knock on wood
「1人で大丈夫ですか?やっぱりおれもついてきます?」
「大丈夫だって。子どもじゃねーんだから」
明日、他校生徒に呼び出された公園に行くという一つ上の先輩に言いたいことは他にもあったのに、仙道の口から出たのは1人ではじめて遊びに出る子どもにかけるような言葉になってしまった。かけられた三井もさすがに苦笑しながら仙道を睨み上げる。
「…だって」
「自分のせいとか言ったら怒るぞ」
機先を制されて仙道は口を噤む。インハイ予選は湘北に僅差で敗北し、陵南高校バスケ部の夏は終わった。それとともに考えないようにしてきた流川と三井の約束の履行問題が浮上してきた。チームとしては負けたが、自分個人が流川に負けたつもりはない。が、そういう問題ではないのだろう。
「まーおれの問題だし?ケンカしに行くわけじゃねーし」
「…どうするの?」
「んーどうすっかなぁー」
「あいつ女の子達にもてるだろうに」
「あーあれな?」
インハイ予選でも悪目立ちしていた流川親衛隊を思い出したのか三井が笑う。
「あいつも困ってるらしいぜ?無視してもどこにでもついてくるって」
そんなことも話していたのか、と意外に思う。女の子たちを侍らせてチャラチャラしているタイプには見えなかったが、自分のことを進んで話すようにも見えなかった。
「まーおれも受験あるし必死こかないとだしなー」
「え?」
三井の口から出たやたら違和感のある言葉がすぐに理解できなくて仙道は足を止めた。瞬間、流川のことは頭から飛んでいった。
「じゅーけーん。おれやっぱバスケ続けたい。でもインハイ本戦出れなかったしプロ…はまだ現実的じゃないし。今までのこともあるから外から入り直す。ローニンしてでも」
「…何言ってんの」
「これでもまーまー頭はよかったんだぜ?おれも推薦でここ入ったけど、膝ケガしてすぐに試験受けさせられて待遇は一般生徒とおんなじだったし。まーグレてる間サボりまくったけど私立だったら勉強しなきゃいけない科目も絞れるし、親も本気見せるんならカテキョーつけてくれるって言うし」
待って待って待って。
三井が考え抜いただろう進路を決定するに至った理由を説明する言葉ももう仙道の耳に入ってはいなかった。
「バスケ部は?どーすんの?!」
「え、そりゃ引退だろ? おれ3年だし。魚住と一緒。おまえとこうやって帰んのもあとちょっとだなー」
そう言って笑ってくる先輩の顔はどこか現実的ではないような気がした。何かにだまされて目隠しされていたような。急に知らない場所に放り出されたような。そうだ、魚住の進路とか決意は前もって聞かされていたのに。魚住クラスのセンターを欠くことになるのはキツいが、それにはきちんと納得して応援できていたのだ。
「聞いてない」
立ち止まったままの仙道の言葉に三井はちょっと困ったように後輩を見上げた。
「ごめんな。おまえにいろいろ助けてもらってバスケ部に受け入れてもらって。ホント楽しかった。楽しかったからこれで終わらせたくねーんだ」
ずるいと思った。この先輩はほんとズルイ。いつの間にか隣にいて知らない間にいなくなろうとしている。でも優しい、とてもやさしい困ったような。そんな顔で謝られてしまったらもう仙道には返す言葉を探すことがなかった。
「気がむいたら部に遊び行ってやるから」
そう言ってやさしく勝手な先輩はもう振り返りもしない。「じゃな~」と立ち尽くす仙道に背を向けたまま手を振った。
あれから本当に三井は部活に顔を出さなくなった。
一緒に帰るのはあとちょっととか言ったくせに。
仙道が力任せに竿を引きあげるとエサだけ捕られた針が江ノ島を背に揺れた。魚住のように部員に改めて挨拶することもない。わざわざ会いに行った越野によると「出戻りだしガラじゃねーから」と挨拶やら追い出し会やらを断ったらしい。バスケ部という共通項がなくなると一つ上の先輩とは思った以上に顔を合わせることがなくなった。それまで飽きるほどに一緒にいたことがまるで嘘のようだった。そういえば流川とのこともどうなったのか聞いてない。
どーせカンケイないし。
仙道は努めて勝手気ままな先輩も生意気な他校の一年坊も考えないようにしながら、エサを付け直した針をできる限り遠くの波間へ投げ入れた。
1人で帰ることにも慣れてきたいつもの帰り道に立ち塞がったのは頭から追い出していた他校の1年坊主だった。
ちょっと見ないほどに整った顔が、これも考えまいとしていた先輩を思い出させてくれる。
今はもー勘弁してくれというのが正直なところ。だが「勝負しろ」という流川の言葉に異論はなかった。
影が長く伸び、ボールを追う手が遠近感に迷う回数が多くなって息をつくと、これも幾分か投げやりに放られたボールがネットを通過して顔の傍に落ちて弾んだ。
言葉を交わすことなくただ黙々と続けられた1on1はやはり負けた気はしない。
両腿に手をついたまま顔を上げることなく「三井さん元気?」と鎌をかければ、「広島に来る」と暗にインハイ出場自慢を絡めた返答が戻る。
やれやれ負けず嫌いがここにもいる。
「広島に来る」か。受験生じゃねぇの、三井さん。
「ま、泣かさないでやってよ」
「あんたに言われる筋合いはねー」
ちら、と視線を送れば即座に睨みつけてくる顔に少し溜飲が下がる。どっかでもその顔見たな、と思い返せばインハイ出場をかけた対湘北との試合中に見たそれと同じだった。フルに近い出場を果たした三井が最後の最後でコートに崩れ落ちる直前にその体を掬いあげた。自分と腕に収まる三井への。
なんで三井のただの後輩の自分をそんな目で睨んでくるんだか。そんな目で睨まれて自分も胸がすくような思いをしちゃってるんだか。
ふ、と新しい空気を求めるように、喘ぐように顔を上げる。
三井との付き合い期間イコール彼女いない歴になっちゃってるなーと考え、ちょうど昨日自分に告白してきた女の子の顔が浮かぶ。
外見は合格。よし、あの子と付き合おう。今度は性格もいいといいなぁ。バスケも好きだといい。付き合って1ヶ月記念日とか言い出さなければもっといい。そんなことを考えながら不意に話題を変えた流川からの質問に答えたので、中学のときに一度対戦しただけのうろ覚えの選手の名前を言い間違えたかもしれない。
広島か。もみじ饅頭とか買ってきそう、あの人。仙道は頭の中に居座ってなかなか新しい彼女にその場所を譲ってくれない先輩に小さく笑った。
茶色い紅葉をかたどった小さな菓子が箱の中に並んでいる。それを見た仙道は笑う前に頭をかいた。
「なに、三井さん来てるの?」
ベンチの上に置かれた菓子を一つ口に放り込み、体育館を覗くと練習時間が始まっているにも関わらず、ボールの音は聞こえずに入口すぐ傍に人だかりがあった。普段はうるさい田岡監督すら腕を組みながら、身振り手振りで何かを説明している三井の話に聞き入っている。
「おう、仙道!また遅刻か?」
にかっと笑って部員の中心から手を振ってくる先輩に苦笑が漏れる。
「お久しぶりです、三井さん。広島行ってきたの?」
とぼけて尋ねれば少し泳いだ目が仙道から逸らされる。
「おう、練習で忙しいおまえらの代わりに見届けてきてやったぜ」
「残念でしたね、湘北」
逃がさず言葉で追い詰めると三井は逃げるのをやめて睨み上げてきた。それへ、ヘラリと笑ってやる。が、三井は言い返しもせず真面目な顔を作って仙道に言った。
「あとで話しがあるんだ、おまえに。おれも一汗流してくから練習後付き合え」
「え?いいですけど」
久しぶりの先輩との練習。からのお誘い。
珍しく改まった三井の『話し』の内容は気になったが、そうと決まれば彼女との約束はキャンセルだ。現金なものでインハイが終わり、選抜までの中弛みした残暑の中の練習にも気合いが入る。
一緒に汗を流して一緒に帰る。そんなちょっと前までは当たり前だった時間が常になく仙道の心を浮つかせた。
「あー久々だとやっぱりつれー!」
蜩が鳴く晩夏。そんなことを喚きながらもどこか気持ちよさそうな三井と並んで歩く。
練習中の浮ついた気持ちはなかなかその話しとやらを切り出さない先輩の前に今度は水面下に沈んでいく。
流川とのラブラブ話だったらいらないんですけど。と考え、三井はそんな話しないかと打ち消し、じゃあ何の話だろ、と横を行く小さい頭を眺める。浮いたり沈んだり。この人に会うとフラットだった日常があっという間に上下左右に揺さぶられかき乱されていく。
「話って?」
「あ、あー」
この人といるのは楽しいけど時々キツい。たまりかねて話しを振ると、三井は困ったように周囲を見渡した。
「なに込み入った話し?だったらおれん家に来ます?ファミレスより近いし」
ここぞというところで女の子は連れ込むが、溜まり場になっては困るので自分からは滅多に部の連中も誘わない。三井はこれまでにも誘ったが、図々しいようでいておかしなところに気を回す三井はまだ仙道の家に来たことがなかった。案の定仙道の提案に三井はおかしいくらい慌てて考えこむ様子だ。
「あーじゃあ邪魔しようかな」
何度かアーだのウーだの繰り返した挙げ句、三井はようやく頷いた。それへ仙道はニッコリと笑う。水面下の気分がまた性懲りもなく上昇する。それへ追い打ちをかけるように三井が思いもかけない言葉を投げつけてきた。
「流川とは付き合ってねぇよ」
「え?ホント?」
だって流川は。
仙道は言いかけてやめた。あの負けず嫌い。牽制か。
「おまえさっきもイヤミ言うし」
「だって三井さん部に顔も出さずに広島行くし」
「あれは魚住に誘われたんだよ!」
「え、そうなの?」
「そーだよ!湘北を見届けてやろうってよ」
そうなんだ。なーんだ、そうだったんだ。浮上した気分がさらにフワフワと上昇していく。
「流川はあのボーっとした見た目よりちゃんと考えてるよ。やっぱりおれに納得して頷いてほしいって」
「…そっか。あ、ここです。2階」
三井の思いかけなかった話しに気を取られ、自分の住んでいるアパートをやり過ごしそうになって三井を止める。
「ああ…それで…」
外階段を上りながら話しを続けようとした三井の言葉がふいに止まった。階段を上がりきったところにいた女の子と自分も目があった。買い物袋片手の細い腕が嬉しそうに振られる。
「あ、彰!」
「わるい、仙道。おれ帰るわ。たいした話しじゃねぇから」
「三井さん!」
引き留める間もなく。三井はするりと仙道の体を躱して階段を駆け下り、その姿はすぐに夕闇の中に消えてなくなった。
「急に練習長引いて会えないっていうから、じゃあご飯でも作ってあげようかなって。さっきのバスケ部の人?帰らなくても一緒に」
「悪いけど」
仙道のまとう空気に何かを察して早口にまくしたてる女の子をニッコリ笑って止めた。
「もうここへは来ないでくれるかな」
あとは顔も見ずに部屋に入って音をたてて鍵を閉める。
わかってる。失敗。目は笑えてなかった。あの子はもうここへは来ないだろう。プライド高そうだったし連絡もくるかどうか。自分からもする気はないからそれは構わないけど。
「最短記録出した」
仙道はドアに寄りかかり、そのまま力が抜けて土間に座り込んだ。
朗報には違いなかった。
今年の神奈川国体出場は選抜方式でしかも監督は田岡。選手は陵南からも4名が選出された。魚住、仙道、福田、そして三井
。真っ先に越野は「おれは魚住さん説得担当!」と手を挙げた。となれば部員全員の視線は残された大会参加に説得を要する三井への担当として仙道のところに集まる。
「ま、キャプテンだしな」
「そーそーキャプテンだし」
「ガンバレ、キャプテン」
福田も腕を組んで深く頷き異論は受け付けない姿勢だ。
「頼むぞ、仙道」
田岡に至ってはもう説得に成功したかのような笑顔だった。
「まいったな」
仙道は困ったように笑いながら頭をかいた。
まいった。まいってる。
だがそれは部員達には説明出来かねる諸事情で。三井とは仙道の暮らすアパート前で別れたきりだった。
考えてみれば大したことはない。
先輩が部屋に遊びに来ようとして自分の彼女と鉢合わせしてしまって、先輩は気をきかせて帰った。ただそれだけのこと。それだけのことなのになぜ複雑な事情のように三井に会いに行くのに自分の腰が重いのか。他校の一年坊主が気に食わないのか。彼女と最短付き合い期間で別れることになったのかな。
自分のせいではない。断じて自分のせいでは。でもだからといって三井のせいなのか?そうでもない。そうじゃないのになぜか気は晴れないし腰は重い。
「わかりました。話してみますね」
理由があれば三井に会うにも幾分か気は楽になる。いずれにせよ三井が承諾して出場が決まれば、国体の合宿やら練習やら試合やらで顔を合わせることになるしいつまでもうじうじもしていられない。
昼休みに三井を探しに3年の教室へ行けば、多分屋上へ行ったとのこと。教えられた屋上へ行くと探し人は英語の参考書を顔の上に広げて昼寝の真っ最中だった。
随分のんびりした受験生だなーと隣に座りこむと仙道もいつの間にか過ごしやすくなった秋を感じさせる風に眠気を誘われる。本能に負けて体を倒し、うとうとしかかったところで不機嫌そうな三井に参考書で頭を叩かれた。
「てめ何してやがる」
そこへ午後の授業の予鈴が鳴った。うとうとしていたというのは勘違いでがっつり寝入っていたらしい。
慌てるでもなくゆっくりと体を起こして足を胡坐に組み、立ち上がっていた三井を見上げた。
ちょっと戸惑ったように自分を見下ろす三井は少し前髪が伸びてきたようで、寝起きのせいもあるのかどことなく幼く心許なく見えた。
それへ不意に手を伸ばしたくなって、でも床に座っている今の自分には三井に手が届かない。起き上がらないと、行動に移さないといつまでたったって手は届かない。
まだ寝ぼけてるのかな、と頭を振り、国体の説明と参加要請してヘラリと笑うと、三井は眉間に皺を寄せて難しい顔を仙道に向けた。
「おれが引退する理由は話したよな」
「はい」
そこでまた三井は黙って仙道を睨む。
「でもおれはまた三井さんとバスケがしたいな」
そうだ、三井といたい、とてもシンプルな理由。目の前の先輩とバスケがしたい。
「だめですか?」
上目遣いで問えば、先輩は口を尖らせてそっぽを向く。
「おまえずりー」
そっぽを向いたまま拗ねたような声で仙道をせめる。
「お願い、三井さん」
あざといと定評のあるお願い攻撃をかければそっぽを向いた耳が赤くなる。もう一押し、と思ったところで三井が「くそっ!」と悪態をついた。
「すぐにはおれだって返事できねーよ。親にだって約束しちまったし。明日、明日返事するんでいいか?」
「もちろん!待ってますね!」
親に相談するということはもう三井は乗り気だということだ。仙道はフットワークも軽く立ち上がった。立ち上がったところで気づく。そうだ、あいつも選抜候補に挙がってた。三井が見つめる選抜資料の選手候補一覧に仙道も目をやる。
動きの止まった仙道に三井が「どした?」と声をかけた。
「いえ、なんでもないです。あ、そういえば」
またどこからか湧き上がる黒いモヤモヤを無視してずっと心にひっかかっていたことを尋ねる。
「なんだ?」
「話したいことってなんだったんですか?」
それに今度は三井が見ていた資料から顔を上げ動きを止めた。束の間仙道を見つめ、また資料へと目を落とす。
「…いや、もういいんだ。ホントたいしたことじゃないから」
「そう…ですか」
仙道は三井の背後に広がる空の青さに目を細めた。
ついこの間までの濃い色とは違う。薄い雲が海まで散らばり空が高く遠く見える。
もうすぐ秋が来て、すぐに寒くなって冬が来て。そしてまた暖かくなったら。
もう目の前の人はここから、自分の前からいなくなるのだ。
「大丈夫だって。子どもじゃねーんだから」
明日、他校生徒に呼び出された公園に行くという一つ上の先輩に言いたいことは他にもあったのに、仙道の口から出たのは1人ではじめて遊びに出る子どもにかけるような言葉になってしまった。かけられた三井もさすがに苦笑しながら仙道を睨み上げる。
「…だって」
「自分のせいとか言ったら怒るぞ」
機先を制されて仙道は口を噤む。インハイ予選は湘北に僅差で敗北し、陵南高校バスケ部の夏は終わった。それとともに考えないようにしてきた流川と三井の約束の履行問題が浮上してきた。チームとしては負けたが、自分個人が流川に負けたつもりはない。が、そういう問題ではないのだろう。
「まーおれの問題だし?ケンカしに行くわけじゃねーし」
「…どうするの?」
「んーどうすっかなぁー」
「あいつ女の子達にもてるだろうに」
「あーあれな?」
インハイ予選でも悪目立ちしていた流川親衛隊を思い出したのか三井が笑う。
「あいつも困ってるらしいぜ?無視してもどこにでもついてくるって」
そんなことも話していたのか、と意外に思う。女の子たちを侍らせてチャラチャラしているタイプには見えなかったが、自分のことを進んで話すようにも見えなかった。
「まーおれも受験あるし必死こかないとだしなー」
「え?」
三井の口から出たやたら違和感のある言葉がすぐに理解できなくて仙道は足を止めた。瞬間、流川のことは頭から飛んでいった。
「じゅーけーん。おれやっぱバスケ続けたい。でもインハイ本戦出れなかったしプロ…はまだ現実的じゃないし。今までのこともあるから外から入り直す。ローニンしてでも」
「…何言ってんの」
「これでもまーまー頭はよかったんだぜ?おれも推薦でここ入ったけど、膝ケガしてすぐに試験受けさせられて待遇は一般生徒とおんなじだったし。まーグレてる間サボりまくったけど私立だったら勉強しなきゃいけない科目も絞れるし、親も本気見せるんならカテキョーつけてくれるって言うし」
待って待って待って。
三井が考え抜いただろう進路を決定するに至った理由を説明する言葉ももう仙道の耳に入ってはいなかった。
「バスケ部は?どーすんの?!」
「え、そりゃ引退だろ? おれ3年だし。魚住と一緒。おまえとこうやって帰んのもあとちょっとだなー」
そう言って笑ってくる先輩の顔はどこか現実的ではないような気がした。何かにだまされて目隠しされていたような。急に知らない場所に放り出されたような。そうだ、魚住の進路とか決意は前もって聞かされていたのに。魚住クラスのセンターを欠くことになるのはキツいが、それにはきちんと納得して応援できていたのだ。
「聞いてない」
立ち止まったままの仙道の言葉に三井はちょっと困ったように後輩を見上げた。
「ごめんな。おまえにいろいろ助けてもらってバスケ部に受け入れてもらって。ホント楽しかった。楽しかったからこれで終わらせたくねーんだ」
ずるいと思った。この先輩はほんとズルイ。いつの間にか隣にいて知らない間にいなくなろうとしている。でも優しい、とてもやさしい困ったような。そんな顔で謝られてしまったらもう仙道には返す言葉を探すことがなかった。
「気がむいたら部に遊び行ってやるから」
そう言ってやさしく勝手な先輩はもう振り返りもしない。「じゃな~」と立ち尽くす仙道に背を向けたまま手を振った。
あれから本当に三井は部活に顔を出さなくなった。
一緒に帰るのはあとちょっととか言ったくせに。
仙道が力任せに竿を引きあげるとエサだけ捕られた針が江ノ島を背に揺れた。魚住のように部員に改めて挨拶することもない。わざわざ会いに行った越野によると「出戻りだしガラじゃねーから」と挨拶やら追い出し会やらを断ったらしい。バスケ部という共通項がなくなると一つ上の先輩とは思った以上に顔を合わせることがなくなった。それまで飽きるほどに一緒にいたことがまるで嘘のようだった。そういえば流川とのこともどうなったのか聞いてない。
どーせカンケイないし。
仙道は努めて勝手気ままな先輩も生意気な他校の一年坊も考えないようにしながら、エサを付け直した針をできる限り遠くの波間へ投げ入れた。
1人で帰ることにも慣れてきたいつもの帰り道に立ち塞がったのは頭から追い出していた他校の1年坊主だった。
ちょっと見ないほどに整った顔が、これも考えまいとしていた先輩を思い出させてくれる。
今はもー勘弁してくれというのが正直なところ。だが「勝負しろ」という流川の言葉に異論はなかった。
影が長く伸び、ボールを追う手が遠近感に迷う回数が多くなって息をつくと、これも幾分か投げやりに放られたボールがネットを通過して顔の傍に落ちて弾んだ。
言葉を交わすことなくただ黙々と続けられた1on1はやはり負けた気はしない。
両腿に手をついたまま顔を上げることなく「三井さん元気?」と鎌をかければ、「広島に来る」と暗にインハイ出場自慢を絡めた返答が戻る。
やれやれ負けず嫌いがここにもいる。
「広島に来る」か。受験生じゃねぇの、三井さん。
「ま、泣かさないでやってよ」
「あんたに言われる筋合いはねー」
ちら、と視線を送れば即座に睨みつけてくる顔に少し溜飲が下がる。どっかでもその顔見たな、と思い返せばインハイ出場をかけた対湘北との試合中に見たそれと同じだった。フルに近い出場を果たした三井が最後の最後でコートに崩れ落ちる直前にその体を掬いあげた。自分と腕に収まる三井への。
なんで三井のただの後輩の自分をそんな目で睨んでくるんだか。そんな目で睨まれて自分も胸がすくような思いをしちゃってるんだか。
ふ、と新しい空気を求めるように、喘ぐように顔を上げる。
三井との付き合い期間イコール彼女いない歴になっちゃってるなーと考え、ちょうど昨日自分に告白してきた女の子の顔が浮かぶ。
外見は合格。よし、あの子と付き合おう。今度は性格もいいといいなぁ。バスケも好きだといい。付き合って1ヶ月記念日とか言い出さなければもっといい。そんなことを考えながら不意に話題を変えた流川からの質問に答えたので、中学のときに一度対戦しただけのうろ覚えの選手の名前を言い間違えたかもしれない。
広島か。もみじ饅頭とか買ってきそう、あの人。仙道は頭の中に居座ってなかなか新しい彼女にその場所を譲ってくれない先輩に小さく笑った。
茶色い紅葉をかたどった小さな菓子が箱の中に並んでいる。それを見た仙道は笑う前に頭をかいた。
「なに、三井さん来てるの?」
ベンチの上に置かれた菓子を一つ口に放り込み、体育館を覗くと練習時間が始まっているにも関わらず、ボールの音は聞こえずに入口すぐ傍に人だかりがあった。普段はうるさい田岡監督すら腕を組みながら、身振り手振りで何かを説明している三井の話に聞き入っている。
「おう、仙道!また遅刻か?」
にかっと笑って部員の中心から手を振ってくる先輩に苦笑が漏れる。
「お久しぶりです、三井さん。広島行ってきたの?」
とぼけて尋ねれば少し泳いだ目が仙道から逸らされる。
「おう、練習で忙しいおまえらの代わりに見届けてきてやったぜ」
「残念でしたね、湘北」
逃がさず言葉で追い詰めると三井は逃げるのをやめて睨み上げてきた。それへ、ヘラリと笑ってやる。が、三井は言い返しもせず真面目な顔を作って仙道に言った。
「あとで話しがあるんだ、おまえに。おれも一汗流してくから練習後付き合え」
「え?いいですけど」
久しぶりの先輩との練習。からのお誘い。
珍しく改まった三井の『話し』の内容は気になったが、そうと決まれば彼女との約束はキャンセルだ。現金なものでインハイが終わり、選抜までの中弛みした残暑の中の練習にも気合いが入る。
一緒に汗を流して一緒に帰る。そんなちょっと前までは当たり前だった時間が常になく仙道の心を浮つかせた。
「あー久々だとやっぱりつれー!」
蜩が鳴く晩夏。そんなことを喚きながらもどこか気持ちよさそうな三井と並んで歩く。
練習中の浮ついた気持ちはなかなかその話しとやらを切り出さない先輩の前に今度は水面下に沈んでいく。
流川とのラブラブ話だったらいらないんですけど。と考え、三井はそんな話しないかと打ち消し、じゃあ何の話だろ、と横を行く小さい頭を眺める。浮いたり沈んだり。この人に会うとフラットだった日常があっという間に上下左右に揺さぶられかき乱されていく。
「話って?」
「あ、あー」
この人といるのは楽しいけど時々キツい。たまりかねて話しを振ると、三井は困ったように周囲を見渡した。
「なに込み入った話し?だったらおれん家に来ます?ファミレスより近いし」
ここぞというところで女の子は連れ込むが、溜まり場になっては困るので自分からは滅多に部の連中も誘わない。三井はこれまでにも誘ったが、図々しいようでいておかしなところに気を回す三井はまだ仙道の家に来たことがなかった。案の定仙道の提案に三井はおかしいくらい慌てて考えこむ様子だ。
「あーじゃあ邪魔しようかな」
何度かアーだのウーだの繰り返した挙げ句、三井はようやく頷いた。それへ仙道はニッコリと笑う。水面下の気分がまた性懲りもなく上昇する。それへ追い打ちをかけるように三井が思いもかけない言葉を投げつけてきた。
「流川とは付き合ってねぇよ」
「え?ホント?」
だって流川は。
仙道は言いかけてやめた。あの負けず嫌い。牽制か。
「おまえさっきもイヤミ言うし」
「だって三井さん部に顔も出さずに広島行くし」
「あれは魚住に誘われたんだよ!」
「え、そうなの?」
「そーだよ!湘北を見届けてやろうってよ」
そうなんだ。なーんだ、そうだったんだ。浮上した気分がさらにフワフワと上昇していく。
「流川はあのボーっとした見た目よりちゃんと考えてるよ。やっぱりおれに納得して頷いてほしいって」
「…そっか。あ、ここです。2階」
三井の思いかけなかった話しに気を取られ、自分の住んでいるアパートをやり過ごしそうになって三井を止める。
「ああ…それで…」
外階段を上りながら話しを続けようとした三井の言葉がふいに止まった。階段を上がりきったところにいた女の子と自分も目があった。買い物袋片手の細い腕が嬉しそうに振られる。
「あ、彰!」
「わるい、仙道。おれ帰るわ。たいした話しじゃねぇから」
「三井さん!」
引き留める間もなく。三井はするりと仙道の体を躱して階段を駆け下り、その姿はすぐに夕闇の中に消えてなくなった。
「急に練習長引いて会えないっていうから、じゃあご飯でも作ってあげようかなって。さっきのバスケ部の人?帰らなくても一緒に」
「悪いけど」
仙道のまとう空気に何かを察して早口にまくしたてる女の子をニッコリ笑って止めた。
「もうここへは来ないでくれるかな」
あとは顔も見ずに部屋に入って音をたてて鍵を閉める。
わかってる。失敗。目は笑えてなかった。あの子はもうここへは来ないだろう。プライド高そうだったし連絡もくるかどうか。自分からもする気はないからそれは構わないけど。
「最短記録出した」
仙道はドアに寄りかかり、そのまま力が抜けて土間に座り込んだ。
朗報には違いなかった。
今年の神奈川国体出場は選抜方式でしかも監督は田岡。選手は陵南からも4名が選出された。魚住、仙道、福田、そして三井
。真っ先に越野は「おれは魚住さん説得担当!」と手を挙げた。となれば部員全員の視線は残された大会参加に説得を要する三井への担当として仙道のところに集まる。
「ま、キャプテンだしな」
「そーそーキャプテンだし」
「ガンバレ、キャプテン」
福田も腕を組んで深く頷き異論は受け付けない姿勢だ。
「頼むぞ、仙道」
田岡に至ってはもう説得に成功したかのような笑顔だった。
「まいったな」
仙道は困ったように笑いながら頭をかいた。
まいった。まいってる。
だがそれは部員達には説明出来かねる諸事情で。三井とは仙道の暮らすアパート前で別れたきりだった。
考えてみれば大したことはない。
先輩が部屋に遊びに来ようとして自分の彼女と鉢合わせしてしまって、先輩は気をきかせて帰った。ただそれだけのこと。それだけのことなのになぜ複雑な事情のように三井に会いに行くのに自分の腰が重いのか。他校の一年坊主が気に食わないのか。彼女と最短付き合い期間で別れることになったのかな。
自分のせいではない。断じて自分のせいでは。でもだからといって三井のせいなのか?そうでもない。そうじゃないのになぜか気は晴れないし腰は重い。
「わかりました。話してみますね」
理由があれば三井に会うにも幾分か気は楽になる。いずれにせよ三井が承諾して出場が決まれば、国体の合宿やら練習やら試合やらで顔を合わせることになるしいつまでもうじうじもしていられない。
昼休みに三井を探しに3年の教室へ行けば、多分屋上へ行ったとのこと。教えられた屋上へ行くと探し人は英語の参考書を顔の上に広げて昼寝の真っ最中だった。
随分のんびりした受験生だなーと隣に座りこむと仙道もいつの間にか過ごしやすくなった秋を感じさせる風に眠気を誘われる。本能に負けて体を倒し、うとうとしかかったところで不機嫌そうな三井に参考書で頭を叩かれた。
「てめ何してやがる」
そこへ午後の授業の予鈴が鳴った。うとうとしていたというのは勘違いでがっつり寝入っていたらしい。
慌てるでもなくゆっくりと体を起こして足を胡坐に組み、立ち上がっていた三井を見上げた。
ちょっと戸惑ったように自分を見下ろす三井は少し前髪が伸びてきたようで、寝起きのせいもあるのかどことなく幼く心許なく見えた。
それへ不意に手を伸ばしたくなって、でも床に座っている今の自分には三井に手が届かない。起き上がらないと、行動に移さないといつまでたったって手は届かない。
まだ寝ぼけてるのかな、と頭を振り、国体の説明と参加要請してヘラリと笑うと、三井は眉間に皺を寄せて難しい顔を仙道に向けた。
「おれが引退する理由は話したよな」
「はい」
そこでまた三井は黙って仙道を睨む。
「でもおれはまた三井さんとバスケがしたいな」
そうだ、三井といたい、とてもシンプルな理由。目の前の先輩とバスケがしたい。
「だめですか?」
上目遣いで問えば、先輩は口を尖らせてそっぽを向く。
「おまえずりー」
そっぽを向いたまま拗ねたような声で仙道をせめる。
「お願い、三井さん」
あざといと定評のあるお願い攻撃をかければそっぽを向いた耳が赤くなる。もう一押し、と思ったところで三井が「くそっ!」と悪態をついた。
「すぐにはおれだって返事できねーよ。親にだって約束しちまったし。明日、明日返事するんでいいか?」
「もちろん!待ってますね!」
親に相談するということはもう三井は乗り気だということだ。仙道はフットワークも軽く立ち上がった。立ち上がったところで気づく。そうだ、あいつも選抜候補に挙がってた。三井が見つめる選抜資料の選手候補一覧に仙道も目をやる。
動きの止まった仙道に三井が「どした?」と声をかけた。
「いえ、なんでもないです。あ、そういえば」
またどこからか湧き上がる黒いモヤモヤを無視してずっと心にひっかかっていたことを尋ねる。
「なんだ?」
「話したいことってなんだったんですか?」
それに今度は三井が見ていた資料から顔を上げ動きを止めた。束の間仙道を見つめ、また資料へと目を落とす。
「…いや、もういいんだ。ホントたいしたことじゃないから」
「そう…ですか」
仙道は三井の背後に広がる空の青さに目を細めた。
ついこの間までの濃い色とは違う。薄い雲が海まで散らばり空が高く遠く見える。
もうすぐ秋が来て、すぐに寒くなって冬が来て。そしてまた暖かくなったら。
もう目の前の人はここから、自分の前からいなくなるのだ。