蛇衣を脱ぐ
「おまえ、ビデオ取ってこい」
「え?」
魚住に命令されて、かっこんでいた2杯目の丼をカウンターに降ろした仙道が、驚いたように聞き返した。その自分に向けられた左頬に米粒がついているのを三井は見つけた。
「山王戦のビデオ。いい加減渡せ。また忘れてただろう」
「あー…そうでした」
「おい、仙道、ここ」
言って自分の頬を指さした三井を見て、仙道は首を傾げた。
「え?」
「米粒ついてる」
「え?」
右頬を擦った仙道を見て、あれをやったら米粒がつぶれるな、と思った三井は、大した考えもなしに指を伸ばして仙道の左頬から米粒を取った。しん、となったカウンターの中と隣の席に気づいて、三井は慌ててとった米粒を食べ終えていた丼になすりつけた。
「そうだよ、ビデオ取ってこいよ」
慌てて三井が大声で命じると、仙道の眉が落ちた。
「えーでもー…今? ですか?」
「そう。今」
「帰んないでくださいよ?」
「俺が受け取るビデオ取ってくんのにどうして帰んだよ」
「ハハ、そうでした」
笑って席を立った仙道の背中を見送って顔を前に戻すと、微妙な顔の魚住と目が合った。
「…なんだよ」
「いや…。あいつはああ見えて間口の狭いやつなんだよ」
「? ふーん?」
「気を許しているように見える」
「は?」
眉間に縦皺を作ると、「ありがとう」と渋面のままの魚住に頭を下げられて三井は面喰った。
「あいつは…いろいろ難しい立場にいるやつで、チームメイトに相談できないこともある。誰が悪いわけでもないんだがな。だが上手くガス抜きが出来たようだ。恩に着る」
「いや…俺は何も…」
してない。
むしろひっかき回したような自覚はある。
雨宿りさせてもらって、脅かされて、ビデオ借りに行って、押し倒された。間を空けて様子を見に行ったら、もう一人で立ち直っていた。
それをこの目の前の実直そうな大男にそのまま言うのも憚られて、あーうーと口の中で誤魔化して、「メシ、美味かった」と分かり易く話題を変えた。
「おう、ありがとう」
「鯵ばっかだったけど」
鯵のお造りから始まって、薬味と味噌と一緒にたたいたなめろう、塩焼きに、なめろうを大葉で包んで焼いたサンガ焼きが供されて、そのどれもがお世辞なしに美味かった。
正直、魚住の作る料理と聞いて構えていたが、言われなければ普通に店に入ったときに出された料理と、盛り付けも味も遜色ないように三井には思われた。
「それはあいつが鯵しか釣ってこないからだ。…いや、うん、それでいいんだ。アイツを気にかけていても同じ部だと声をかけてやりにくいこともある。…いろいろ複雑でな」
「そんなもんかな」
魚住はもう何も言わず、大きな手でカウンターの上の皿を重ねて持ち、奥に引っ込んだ。
確かに桜木や流川が同じような状態でも、なかなか言葉をかけることは難しいのかもしれない。未だリハビリを続けている後輩の珍しく考え込むような姿や、無愛想な中にも少しだけ対外的に変化の見られたもうひとりのスターターの後輩を頭の中に思い浮かべた。
だが、自分にとっての仙道はその二人とは違う。守ってやるべき、気遣うべき同じ部の仲間ではない。
でもどうしてか思い出してしまう表情があった。ふと気を抜いた時に蘇るそれがどうにも、校舎の屋上から見た海の上の雲のように三井の胸の奥底にいつまでも居座って離れない。そうでなければわざわざ映画を探し出して観て、顔を見にやって来たりはしなかった。
これ以上考えているとなんだか居心地の悪いことになりそうで、戻ってくる仙道に向ける顔にも迷いそうで、三井は置いてあったグラスの水を飲み干した。
「お待たせしましたー。はい、三井さん、これどうぞ」
そこにタイミングよく戻ってきた仙道から突き出されたスポーツショップの袋に、三井は目を落として少し考えた。
「…最後まで一緒に見るか?」
言ってからまた顔が赤くなりそうなのを感じて打ち消そうとすると、仙道のうれし気に弾んだ声が先に耳に届いた。
「ホントですか? やった! あ、アイス買ってきましょっか」
「そんなん別にいらねーよ」
「そうですか? 俺朝飯買ってくるからついでに食べながら観ましょうよ、暑いし。甘いのきらい?」
「…きらいじゃねーけど」
ついで、と言われてじゃあいいかな、と唇が尖る。
「じゃあ先に部屋、上がっててください。魚さーん! ごちそうさまでしたー!」
仙道がカウンターの奥に大声で呼びかけると、魚住が顔だけを暖簾から出した。
「おう。あんまり夜更かしすんなよ」
「ハハハ、リョーカイです」
魚住にも仙道の部屋に上がることが聞こえていたのか、とちょっとまた三井は照れ臭くなって、ぶっきらぼうに「ごちそーさん、美味かった」とだけ、下を向きボソボソ口にして席から立ち上がった。
「おう、また三井も来いよ。練習台になってくれ」
「そうだな。仙道がまた釣れたらな」
「え? そうなの? じゃあ俺、がんばらないと」
顔を覗き込むように微笑まれて、三井は困って仙道の背中を乱暴にせっついた。
じゃあ、じゃねぇよ、人たらしめ。
また三井の唇が尖る。
「いてっ。ねぇ、三井さん何アイス好きですか?」
「なんでもいーよ」
「えー。雪見だいふくとか?」
「アチーからガリガリくんとかのがいいな」
「はーい。あ、これ鍵です。冷房つけといてください」
仙道はジーンズのポケットから鍵を取り出し、大きな手から広げた自分の手に部屋の鍵が渡って、その重みと今までポケットに入っていたのか温まっているそれに急に面映ゆくなる。
なんだ、これ。
いや、なんでもない。他校の後輩と試合のビデオ見るだけ。
三井は受け取った鍵を同じようにジーンズのポケットにねじ込み、殊更低い声を意識して魚住に声をかけた。
「おう。じゃあな、魚住。ビデオもサンキュ」
「ごちそうさまでした、魚住さん。また学校でー」
「おう、またな。おやすみ」
店を出て左手すぐに2階の仙道の部屋へ上る内階段がある。足を向けようとして、振り返ると釣り道具を持ったままの仙道の姿が目に入った。
「持ってってやる」
「すいません。助かります」
「ん…」
荷物を受け取ると、「じゃあなるべく早く戻りますから」と笑う仙道の顔を見て、三井は「おう」と答えてすぐに顔を逸らした。背後の足音はあっという間に遠ざかって、あれは駆け足の音だったな、と考えて三井は目の前の階段を見上げた。
「なんだかなー」
妙に湧き上がるくすぐったい気持ちがある。手に持ったバケツから漂ってくる魚臭さも気にならない。ここの中にいた魚は今は自分の腹の中だ。
「なんだかなー」
三井は荷物を抱え直して、ジーンズのポケットの中を意識しながら階段に足を掛けた。
慣れない鍵をなんとか古い鍵穴に差し込んでドアを開くと、馴染みになったような古いアパートの空気が三井を取り巻いた。
思ったより部屋の中は暑くない。土間にバケツを降ろして釣竿を差して立て掛け、靴を脱いで記憶を辿ってまだ薄明るい中の部屋の電気のスイッチを押した。
手に持ったバケツの匂いが今になって気になって、洗面所に行って手を洗い、ついでに熱を持ったような顔も水で洗った。タオルを借りようと片目を開けて脇の壁際を探すが見当たらなくて、その上の棚に積んであった一枚を適当に借りると、ふっとその洗剤の香りの中に部屋の主を思い出させた。
ためらい、ためらった自分に突っ込みを入れて三井は乱暴にタオルの中に顔を埋めた。
部屋に入るとすっきりした顔に感じる熱がまだ少し籠っているように感じられて、窓を開けようと壁際に足を向けて、途中で気づいて床に置かれていた扇風機のスイッチを入れた。
窓を開けると風が通り、「いらっしゃーい」と階下から太い大きな声が聞こえてきて、下の店の営業も始まったのだと気が付いた。似てはいたが、魚住の声ではなかった。おやじさんかなーと思いつつ、窓の桟に腰をかける。
大雨の日は寂れたように静まりかえっていた細い路地は、飲食店が開店すると昼間より余程賑やかになり人通りも増え、三井は柵に肘をついてその様子を眺めた。
小さな店が駅まで間断なく続いて見えて、そこから夕景の中を早足で駆けてくる長身の男が見えた。
走ってくるこたないのに。
そう思いながら口元が緩む。
あの雨の日もああやって駅から走ってきたのだろう。そして自分の部屋がある店の前で雨宿りしている三井に気がついた。
あの時、雨宿りしていたのが自分でなかったのならどうなっていたんだろう。
例えば赤木が予備校でなければ、今ここにいるのは赤木だった…? 仙道が赤木を押し倒し…?
いやいや。それはない、と自分に怒って考え直し、ならなぜ自分はここにいるんだろうとまた不思議に思う。
仙道の顔が上を向いて、三井に気がついて顔が綻んだ。片手を上げて、笑顔で大きく手を振ってくる。周りを歩いていた人間は、いきなり長身の男が片腕を振り回しているのに驚いたように、体を避けて歩いていく。
バカか、あいつ。
それなのに自分の口も綻び手も無意識に上がっていて、三井は顔を怒ったように変えて体を引っ込めた。
まずい気がする。
このままあいつといると、なんだかまずい。
そう思いながらすぐに帰ると言い出すのもまた話が面倒になる気がして、逡巡している間に階段を駆け上る足音が聞こえてきて、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「お待たせしましたー。あれ、エアコンつけてないの?」
「ん…ああ、つけるか?」
「三井さん暑くないならいいですよ。はい、どうぞ」
「おお、サンキュー。…なんだこれ。ナニ味?」
玄関先で差し出されたパッケージは見慣れた青系の色合いではなかった。袋にはナポリタン味と書いてあり、ご丁寧にスパゲッティーを巻き付けたフォークを握ったキャラクターが描かれてある。
「おまっ! ナニ買ってきてんだよ! フツーの買ってこいよ」
「え? あれ? そんな変なヤツだった?」
仙道がまだ袋に入ったままの自分の分に目を落とした。
「あれー、こっちはフツーのやつだ。じゃあこっちどうぞ。はい」
「え、あぁ…うん、サンキュ」
わざとじゃなかったのか、と大人しく持っていたアイスを交換する。仙道は持っていたコンビニの袋を台所に置き、頓着することなく袋を破いた取り出したアイスを大口に齧った。
「え、おまえそれ食べんの?」
「うん、だってもったいないし。う…ピーマン…」
「ピーマン?!」
確かにナポリタンにはピーマンが入ってるもんだけど、そこまで忠実にアイスの中にまで入ってるのか、と三井は仙道が手に持ったアイスを覗き込んだ。
「うう…歯ごたえとか…かなり忠実に再現してある…」
「なにおまえピーマン苦手?」
「いや、嫌いじゃないけどアイスに入ってるのはさすがに…食べてみます?」
齧りかけのアイスバーを突き出されて、三井は顔を引いた。食べ口からピーマンらしき緑色の小片が見える。
「やだよ。おまえ責任持って食えよ」
「うぇ───」
下がり気味の眉を更に下げて、仙道は一気にアイスバーを齧って食べきった。
「…う」
「どうした」
笑いながらその様子を眺めていた三井は、動きを止めた仙道を覗き込んだ。
「つめひゃくてあたまひたい」
片手で口を押さえて咀嚼しながら目を見開いて、もう片手でこめかみを押さえる。
「ハハ! バーカ、一気に食うから」
三井は渡されたアイスの袋を破いて自分のバーを取り出し、笑いながら齧りついた。冷たくて歯にじんじんと沁みる。これを全部口の中に詰めたらそりゃ頭が痛いどころじゃないだろう。
「うー…ヘンな後味だし。三井さん、一口恵んで」
情けない顔で拝まれて、三井は口に運ぼうとしていたバーを、笑いながら仙道の前に突き出した。
「ほら。全部食うなよ?」
「ありがとうございます…」
バーを持った手ごと掴まれて、仙道の口元に近づけられる。開いた唇から白い歯と対照的な赤い咥内が覗けて、三井は咄嗟に手を引っ込めようとした。
「あ…」
動いたアイスへの目測を誤った仙道の口からバーが頬を滑って、驚いて手を離した仙道に握られていた三井の手も緩んで、アイスが畳に落ちた。
「あーごめん! すみません」
慌てて仙道がアイスを拾い、三井は「いいって!」、とその手からアイスを奪った。
「こんなもん水で流しゃ食える」
「え、でも」
ためらっている仙道を押しやって台所に入り、水道の蛇口を捻って適当にアイスバーに水を流した。
「ほら、三秒ルール」
バーを三井は大きく齧り、それから気づいて仙道の口元に押し付けた。
「あとはおまえにやる」
「あ…りがとうございます」
「おう」
動悸がする。
収まらなくて、意識すれば顔に血が上る。
今、仙道に顔を見られたくない。あいつがおかしなことをしたからだ。押し倒してキスなんてしてきたから。その部屋にのこのこ自分が入ってきたからだ。
自分が持ってきたビデオの入ったスポーツショップの袋を探し、手に取った。
「俺、やっぱ、」
下を向いて言いかけると、台所から大股に寄ってきた裸足の爪先が、自分の足のすぐそばに目に入った。
「待って。やっぱり俺がヘンなことしたから? 俺と一緒にいるのイヤですか?」
「…そんなこと…ねぇ」
「だってなんで帰るの? こっち向いてください」
三井は片腕を上げて口元を隠し、仙道から視線を逸らして顔を上げた。両肩を大きな手で掴まれ、三井の手からスポーツショップの袋が滑り落ちて、中のビデオが床と当たった固い音がした。
「ごめんなさい」
床に落ちたビデオの音と仙道の謝罪はほぼ同時に三井の耳に届いたが、それを三井は情報として頭の中で処理することができなかった。
仙道の手に痛いぐらいに掴まれた肩を引き寄せられ、目の前に大きくなった仙道の目が閉じられるのを、三井は不思議に長く感じられる時間をかけて見つめていた。
睫毛がバカみたいに長ぇな、こいつ。
そんなことを考えていると、そっと唇に触れてきたものがあって、三井は目を閉じた。
アイスに冷やされた仙道の唇が冷たくて、でもあの日とは違うのはそれだけじゃない。
背中に回った手を意識するとそれも頭から消えて、ただ開いた窓から耳に入ってくる階下のざわめきや、部屋に差し込んで壁を染めている残照の赤い色が、どこか夢の中の出来事のようだった。