蛇衣を脱ぐ
階下から「おーい!」と誰かが叫んだ大きな声が耳に飛び込んできて、合わせていた唇が震えた。体中からの熱が集まってぼんやりしていた頭にいきなり冷水でも浴びせられたようだった。
「まずい」と言って 慌てて胸を手のひらで押して突き放すと、びっくりしたように固まっていた仙道の顔が、苦いものを飲んだように少し歪んだ。
「あ、ちがう。…それ…ナポリタン味」
触れた手のひらに受けた感覚はそのまま男のみっしりと中身の詰まった固い筋肉で、知っていた頼りない柔らかさはかけらも伝わってこない。それなのに触れた掌が熱くて痺れるようで、離してしまった自分の迂闊に三井は苛ついた。
「…あ…ハハ、そうだナポリタン…ハハ…。すみません」
「…うん」
うん、じゃねぇ。
なんと言葉を返していいのかわからなくなって、この状況を続けたいのに三井は視線を下げた顔を上げられなくなった。
勝手が違う。
相手が今までのように女の子だったら、「好きだ」と言って、そのまま付き合えばいいのだろう。
好き。
好きなのか?と改めて思う。三井は自分を叱咤して顔を上げた。
自分より少し上にある顔が自分を見返してくる。少し下がった眉と目尻が男前を情けなく見せていて、それなのに鼓動は跳ねあがった。
自分よりもがっしりとした目の前の大きな体が今は慕わしくてたまらない。少しだけ冷静になった頭で考えてみても、キスされたことがうれしいし、返して受け入れられたことが幸せだ。動悸が収まらないのに湧き上がってくる喜びと同時に、灼けつくような飢えを感じるのは初めてのことかもしれない。
どうしよう。
男同士でどうすればいいんだろう。仙道はどういうつもりなんだろう。この間のように、またどこか不安定な気持ちを自分にぶつけてきただけなんだろうか。
階下では大きな声を上げて自分達を驚かせた客がちょうど連れと出会えたようで、魚住の店に賑やかに入っていった気配がした。仙道から自分を離れさせたことを恨めしく思いながら、どこか遠くに聞こえる物音が耳に残る。
「…仙道」
「…はい」
言葉を続けられない。そんな自分がもどかしくて、挙げた手を持て余して、仙道の胸元のTシャツを掴んだ。
本当はまた厚い胸に触れたい。広い背中に手を回したい。頬にも触れて、首筋に手を滑らせてまたキスをしたい。
そんな事を必死に考えながら、ただ仙道を見つめるだけだった自分の体が前にふらついた。背中に回った長い腕に引き寄せられたのだということに、固い肩にこめかみが当たってからやっと三井は気が付いた。
「そんな顔して見ないで」
「…どんな顔だよ」
泣きたいほどの幸せを感じて、三井は仙道の背中に腕を回した。
大きくて厚くて固くて、熱い。
「帰したくなくなる」
カッと顔が熱くなる。動こうとして、背中に回った腕にこめられた力が強くて、少し怖いと思った。自分のペースで動けないことははじめてだった。
「三井さん、俺、」
湿った温度を持つ声が耳を打って体が震える。合わせた腰が熱くて口の中が乾いた。どっと階下から笑い声が聞こえて、腕が緩み三井は体を離した。
「俺…帰る」
「え…」
「悪い」
後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。そこから部屋のドアを抜けて、狭く暗い階段を飛ぶように下りて外に駆け出る。
駅までの夜道は現実感を伴わなず、どこか夢の中を飛ぶように走っている気がしていた。
改札を通り、どこか白々とした灯りに照らされたホームを見て、足を止めた三井はようやく今、自分が一人であることに気が付いた。
まだ背中は長い腕がしっかりと巻きついていつかのように熱い。
それなのに手にはしっかりとビデオが入った袋を持っていた。覚えのない冷静にも思える自分の行動に三井は泣きそうになった。
何も言わずに出てきてしまった自分を仙道はどう思っただろうか。あの時、仙道は何と言おうとしていたのだろうか。
その前。
帰したくなくなるって。なんだよ。
その押し殺したような声を思い出すと体が芯から熱くなってきて三井は自分の腕で顔を覆い、駅のベンチに力なく腰掛けた。
まだ大きな手で押さえ込まれた背中が熱いのに。触れた唇が痺れたようなのに。
なんで部屋を飛び出してきたのか自分がわからない。なんで仙道がここにいないのかわからなかった。
待合室に待機していた一年生達が、戻ってきた上級生を見て長椅子から立ち上がった。すぐ目の前を歩いていた宮城がそれに顔を横に振る。どんな顔をしているのか簡単に想像できて、三井の眉間にさらに縦皺が増えた。
「ダメだ、今日は。出直し」
不思議そうな顔を並べる一年生に宮城が言葉を足す。
「今日は検査だって。終わんの1時間かかるってから出直し」
「あー…」
顔を見合わせる一年生達から目を逸らし、三井は舌打ちした。
「頭の上で舌打ちすんのやめてもらえます? あんたが今日来ようって言ったんじゃないっすか」
「…わるかったな」
「別に三井さんが悪いってってるわけじゃないっすよ。しかたないでしょ」
「ふん」
「もーどーしてこの人こういうとこ子供かねー」
嫌味を一つ置いて、宮城は病院の出口にさっさと足を向けた。
その後を慌てたように一年生達が追いかける。自分も不貞腐れたように足をそちらに向けたところで、ようやく出口近くに一人で座っていた流川が立ち上がった。
このぶすったくれた顔をした一年をここまで引っ張ってくるのも苦労したな、と思い出し、一言「わるい」と告げると、無表情を変えないままに「べつに」と返された。
バスケ部が体育館が使用できない日を狙って、桜木のいる病院に山王戦のビデオを持ってきた。「残って練習している」と言い張る流川を、「おまえも病院に来ればビデオが見られる」、と説得してようやく引っ張ってきたのだ。ところが運悪く桜木は検査の日で、会えず仕舞いだった。
確認を取らずに今日にしよう、と言い張ったのは自分で、一日練習日を無駄にしたわけだが、体育館が使用できない日だったせいか、流川の顔に責めるような表情は浮かんでいなかった。
先に出た部員達の背中を目で探すと、帰路のバス停とは逆の、隣接した海に出る道路の方角にその背が見えた。海に向かって何か叫んでいるようにも見える。
「なんだ?」
面倒に感じて置いて帰ろうかとも思ったが、自分一人が最上級生であることを思い出して足を止めた。無駄足踏ませてしまったこともあって、一応は声をかけて帰るか、と足を向けると、流川もついてきた。横に並んだ一年を意外に思いつつ、浜へと足を向ける。
「おい、なーにやって、」
大声を張り上げた先に、自分の学校とは違う制服を着た一団を見つけて尻つぼみに声が小さくなった。それがどこの学校の何の連中かわかって、三井は声を張り上げたことを激しく後悔した。そのまま踵を返そうとすると、それよりも先にその知った顔が大声を上げた。
「あ!! 三井さんもいらっしゃったんですかー! みなさん一緒にどうですー?!」
関西のイントネーションが辺りに響き渡り、先を行っていた宮城達も三井を振り返った。宮城達の先にいたのは陵南のバスケ部の集団だった。
なぜこんなところに。
三井は頭を抱えたくなった。ぶんぶんと手を振る相田の後ろには、幾人か見知った顔がある。その端に今は一番会いたくない男がいた。どうしたって目立つ男だった。視線がこちらに向いているのはもうわかってしまって、三井は殊更自分の視線を、先を行っていた宮城達に顔を向けているのだということを意識しようとした。
「みなさん、なにしてんの」
宮城は三井の気も知らずに、ブラブラとその集団へと歩いて行く。
「スイカ割りですー!」
スイカ割り。
なぜ夏も終わったこの時期にバスケ部でスイカ割り。しかもこのタイミングで。
見れば砂浜には目隠しをされた福田が棒切れを持って突っ立っており、その足元には広げたレジャーシートの上に、ちょっと見ないような大きなスイカがすでにパッカリと割られていた。
「なにやってんの」
呆れたように笑いながら宮城がその輪に加わる。
「桜木んとこだよ」
意外なことに越野が宮城に応えた。同学年であまり役に立ちそうもない新キャプテンの代わりを務めることも多いだろうから、すでに試合以外でも顔見知りなのかもしれない。
「え。花道んとこ? マジ? 見舞い?」
「いなかったけどな」
「あー検査ね」
憮然とした顔の越野の言葉のあとを引き取って宮城が笑う。
それにしても、他校のバスケ部が揃って見舞いとは。
見たところ魚住はいないが、試合でもスターティングで出てくるような主要なメンツが顔を並べていた。改めて桜木という男の人間性に驚く。春に始めたばかりのスポーツでインターハイに出場して、山王という絶対王者を倒す立役者にもなった。だが人を惹きつけるのはバスケの才能だけでも身体能力だけでもないのだろう。
改めて自分が膝をケガした時の事を考えた。
見舞いに来たのは同じ中学の連中が一度だけ。いや、木暮も来た。それだけ。
苦い記憶が蘇って、三井は顔を顰めた。
「お見舞いにスイカ持っていったんですけど、看護師さんに置いとくの断られちゃって」
相田が賑やかな関西弁をまた響かせる。
病室に巨大スイカ。そりゃそうだろう。少し考えろ。
で、持って帰るのも面倒なのかスイカ割り。おかげで顔を合わせたくない人間に会ってしまった。こちらを見ている気配が感じられて、その方角へ顔を向けられない。
「うぇ、ぐちゃぐちゃ。食えんの」
「味に変わりはないですよ」
わらわらとスイカの周りに白いシャツの図体の大きな男子高校生が集まる。三井は目の端に仙道がその場を動かなかったのを捉えて、スイカの輪の方に逃げ込んだ。
「はい、センパイ」
頭を突っ込んだ先にいた無口な後輩に、砂のついていない比較的マシと思えるスイカの破片を突き出されて、三井は思わず受け取った。
「おう、サンキュ。なに、おまえスイカ好きなの」
「別に」
「ふーん…」
珍しく気の利いたことをするからスイカが好きなのかと思った。
やっぱり変わったヤツだ、と三井は砂のついた端をよけつつかぶりついた。
「彦、俺にもちょーだい」
すぐ脇からぬっと大きな体が分け入ってきた。三井は齧りついたスイカから顔を上げられず、場所を空けるフリをして流川の方に体を寄せた。
「あ、仙道さん! どうぞ一番甘そうなとこ」
「それはお客さんに渡してよ」
「もうみなさん取ってはるから」
「そお?」
伸ばした長い腕が目の前を通った。ふわっと嗅いだ覚えのある香りが鼻を擽る。整髪料だ。仙道が使ってる。動けない体が熱くなる。
齧りついたままに動きを止めていると、仙道の視線が横に流れて三井を見た。
「どうも」
「…うん」
心臓が跳ねて、スイカを取り落としそうになりつつ、慌ててスイカに夢中であることを装う。
「知り合い?」
ボソっとそれを見ていた流川が口を開いた。
「なっなに言ってんだ、おまえ! おまえも陵南と試合しただろうが。覚えてねぇのか」
「覚えてるけど」
「失礼なヤローだなおめぇは。一応上級生だろーが」
「1onはしたよな?」
話しに入ってきた仙道のセリフに三井は驚いた。
この二人に1on1なんてする機会があったか? 試合前? いやないない。見たことない。
「…へー? いつだよ」
驚きを抑えつつ努めて平静を装って流川を見ると、「本戦行く前」と仏頂面で答えた言葉が戻る。
「ふーん…」
どこで?とか、会いに行ったのか?とか。
聞きたくて聞けなかった。ちらっと仙道を見ると、何も考えていないような男前がヘニャっと笑いかけてくる。唇を突き出して顔を背ける。
どういうつもりなんだ、この男は。
それよりも流川と外で会ってたのか?
「俺、用事思い出したわ」
スイカを飲み込んでいた喉が急に狭くなったような気がした。苦労して残った果肉をなんとか嚥下して立ち上がると、相田が用意よく持っていた大きなビニール袋を両手で差し出してきた。
「あ、ゴミはこん中お願いします」
「おう、サンキュ」
その中へスイカの皮を投げ入れると、三井は病院のバス停を目指して集団から背を向けた。
背後から宮城が何か叫んでいる声が聞こえた。三井はそれに背を向けたまま了解したというように片手を振った。
振り向いて仙道とまた目が合うのが怖くて、それ以上に帰る自分を気にしていないかもしれない仙道を見るのが怖かった。