふーん。やっぱおまえモテそうだもんな」
「そんなことないですよ」
 言いながら仙道も腰を降ろして、同じように弁当を取り出しながら三井の様子をちらりと見た。そういえば三井は、「すっげーいい話し」があると言っていたのだった。
 え、それ、「俺も彼女が出来た!」とかいう話しだったらめちゃくちゃヘコむんですけど。
 そう考えた時に、あ、自分はもう三井のことが好きなんだな、と仙道は気づいた。
 自分は同性しか好きになれない。気づいたのはそう前のことではない。
 異性には確かにモテるから何度か請われて、自分ももしかしたら女の子を好きになれるのかもしれない、と期待して付き合ったことはあるけれども、申し訳ないけれども本気で好きだと思えたことがなかった。少なくともこんなに胸がドキドキしたことはない。今はもう面倒くさくなって、「他校に付き合っている人がいる」とそれとなく友人達に伝えていて、それが学校内に広まったのか告白されることも少なくなった。
 自分の性的指向についてそれなりに悩まなくもなかったけれども、バスケに打ち込むことで棚上げできていたのかもしれない。それが今は本当に好きな人できて、しかもその人がこんな時間に自分の部屋にいて、一緒にご飯を食べようとしてる。これってもしかしたら結構幸せなことじゃね? 仙道は割り箸を割りながら、つい顔を綻ばせた。
「なにおまえニヤついてんの」
 気づくと、口に放り込んだ白米で頬を膨らました三井が、横目で眉を顰めている。
「なんでもないですよ。あ、弁当チンしなくてよかったですか?」
「あーもいいよ。腹減っちゃって」
 食べ物で頬を膨らました三井はいつにも増してかわいい。
 こういう時間が続くのだったら、自分にとってはもしかしたらトドメを刺されるのかもしれない、その「すっげーいい話し」は聞かなくてもいいなと思う。と思ったそばから三井が口を開いた。
「さっき言った話しだけどよ」
「…はい」
 自覚した途端に失恋はいやだなーと思いつつ、割箸でウインナーを摘まみ取る。
「あ、赤いウインナー」
「好きですか?」
「ガキの頃はよく食べたよな」
「はい、どうぞ」
 箸を向けると、三井は何の迷いもなく、パクリと食いついた。仙道は自分でやっておいて、びっくりして目を丸くして、まじまじと目の前の人を見つめてしまった。
「んだよ。おまえがくれたんだろ!」
「ハハ、もう一つ食べます?」
「…いらね。でさ、一つ来てた推薦の話し、決まったんだよ! とうとう!」
「あ…おめでとうございます!」
 そっか、その話し。
 少し胸を撫で下ろして、よかったよかったと一緒になって喜ぶ。
「どこですか?」
「E大学ってとこ。まー一部じゃねーけどな」
 頭の中で検索にかけて、自分のとこにはきていなかったと、仙道は内心肩を落とした。
「そっか! でもよかった!」
「うん、サンキュな」
 あれ?と思う。三井の方もさっきより喜び方が少ないように見えた。嬉しそうに笑った顔はそのまま。でも何か考えているように、箸でほとんど空になった弁当を突ついている。
「おまえとこうやって会うのも今日が最後かなー」
「…え?」
 やっぱり彼女?と考えたのもつかの間。
「もう塾も止めたんだ。今日で終わり」
「…あ」
 そっか。もうその必要がないんだ。
 もう会えないかも、と言われたショックと、いや、なんとか会う口実を作れないのかと忙しく考えて、動けないでいる仙道に三井は追い打ちをかける。
「だから今日はなんとか会って伝えときたかったんだよ」
「そ…だったんですか」
「うん。なんつーか。おまえとこんな風に喋れるなんて思ってなかったなー。いろいろサンキュな」
「…いえ…こちらこそ…」
 どんどん、どんどんこれが最後というように話しが進んでいく。
 え、だってまた会えばいいじゃん、と考えるそばで、自分達ってなんだったんだろうと考える。自分は三井のことが好きで、会うために懸命に努力を続けるなんてかわいいことしてたヤツだったわけだけれども、三井は?  用事や偶然がなければ会う必要もない他校のただの顔見知り?
 ぐるぐるとそんなことを考えていると、隣から「ごっそさん!」と大きな声が聞こえてきた。見ればもう三井は食べ終わった弁当の蓋を締めている。仙道は半分以上残った自分の弁当に目を落とした。
「まぁさ、」
 三井は空になった弁当を持って立ち上がった。
「長い休みには帰ってくるからよ。見かけたら声かけて」
「…え、大学場所どこっすか?」
「一応東京だけど一年は入寮が義務なんだってよ。ったくメンドー、」
「あの!」
 三井の話しを遮るように仙道は立ち上がって声を上げていた。
「なに?」
 びっくりしたように自分を見上げてくる三井に、仙道は前に踏み出した足を止めた。
 今、同性の自分に告白されたところで驚かれて、しかもここは自分のアパートで、下手したら気味悪がられて、今までの思い出さえも失ってしまうのかもしれない。もうあの笑顔を向けられることもなくなるのかもしれない。
 そんな考えが頭を過ると、もう次の一歩が踏み出せなくなっていた。
「あ…や、いえ…。そっか。寂しくなります」
「…うん。仙道、おまえさー、」
「はい」
 三井はしばらく仙道の顔を見上げていたが、ふっと息をつくと空の弁当箱持ったまま、何かを探すように頭を振った。
「やっぱなんでもね。ゴミ箱どこ?」
「あ、そこです」
 何かを言いかけた三井が気になりながら、仙道は台所の傍を指をさした。三井は廊下に出て、ゴミ箱に弁当箱を突っ込んだ。
「…俺、やっぱ帰るわ。もう遅いし。おまえも明日また練習だろ?」
「あ…そうですけど、」
 菓子でも食いながら、三井が観られなかった去年のインハイ予選のビデオを観ようと話していたのだった。それを言う間もなく、三井はさっさと自分のコートと鞄を手に取って背を向けて玄関に向かう。
「待って! あの、送ります」
「いらねーよ、女じゃねーんだし」
「でも、」
「じゃな」
 三井に続いてスニーカーを履こうとした仙道の鼻先でドアは閉められた。すぐに外階段を走り降りる、あの鉄を打つ甲高い音が聞こえてくる。それも聞こえなくなった暗い玄関先で、仙道はさっきまで三井のいた部屋の中を途方に暮れたように振り返った。

 電車を降りると、着ているシャツの内側に籠るような蒸し暑さに自然に口が開いた。頭の中に浮かんだドラムバッグの中のボトルは電車の中で空にしていた。
 改札を出て、なんとなくすぐ脇の自動販売機に目がいった。アパートまでの距離と暑さを秤にかけて、そのすぐ目の前まで行く。喉が乾いているのに、缶入りの紅茶に目がいった。もう全てコールドに切り替えられた飲み物の中で、少し逡巡して結局いつもは選ばないミルクティーのボタンを押した。構内から足を踏み出すと、迷わずガードレールに行って肩に食い込む荷物を下ろし、それへ腰をかける。
「元気かなー」
 思わず口に出た言葉に自分で笑ってプルタブに指をかけた。カシッと音をさせて引き開けて、半分ほど飲み干して、フーっと息を吐き出すと、隣からも同じようにカシッといい音が聞こえた。
 何気なく隣を見て、仙道は目を瞬いた。
「え…あれ」
「よぉ。やっぱおまえって目立つな」
 ニカッと笑う顔。少し髪の毛が長くなったけど、変わらない笑顔。
 ズキンと胸が痛んで、かろうじて顔を笑顔の形に曲げた。
「お久しぶりです。里帰りですか?」
「うん、そー。短いけどな」
「何日ですか?」
「あと2日」
 そりゃまた短い。
 そんな中でも会えた。自分を見つけて会いに来てくれた。
 あーまだ好きなんだなーと自分にため息をつくと、「なんだよ」と早速唇を尖らせてくる。
「いいえ、お元気そうで何よりです。でも忙しそう」
「忙しいっていうか。また一年坊主からのやり直しだよ。早くスタメン入らねーとなー。あ、おまえんとこはインハイ本戦決まったな。おめっとさん」
「ありがとうございます」
 微笑んでみせると、三井はプッとまた膨れて顔を逸らし缶に口を付けた。その顔を不思議に眺めつつ、やっぱり湘北負かしちゃったからかなーと苦笑いが浮かんだ。
「…なぁ、メシ食った?」
「いや、まだです」
「じゃ、どっか行かね? 今日は俺、奢るわ」
「え、いんですか?!」
 期待に声が高く跳ねた。それを笑って三井が釘を刺す。
「あんま高くないとこな」
「そこの定食屋どうです? ここ真っすぐ行ってすぐ左の」
「お、俺もよく行く。安いし美味いよな、あそこ」
 手に持った缶のミルクティーはぐっと残りを干して、重かったドラムバッグを軽く背負い直して、缶をゴミ箱に投げ入れた。同じように後から三井もゴミ箱に投げ入れる。
 並んだ三井の姿はTシャツにジーンズでもうどこから見ても大学生だ。横目でチロチロ見ていると、「なんだよ」と睨み上げてくる。
「私服の三井さん、初めてで。もう大学生なんだなーって」
「あー。そうだなー。俺もこの前までは制服だったのになー」
「大学はどうです?」
 暑さの落ち着いてきた夜の路地裏を歩いていると、季節がまた変わった空気の匂いが鼻を掠める。昨日まではどこか寂しかったようなそれも、今は隣に歩く人がいて現金にただ嬉しい。
 先に着いた仙道が定食屋の古い引き戸を開けて三井を通すと、店から威勢のいい歓迎の言葉が飛んできた。
「んー、なんか寮と教室と体育館しか行ってなくてまだよくわかんねーよ」
「彼女作るヒマもない?」
 少し探るような言葉を挟んでしまったことには大目に見て欲しいと思う。カウンターに並んで座ると、冷たいおしぼりを渡されて手を拭き、ようやく腹の空き具合が認識できてきた。
「んな元気ねーよ。おまえと違って」
 ん?
 油染みのできた壁に貼られたメニューを見上げていた仙道は、聞こえてきた言葉に引っ掛かって隣の三井を見た。
「聞いたぜー。他校に年上の彼女がいんだろ? あ、年上ってことはもう大学生だったりすんのか」
「え、待って、俺そんなのいませんよ」
 慌ててそれは、それだけは断固否定する。言い募ろうとしたところに店のおばちゃんが「決まった?」と割って入ってきたので、「生姜焼き定食」と伝える。
「俺、ひれかつ定食。一つでいいの? まーた隠すなよ。昨日聞いたばっかだぜ?」
「じゃあチャーハンもいいですか? え、昨日? 誰に?」
「あ、俺、半チャーつけて。宮城。昨日湘北行ったんだよ。先週練習試合だったんだろ? そこでおまえんとこのバスケ部員に聞いたって言ってたぜ?」
「あー…」
 まだあの噂は生きてるのか。
 思い当って納得した。でも、昨日?
「あれ? 三井さん昨日から帰ってたんですか?」
 てっきり今日帰ってきたばかりなのだと思っていた。それを口に出すと、三井はなぜか顔を顰めてそっぽを向いた。
「あー…いや。帰ってきたのは一昨日?」
「え…」
 そうか、自分と会ったのが今日なだけで、もう休みには入っていたのかもしれない。昨日まで体育館の改修工事が入っていて外練だけでいつもよりは早く帰ってきていたから、もしかしたらすれ違っていたのかもしれない。
 もしかしたら?
 もしかしたら。
 そう自分に都合よく考えて、「待ってくれてたり…しました?」と思わず口に出してしまっていた。
 三井はカウンターに置かれた箸立てを見ながら、「んー…まぁな」と小さく口に出した。怒るかと思った三井のその返事に仙道は驚いた。
 それって。それは。
「コンビニ行くついでにちょっと覗いたり…」
「昨日まで体育館に工事入ってて! 外練だけで早かったんですよ、帰り!」
「そうなの?」
 勢い込んだ仙道に驚いたように三井は目を瞠り、睨みつけていた箸立てから一膳、箸を取って向けてきた。
「あ…りがとうございます…」
「うん…」
「あの!」
「うん?!」
 もしかしたらだけど、少しだけ調子に乗ってもいいのかもしれない。自分の声でびっくりしたように振り向いた顔は少し赤かったから。
 ただの他校の顔見知りを待つのに貴重な休みの時間を使ったりしないよな?
 自分に問いかけて、自分にゴーサインを出す。
「明日…会えませんか…?」
 箸を握り締めたまま、勢いのままに三井を誘っていた。誘っておいてから、なんだこれ、と自分の頭を抱えたくなった。今時中学生、いや小学生だってもっと気の利いた誘い方ができるだろう。大体会うってなんだよ。自分から声をかけたのは初めてにしてもひどい。
「え…いいけど…別に…」
 悶々とした内省は三井の一言でどこかに飛んでいった。
 やった!と声を上げる前に、目の前にそれぞれ定食が運ばれてきて、自分が何をしているかもわかっていないように、仙道はとりあえずそれに箸をつけた。
「どこ…行くんだ?」
 三井も箸にしたヒレカツを睨みつけながら、どこか上の空であるような気がする。
「え…と。三井さん、どっか行きたいとこあります?」
「んー…。おまえが誘ってきたんだろ。どっか連れてけ」
「…はい。はい」
 チラッと三井を見ると、三井も自分を見てきて、仙道は箸に持った生姜焼きを一切れ、カウンターに取り落とした。
「あーもったいねぇ」
「すみません…」
「ホラ」
 三井は箸に摘まみっぱなしだったヒレカツを一つ、仙道の白飯の上に乗せた。
「あ…ありがとうございます」
「…なあ、それってさ、」
「はい?」
 カツ?のことじゃないよな。
 仙道はまだソースのかけられていないカツを見て、また三井に目を戻した。
「その…そういうこと…で、いいの?」
「え…?! あ! そ、あ!」
「ちっ! ちげーんだったら!」
「いえっ! ない! じゃなくて! ちがくないですっ!!」
「そっそうかよ」
 その後はどうやって皿の上をきれいにしたのかは全く覚えていなかった。三井に「そろそろ出るか」と促されて立ち上がった時には、二人の前に並んでいた皿はどれもきれいになっていたから、もったいないことをしていないことは確かだった。
 店を出てもなんとなく離れがたくて、それは三井も同じに思っていてくれたのか、駅の構内でそれぞれ反対方向に足を向けるところで足を止めた。
「…じゃあ、また明日」
「…おう」
 一応別れの挨拶なんか口にしてみたりはしたけれども、どちらの足も動かない。
「あ、どこ行くとか決めた?」
「いえ…。映画?とか?」
 定食屋でもそうだったが、言ってる間もとてつもなく恥ずかしくて顔が上げられない。とりあえず今までの経験から考えたベタな行き先を提示してみたが、なんとなく三井と行きたいところはそんな場所ではないような気もした。
「そっか。それでもいんだけどさ、…俺さ、」
「はい」
「俺、…おまえん家でもいいけど。こないだ観れなかったビデオとか」
「あ」
「やならいい」
「やじゃないですっ! っていうか…」
 この間、三井は逃げるように帰ってしまったから。
 あれから自分はヘコみきってくよくよと考え続けた。もしかしたら自分の気持ちが三井にバレてしまっていたんじゃないかとか。気味悪がられたのじゃなのかとか。そう考えると、宮城なら三井の連絡先を知っているだろうと、何度も何度も聞こうとして聞けなかった。
 でも、『そういうこと』かと聞いてくれたのは三井だった。
「ちゃんと話したいかなって。そーいうこと」
「あ」
 言葉が出ない仙道を三井が睨み上げてくる。
「おまえ、さっきから『あ』ばっかだな!」
「すみません!」
 もう感動で言葉が出ないんです。
 そう口に出すのはカッコ悪いかなって。
 三井はカッコよく聞いてくれたのに。
「じゃ、明日おまえん家行くわ。ちっとは片づけとけよ?!」
「あ、はいっ!」
 返事を言う前に三井は体を返す。辛うじて張り上げた声に振り向いた三井が笑って、また仙道の胸を刺す。
 今日は帰ったら大掃除。今度は自分から三井に伝えたいと思う。




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