冷たい風が頬を刺す
冷たい風が頬を刺す。
吸い込む度に鼻先が凍える。
だがそれが気にならないほど、Tシャツから直に着たコートの中の体は熱い。
三井は飛び出したアパートから、見知らぬ町を無我夢中で走り抜けた。
信じられないことをやった。やっちまった。あんなに気をつけていたのに。
驚いたように立ち止まった犬を連れた人間に気づいて、交通量の多い大通りを目の前に、三井はようやく足を緩めた。
酒に弱いと感じたことはない。ましてや記憶が飛ぶなんて失敗をやらかしたこともない。
ただある一定量を過ごすと、気が大きくなったような、ふわふわとした高揚感はある。それは自覚している。友達と楽しく飲んでいると、悩んでいたことが小さく感じられて、前向きになって、無敵な強さを手にしたような気がして(そんなこと気のせいであることはモチロンわかっているけれども)、周囲にも鷹揚な気分を持つ。
何様だ、と言われればそれまでなのだが、未だ窘められたことはないし、飲み会にかかる声も多いからギリのところで許されているのだと思っていた。
そんなことで自分は少しばかり調子に乗っていたのかもしれない。三井は痛む頭を抱えながら、さらに苦しい肺と心まで抱えて、荒い息を整えようと両膝に両手をついた。
しかしだからといって、こんな罰はないんじゃないでしょうか、神様。
隣に寝ていたのが女の子じゃなくてよかった。それは本当によかった。隣ですやすやと寝息を立てていたのは仙道だった。前髪が降りていて、目覚めて一番にそんな無防備な顔が目に入った時には、誰だかわからなかった。
わかってからもまだ夢を見ているのかと思った。だが至近距離から顔にかかる暖かい寝息が、これは現実なのだ、と三井に教えてきた。
いや、仙道が隣に寝ていただけなら問題はない。事実、飲み過ぎて迷惑かけちまったのかなーと思った。後輩なのに面倒を見させて悪かったな、と。
問題は、俺もこいつも服を着ていないことだった。ご丁寧にパンツまで穿いていない。暖かい布団の中でもスースーする。隣に人がいることにまず驚いて、顔を寄せていた裸の胸を見て目を剥いて、でも女の子じゃなかったことに安心して、それから自分達の格好を見て横になっているのに腰を抜かしそうになった。
いや、なんとなくうっすらと記憶はあるのだ。昨日の飲み会は始まる前から浮かれていた。練習試合ではあるけれども、どうしても勝てなかった強豪校を倒して、それまでどこかギクシャクとしていたチームが一丸となったような高揚感があった。一次会はあっという間に終わり、2次会、3次会ときて、気づけばメンツも半分以下になっていた。じゃあお開きにしようか、と誰かが上げる声が残念で、酔って効き過ぎた暖房の中で火照った体を冷たい空気が取り巻くのも気持ちよくて、輪から少し離れて浮かれる仲間たちを眺めていた。
「今日はもう終わりかー。残念ですね」
少し上から聞こえてきた声に顔を上げると、この時間には珍しい顔がいた。部の飲み会ではいつも申し訳程度に顔を出して、一次会の途中で消えることも多い一つ下の後輩がいつの間にか隣に立っていて、三井と並んで騒ぐ大学生たちを見ていた。驚いて、跳ねた心臓を宥めて、つまらなさそうな声を作って突っ込んだ。
「もう今日じゃねぇけどな」
「あ、ホントだ」
仙道は今更のように腕時計に目をやって、心底驚いたような顔をした。
「…珍しいな」
「え? なんです?」
「いや、おまえがここまで付き合うのってさ」
仙道は三井に向けていた顔をまた学生達の輪にやった。
「やっぱうれしいですもん。それに、」
「それに?」
「いやー、一年は半額にしてもらえたし。食えるだけ食っとこうかと思ってずっと食ってて、実はあんまり飲んでません」
「そうなの?」
少し頬に赤みがさしていて、この男でも酒に酔うことがあるのかと思っていたのに。そう言って片手を頭にやってヘラッと笑う仙道は、やっぱりどこか掴みどころがない。半額だったのは1次会だけで、それなのに3次会まで付き合って、あまり飲んでないという後輩に、人寂しさもあって、「ちょっと飲んでくか?」と声をかけていた。
「え、いいんですか?」
また驚いたような声が返る。前向きな返事に三井も少し驚いた。仙道は部でもあまり付き合いがよい方ではない。ニコニコと人当たりはいいから上手くやっているようだが、異性にモテまくる外見や一年から背番号を獲得した選手としての技量から、少しばかり部員達が遠巻きになっているような印象はあった。ギクシャクとした部の雰囲気はそのことにも起因していたのかもしれないし、それを微妙に感じていたのだろう仙道が、今日の勝利を誰より喜んでいても不思議はないのかもしれない。
「おまえがいいなら」
「いや、ゼヒ。お供したいです。やった、三井さんとサシ飲み」
心底うれしそうな顔に三井も意外ながらもうれしくなって、懐のあまり痛まない気軽なバーへと連れ立って行った。
少し、いや大分浮かれていたのだ、自分は。
なぜなら仙道に恋していたから。
はじめは仙道の稀有な才能にその憧れているのだと思った。だが気づけばボールを触っていない時もその姿を追っていて、どころか汗をかいた体に触れる夢まで見て、飛び起きることを繰り返してて、数か月をかけて自分の気持ちをやっと認めることができた。
もちろん表立って出すことは叶わない感情だと自分に言い聞かせて、部でも高校からの顔見知り程度の関わりの付き合いに留めていた。それなのに。失態を演じた挙句に、自分達に何があったかもわからないままに速攻で失恋した。
どのぐらい突っ走ったのかわからない。なかなか整わない息が苦しくて、少しでも空気を取り込もうと顔を振り上げた。
頬を擦る優しい感覚が夢に作用していたのかもしれない。何か途方もなく楽しい夢を見ていたはずだ。
仙道は自分が未だ眠りの中にいることは認識できていた。その自分の腕の中にいる人が照れたような顔で、目が半開きのままの自分に笑って、頬を指で擽ってくる。うれしいのにこそばゆいそれは、この暖かい幸せを持っていってしまうものだということも、だからわかっていた。そして実際に自分の頬を擽っているものが夢とは違うこともわかっている。無視を決め込んで再び深い眠りの中に潜っていきたいのに、また悪戯な指が擽ったく頬を擦る。とうとう耐えられなくなって、指を掴んで口元に持っていくと、「わっ!」と声が降ってきた。
「きいちゃん?」
近くから聞こえたそれは自分の思っていたものではなく現実に人の驚いた声で、寝惚けた目を開くと、顔のすぐ脇に脱ぎ捨てられていたシャツを引き抜こうと及び腰になっていた三井と目が合った。
え…?と状況を把握する前に、その顔がくしゃくしゃに歪んで、掴んでいた指が驚くような速さで引かれて、それで仙道は完全に目が覚めた。
「あ、待って!」
同時に三井が何を慌てているのかもわかって、引き抜かれた指が掴んだシャツが頭の下をくぐり抜けていって、咄嗟に今度はそれを掴んだ。三井はシャツをさっさと諦めて、Tシャツの上にこれも床に放ってあったコートを屈んで掴みあげながら、玄関に走った。
「三井さん!」
ベッドから飛び起きて、寒くてようやく自分の姿に気づいた。
「え…? なんでなんで…?!」
驚愕しながら部屋を見渡して、取り敢えず落ちていた下着を拾って慌てて穿く。まだ正常に頭が働いてくれないけれども、ここで三井さんを逃がしちゃダメだと思った。
同時進行で、昨日、昨日…と、昨夜あったことを思い出そうと痛む頭で必死に努力する。祝賀会の後に三井に飲みに行かないかと声をかけられたのだった。それから居心地のいい肩の張らない小さなバーに連れて行ってもらって、祝杯を上げ直した。
それから、それから。
机に引っ掛かっていたジーンズを取って、慌てて転びそうになりながら足を通し、掴んだダウンジャケットを直接着込んで、裸足のままスニーカーに足を突っ込んだ。冷たさに身が竦み、思うように動けない自分の体に舌打ちが出る。
部の練習中に、気付くと向けられている視線があった。はじめは気のせいかと思ったが、練習中もミーティング中もやはり視線を感じることが多くて、気付くと逸らされる。これが何度も繰り返されると、今度はなぜ向けられているのかが気になった。
視線を捉えて、軽く頭を下げてみても、笑ってみても、慌てたようにやっぱり逸らされる。その人とは高校時代に忘れられない試合を戦ったこともある。進学先に見知った顔がいたことが単純にうれしくて、挨拶に行った時には普通に笑い返してもらえたのに。
三井は仙道と視線を合わせることをとことん避けているようで、これはもしかしたら嫌われているのかもしれない、と残念に感じ取っていた。
だが心当たりはない。一年生からスターターに選出された自分を気に入らない人間がいることは知っていたが、三井がその類の男だとは思えなかった。
言葉は乱暴な先輩だが、面倒見がよくて、後輩の人使いは荒いが、無理は決して言わずに、筋が通っていないとなれば先輩にも噛みつき、それでいていつも人の中心にいて笑っている。
気になると自分も三井を見ていることが多くなった。そうすると三井が浮かべるいろいろな表情に気づいて、得意げな顔で周囲の笑いを誘うほどの大きいことを言っていながら、人一倍の努力家で、しかもしっかりと結果を出してくる。
あの笑顔が自分にも向けられたらいいのに。コート外でも屈託なく笑い合えたらいいのに。
いつかそう思うようになっていて、だから誘ってもらえて、嫌われてはいなかったようだとわかって舞い上がった。連れて行ってもらえた店も居心地がよくて、話すとやっぱり楽しい人で、どころか先輩なのによく動く表情がかわいい人で、ずっと見ていたくなってついつい過ごしてしまった。
一緒にいる時間を終わらせたくなくて、「俺のアパートの方が近いですから」と無理に引っ張ってきたのではなかったか。
それから。
肝心なところで靄がかかる。なんだって自分はあんな格好をしていたのか。
三井さんは? 三井さんも?
お願いだからそこだけでも知らせて欲しい。いや、自分が何かをやらかしてしまったのなら、きっちり教えて欲しい。
だが、さっきの寝惚けた自分の失言は、はっきりと働いてくれない二日酔いの頭にガンガン響いて責め立ててくる。くしゃくしゃになった三井の顔。仙道のパニックに拍車がかかる。これだけでも説明しておかないと、と焦って、走る体に加速がかかる。大通りに出る手前に屈んでいる人影が見えた。いた、間に合った、とわかって、また逃げられないように、気づかれないように速度を緩めて足音を立てないように気をつけた。
追いついて、膝に手をついて頭を下げたままの人の前に立つ。その頭が振り上げられて、目の前に仙道を見つけて、表情が固まった。
「三井さん…、足…早…」
なんとか笑おうとするのに息が苦しくて顔が動いてくれない。うろうろと彷徨っていた三井の視線が自分にあてられて、それからまたふいっと逸らされた。
「…思い出した…」
「へ?」
「…やってねぇ。なんもやってねぇ」
「…え」
「酔っぱらっておまえんち行って、風呂入れっておまえが言ったのに」
あ。そうだ、思い出した。
泊まってもらうのに何をすればいいのか酔っぱらった頭で考えて、取り敢えず三井に風呂に入ってもらおうとしたのに、自分が肝心の湯を張ることを忘れて、すっぽんぽんになって寒いを連発する三井をとりあえずベッドに寝かせて布団を被せた。そのあと風呂は沸いたけれども三井は寝入ってしまっていて、どういう酔っぱらいの思考回路か、三井が裸のままでは悪いと思って自分も何も着ないで隣に滑りこんだ。
「あー…」
そうだ、何もなかった。なかったのだ。なかったのだが。
そこには自分の一抹のすけべ心があったのではなかったか。
お互い酔っているということを理由に、酔いの回った働かない頭なりに懸命に考えて、小狡い既成事実を作ろうとはしていなかったか。
いや、既成事実とまではいかないまでも、何かのきっかけにしたかったのだ。何の?と考えていると、三井はさっさと背を向けた。
「悪かったな。じゃ俺帰るわ」
「待って!」
咄嗟に腕を掴んで、振り返った三井に睨むように見上げられて、その顔を見つめてから仙道は言葉を探した。「あー…あーその。そうだ! 服! そのまま帰るんじゃいくらなんでも寒いでしょ?」
「…あー…」
「その、…なにもなかったわけだし…」
「だよな。よかったな、彼女におかしな言い訳しなくて済んで」
言った途端、三井はまたそっぽを向いて、自分の失態をやっぱりそのままに受け取っていたことに仙道は焦った。
「違います! 俺、実家で猫飼ってて!」
「…は?」
「その名前がきいちゃんっていうんですけど、実家帰るといっつも朝起こされて」
「…へー…」
三井の顔はそっぽを向いたままだった。でも少しだけその横顔が揺れた気がして、仙道は更に言葉を探す。
「えっと、とりあえず…その、朝飯食いませんか?」
「メシ…?」
「お腹、減ってません?」
三井は無言で周囲を見渡し、大通りを渡ったところにあったチェーン店の牛丼屋を指さした。
「メーワクかけたから。奢ってやる」
「いや、あの、俺…」
仙道は首元まであげていたダウンのジッパーを胸元まで降ろした。途端にぴゅうっと北風が生身の懐に吹き込んできて体が震える。
「わっ! なに、おまえ!」
「だって三井さん飛び出して行っちゃうから!」
「変質者か!」
三井が慌てて、寒さに鳥肌のたった裸の胸元を隠すようにジッパーを上げた。
「その…家に…なんかあると思うんで」
「おまえん家?」
「はい。…イヤですか?」
「…イヤじゃねぇ。けど」
「じゃあ、戻りましょう。風邪ひいちゃう」
「…ん」
また強い北風が吹いてきて、三井がぶるっと体を震わせた。それから大きな欠伸を一つ。くしゃっと歪ませた顔で、「そっか、猫」と小さく笑う。
「寒いと眠くなるよなー」
指で擦ったその目に涙が浮かんでいて、欠伸の涙ととわかってはいても、仙道は胸を掴まれたように動けなくなる。
「そうです。猫」
「ハハッ!」
昇ったばかりの朝日が大きく笑った顔を照らして、眩しい。
笑顔から零れ落ちる涙が光を纏って美しいと思った。
end