クリスマスイブ





彼との付き合いは高校2年生の時からだから、かれこれ10年になる。
振り返って考えてみると、その間にクリスマスを共に過ごしたことはただの一度もなかった。彼が賑やか好きのイベント好きであるにもかかわらず。
なぜかといえば、付き合った期間が正しく10年間ではないからだ。
恋人といえる関係になれば一緒に過ごすことが、もう当たり前のようなこの国の風潮の中、お互いそれぞれに別の場所で、悪くすれば他の人間と、もっと悪くすればベッドの中、ということも珍しくなかった。
特別倫理観に欠ける人間というわけではない。自分も彼も。だからこそ、毎年毎年別々の場所で過ごす羽目になってきたのかもしれない。
そういう自分もクリスマスだから一緒に、という考え方は持ってはいないが、三井さんは違う。聞こうとしなくても耳に届いてくるクリスマスソングに、その時過ごしている相手には悪いが、どうしても彼のことを思い出さずにはいられない。
ああ、今年もまた一緒にいてあげられなかったな。
そんなことを考えるから、暖かい寝床を用意してくれた相手に頭を下げて別れて、時には痛い思いまでして、またこうして寒い中を馬鹿みたいに待つことになる。
だがそんな行動の起因は自分の選択であって、その結果がどうなろうがもちろん彼のせいではない。社会人になってからは、この日はお仕事シーズンの真っ只中で、体調管理ももちろんもらうサラリーの一部であるから、本当はこんなことをしているのは愚の骨頂であるともわかっている。
それでも。もしかしたら、彼も。三井さんも、待っている俺を待っていてくれるのかもしれない。
そう考えて、もしくは期待して例年繰り返してきたことだが、その決心が今年は2日ほど早い。
つまり今日がその当日だ。
こんなことを毎年のように繰り返すのに少し疲れてきたな、と思うこともある。
だから、今日三井さんが来なければ、明後日ここに来ることはやめようと決心した
明日も明後日も、来年も。
かじかんだ指に息を吹きかけながらそこまで考えて、「あれ?」と口から言葉が零れ出た。
つまり。
例年、この日、今、正にこの瞬間、イベント好きで寂しがり屋の三井さんはどなたかと一緒に過ごしているわけだ。そうして、別れたことを後悔した自分が翌々日、だか一週間後だかにのこのことやってきて詫びを入れ、三井さんは渋々といった様子でよりを戻す。
「そっか」
こうして部屋の前で張っていても、三井さんは今日はここには帰ってこないことは、既に確定事項だった。
いや、下手をするとお相手を連れて帰ってきてしまうかもしれない。
手に持っていた、いかにもなシャンパンとケーキに目を落とし、少し考えてシャンパンの入った紙袋だけドアノブにひっかけて、慌ててマンションの外廊下をエレベーターの方角に足を向けた。頭の中に鳴っていた物悲しい歌詞のクリスマスソングはもう立ち消えている。
こんなところを相手を連れた三井さんに見られたら。
あのカッコつけの見栄っ張りの世間体気にしいの人に見られたら。
まとまる話もまとまらない、とそこまで急ぎ足で歩きながら考えて、なんだ、俺まだ全然未練あんじゃん。とぽっかり頭に浮かんできた気持ちを、自分で素直に認めることができた。
ガッカリ思うより先になぜだか笑えてきて、口元を緩めながらエレベーターの下層階行のボタンを押そうとしたその瞬間、箱がこの階に上がってきて、ガラス越しに中の明るい光が見えた。人が乗っていて、でも一人だけなことに安心して、脇に避けてその人間が降りるのを待っていると、箱から出てきた横顔のきれいな短髪の男は自分が待っていたその人だった。
「あ…三井さん」
「あ? あぁ? …仙道?!」
「ごめん、すぐに帰るから!」
今は一人だけど、これから支度をして出ていくのかもしれないし、後からお相手が来るのかもしれない。自分の出番はまだまだ先。
すれ違いにエレベーターに乗り込もうとすると、「待て待て待て」と手を引っ張られた。
「わ、すっげ冷たいじゃん! おまえいつからいんの?!」
「え? あー今日寒いから。そんなには経ってないと思うけど」
語るに落ちてる。
あんたを待ってました、と言っているようなもんだ。
「今日24日だよな? 26日じゃないよな?」
言ってから、三井さんも「あ」と言って自分の口を押えた。
そっか、例年自分が来るのはクリスマスが終わってすぐだった。
覚えていてくれたんだ。
そりゃ覚えてるか。
なにしろ毎年のように同じことを繰り返してもう10年近く経つんだから。
それでも口角は上がってしまう。
「ニヤけてんじゃねぇ」
案の定ムッと睨まれて、情けなく眉を下げた。
「日にち間違えちゃった。今帰りますから」
「間違えたの?」
「え?」
「とにかく来いって」
「でもお相手が…」
「なんだよ、お相手って」
「三井さんの」
「俺の?」
三井さんはギュッと眉を寄せて俺を見上げてきた。
不審気な表情から、どこか腑に落ちたような顔になって、「いねーし」と口を尖らせたそれを背けた。
「今年はいないの?」
三井さんが大きく口を開いて怒鳴られる、と思った時に運よくエレベーターがチンと音を立てて、いつの間にか移動していた箱がまたこの階に止まった。
家族連れのようなグループが降りてきて、慌てた三井さんと脇に避ける。見上げてきた子供にニッコリ笑っていると、眉間に縦皺を寄せた三井さんに腕を引っ張られた。
「…とにかく来いって。さみーんだよ」
「…うん」
歩き始めた背中を追って、元来た方向に足を向けた。
先に部屋の前に着いた三井さんが、ドアノブにかけられていた紙袋を見下ろしている。
「これ、おまえ?」
「あ、はい…」
「…こーいうことすんなって」
「…すんません」
なんで怒られたんだかわからずに、謝罪の言葉を口にすると、またギロッと睨まれる。
そんな悪いことしたかなぁ、と考えつつ、ああ、この流れはいつものパターンだ、とも思う。
自分としては気をきかせたつもりなのに、どこか三井さんの気に障ったようで、訳がわからないままに謝ると、三井さんは却って怒り出す。そうすると自分も謝っておいて理不尽な思いに腹がたってくるのだ。
「その…折角買ったし持って帰るのも重いし一人じゃ飲みきれねーし」
パターン打破に、自分のとった行動の説明をしてみると、三井さんの眉間から縦皺が消えていた。
「あ、そう。…サンキュ」
ボソボソとだが、礼の言葉までついたのは初めてだった。
正解だったと嬉しくなって、ドアノブから取った紙袋を手に持った三井さんの後をついて、部屋の中に足を踏み入れる。
1か月ぶりの部屋の匂いは変わっていなくて、三和土に知らない靴がなかったことも確認して、さらに気分は浮上した。
「あの、これもよかったら」
手に持っていたケーキの箱の入った紙袋を突き出すと、「おう」と言って受け取ってくれる。
「じゃあ飲んで食うか」
「え、いいの?」
「いいのって。おまえ持ってきたんだろ?」
「うん」
それはそうなんだけど。お相手は?
今の楽しい気分を下げたくなくて、今度はいつもなら口から出す言葉を飲み込んだ。三井さんは「いねーし」と言った。なら自分はもうそれでいい。
「あっと、ケーキでシャンパンとかってヘンか?」
「いや、いいですよ。とりあえず乾杯しましょう」
「とりあえずって。乾杯って。居酒屋か」
そんなことを言いながら、三井さんもさっさとコートを脱いできて手を洗い、目を撓ませて楽し気にグラスと皿を出していて、テンションは更に上がってくる。
「あ、おまえ風呂入る? 身体冷えきってただろ」
風呂…着替えないし…と考えて返事が遅れたのをどうとったのか、三井さんが顔を赤くした。
「あ! そういう意味じゃねぇからな?! また週末ゲームだろ? 今風邪引かせるわけにいかねーし」
「うん、わかってるよ。大丈夫。部屋の中あったかいから」
「…そうかよ」
ダイニングに座ると、グラスが置かれてすぐに自分の持ってきたシャンパンが注がれる。その弾かれる泡を見ながら、「ホントにいないの?」と黙ってようと思っていたことが口から滑り出ていた。あ…、と三井さんを見たが、特に怒っている様子もなかった。
「いねえ」
「そっか」
「おまえは?」
「いないよ」
「へぇ」
「三井さん」
「なんだよ」
「…今までずっとこの日に一緒にいたことなかったよね」
その応えは戻って来ずに、三井さんは自分の前に置いたケーキにナイフを入れた。小さいケーキだったけれども真っ二つに切られて、皿にドンと置かれて目の前に突き出される。上に乗っていたサンタさんまで真っ二つだった。切り損ねて、下のスポンジに食い込んだ下半身のないサンタクロースと目が合って、なんとなくそれにゴメンネと目で謝って、添えられていたフォークを手に取った。
「高校の頃さ」
話し始めた三井さんの顔を見た。返事は期待されてないようだったので、黙ってケーキにフォークを突き入れた。
「おまえ、俺ん家の最寄り駅いたろ」
あ、そういえば。
いた。
いたのは高校2年生の俺だ。高校2年生のクリスマスの俺。
どうにかして三井さんを振り向かせたくて、でも受け入れてもらえるのか全く自信がなくて、せめて今付き合っている人間がいるのかだけでも確認したくて、その日に三井さんが誰と会うこともなければきっとフリーだ、と考えて、でもどうやって確認するかもわからなくて、ただ漫然と年末の賑わう駅前に足を向けた。会えるわけがない、と商店街をぶらぶらして、帰ろうと踵を返したところにこの人はいたのだ。
「なんだ、こんな日に一人かよ。寂しいヤツだな。俺が付き合ってやろっか」
そう言ってニカッと笑ったのだ。
「付き合ってください!」
ずるいとは思ったけれど、冗談でもらった言葉に乗っかって真面目な顔をして言うと、三井さんは大きな目を瞠って赤くなった。それを見て自分にも脈はあると思い込んだ。想いがとうとう伝わったのだ、といいように解釈した。そういえばその頃から自分はそんな感じだった。
自分の考えていることを、感じていることを、言葉にして伝えることはなく、相手の意思を尊重するようでいて、ただ居心地の良さに寄りかかっていただけなのかもしれない。
「あんたが好きだったから。会えないかなって思って会いに行きました。もし誰かとデート中だったら諦められると思って」
はっきりとその時の自分の考えを言葉にして表すと、カッコわるいなぁという気分が今更ながらに湧いてきて大いにヘコんだ。
でも目の前の三井さんの顔はといえば、自分がその時に見た表情と同じように、やっぱり大きな二重の目を瞠って赤くなっていた。
「…そうだったのかよ」
手にしたフォークでブスッと下半身だけのサンタクロースを刺す。うわ、猟奇的。でも赤い顔の三井さんは自分が何をしているのか今一つわかってないようで、刺したサンタをケーキのスポンジの中にぐいぐいと潜り込ませた。小さなケーキはもうスポンジとクリームの塊になって形をとどめていない上に、砂糖菓子のサンタの短い足がにょっきり生えている。
「はい」
なぁなぁを装って肉体関係を持って、部屋に押しかけて付き合ってる感を出して、話が通じないとケンカして、別れて、当てつけみたいに誰かと付き合って、後悔してまた頭を下げる。
そんな情けない状態は今年で終わりにしたい。今日せっかく一緒にいられる奇跡が起きたんだから。
「今日もあんたと一緒にいたくて来ました。今年だけじゃなくて、来年も再来年もこれからずっと」
三井さんは答えない。ぐちゃぐちゃになったケーキを突っつき回して、はじめて気が付いたようにびっくりしていて、むきになったようにフォークで掬えるだけ掬って口に入れた。
唇の端に収まりきれなかったクリームがついている。きっと甘いんだろうな、と思って手を伸ばすと、三井さんがようやく顔を上げて、自分の手を見て口を開いた。
「俺、今日おまえん家行ってきた」
「え?」
「でもいなくて。当たり前か。あーまた誰かと一緒なんだなーって思ったらもう」
ボロッとその大きな目から涙が出てきて、それは唇についたクリームより甘そうに見えた。
宙に浮いていた手を伸ばすより先に、ムッとした顔で三井さんが腕で顔を擦った。涙もクリームも一緒にシャツに吸われてしまって、だから立って、向かいに座っていた三井さんのそばに近づいた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、三井さん」
小さな頭に触れると驚いたように避けられる。少し傷ついて、手を引っ込める。
「もう絶対やんなよ」
「うん。しない。絶対」
フォークを握っていた手が、動いてそれを離した。引っ込めた手を握られて、目に当てられる。少し湿った肌と、睫毛が手のひらに触れて、心に残っていた最後の棘まで溶かしてくれた。
屈んで頭ごと体を抱きしめる。外の冷たい空気の匂いがして、それから三井さんの懐かしい香りがした。
「あ」
その三井さんが何かを思い出したように頭を上げる。
「ちょっとタンマ」
穿いていたジーンズのポケットからスマホを出して、立ち上がった。
「はい…」
今?とは思ったけれど、三井さんに回していた手を離し、廊下に出てドアを丁寧に閉め、話し始めた三井さんの背中を見送った。はじめは聞こえなかった声が段々と大きくなり耳にまで届く。
「だから悪かったって! 急用なんだからしょうがねぇだろ。あ? 急用は急用! 絶対来んなよ?!」
怒鳴っておいて、ようやく気がついたかのように三井さんの顔がこちらを向いたのがドアに嵌まったガラス越しに見えた。にっこり笑って聞こえていなかったフリをして手を振る。
ホッとした顔になった三井さんが、しかめっ面に表情を作り直してドアを開けて入ってきた。
「わり」
「いいえ」
言ってまたその体を抱き込んで逃げられないようにする。
「三井さんも」
「ん?」
「もう絶対やんないでね?」
耳元に声を吹き込むと、頬をつけた頭が小さく揺れて、「ったりめーだ」と小さく呟いた声が聞こえた。





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