蛇衣を脱ぐ
手摺に両腕を乗せて伸びをして、三井は顔を上げた。
空が青い。
新学期が始まっても、まだまだうだるような暑さが続きそうな厚い雲が海の上に居座って蟠っている。
盛大に声を上げて欠伸をしていると、背後から「みっちゃん」、と声がかかった。
「ふぉ」
よぉ、と言ったつもりが欠伸のせいで気の抜けた返事になって、徳男は厳めしい顔を緩ませた。手摺の前に並んできた大男に、ふと思いついて三井は声をかけた。
「おまえって映画観る? …あー、いや、やっぱいいや」
「映画? 最後に見たのいつだったっけ。なんで?」
切り出しておいて、男の幾分か時代遅れの硬派な姿を見て、返事を聞いて、だよな、と三井は手を振った。
「いや、いーの。探してた映画があんだけどさ。一シーンしかわかんねーの。クラスの映画オタクに聞いても知らねーっつーし」
あとはバスケ部の少しでも知っていそうと考えた、木暮や一年坊達に聞いて首を横に振られ、それで三井の手段は尽きた。
まあ、いっか、関係ねーし。
そう思いながら、つい徳男にまで聞いてしまったのは、空に浮かんだ、目の前が白く見えるほどの大雨でも降らせそうな、厚い雲のせいだったのかもしれない。
仙道に最後に会ってから1週間は過ぎていた。確かビデオデッキが直んの1週間くらいとか言ってたよな、と思い返すが、仙道からの連絡はなかった。
まー連絡はしにくいだろうな、と思いつつ、ビデオどおすっかなーと思いつつ。
三井も自分からは陵南に連絡することもしなかった。が、見舞いに行った桜木からはどこから聴き及んだのか、「ヤマオーのビデオはどーした、ミッチー!」とせっつかれることが多くなった。
山王戦というとあのアパートを思い出して、仙道の顔を思い出す。まさかオバケに取りつかれて、なんてこたーねーよなーと、またオバケネタがよみがえって頭を振り、しかし押しかけてきていた関西弁の一年生の言っていたことも気になっていた。
「どんな?」
徳男はこう見えて、自分の周りの人間には気を遣う男だった。まーわかんねーだろうな、とは考えながら、三井は仙道に聞いた通りの映画の筋を話した。
「AV?」
ま、そう思うよな、と三井は笑った。
「違うんだってよ。ゴッドファーザーに出てたやつが出てんだって。そういや鉄男んとこの金髪がそのホーン持ってたよな」
パパパパラパラパラパラパー
声音で真似て、三井は手摺についた腕に顎を乗せた。見下ろした校庭には炎天下の昼休みだというのに、サッカーもどきをやっている生徒がパラパラといた。濃い短い影がちょろちょろと動いて、ホーンの音が耳に蘇った。
そのホーンをつけたバイクがここに乗り入れたのはこの春だったんだよな、とふと思い出した。いろんなやつに殴られて、それ以上に助けられた。安西先生もいてくれた。そういえば隣のこいつにも助けられた。
あいつにはそんなやつがいるんだろうか。
出入りしていた鉄男の部屋を思い出すと、同じような印象を受けた万年床を引きっぱなしの仙道の部屋に記憶が繋がった。
意識は校庭から体育館に通じる小路を辿っていると、徳男が「それだったら」と口を開いた。
「多分わかんじゃないかな。ダチがマーロン・ブランドのファンでそんなようなの聞いたことがある。と思う」
「マーロ…?」
徳男の口から出てくる単語とは思えず、三井は腕から顔を起こした。
「AVみたいなやつだろ? 聞いてくるよ」
言い置いて、徳男はさっさと背を向けた。三井はあっけに取られてその大きな背を見送った。
まあここは避けようのない直射日光で暑いもんな。
パパパパラパラパラパラパー
三井は鼻歌に歌いながら、また青い空に顔を向けた。
三井は眉間に皺を寄せて、再生途中でリモコンの停止ボタンを押した。
「ふざけたもん見せてんじゃねーよ」
立ち上がって部屋を歩き回る。これが悪い友達連中とふざけて見ているのならよかった。三井もまたふざけて、エロいなーとか言いながら笑っていられたかもしれない。どうにも背中から湧き上がるような不快感に戸惑って、考え込むように手で口元を覆った。
部活のない学校帰りに寄った貸しビデオ屋で、徳男の太い指がビデオの背を押した。
「あった、これだこれだ」
「どれ」
手に取ってみれば、やっぱAVなんじゃねーの?というビデオのパッケージで、三井は眉を寄せた。帰ってすぐに自室に閉じこもり、映画を観ていると、苛々した感情が湧き上がってきた。どうにも収まりがつかなくなり、歩いていた足を止めて時計を振り返った。
また日が落ちるまでには間がある。
三井は財布をジーンズのポケットに押し込み部屋を出た。
魚住に「山王戦のビデオの件で」と、それだけが本当ではないが嘘でもない理由で電話をかけた。
陵南の元キャプテンは、聞いた通り部活から引退して家にいた。それとなくを装って聞けば、現キャプテンは今は部活には問題なく出ているという。
「今日は部活自体がないがな」
その言葉を聞いて、三井はアパートの玄関の狭い土間に立てかけられていた釣り道具を思い出していた。アパートに行くまでは億劫だが、そこら辺りの海にいるのなら。
大体仙道がいつも釣りをしているという場所を聞いて教えられた突堤に行くと、あの特徴的な髪型はすぐに見つけられた。
傍に寄っていくと見覚えのあるバケツと、見覚えのないクーラーボックスが脇に置いてあり、三井はその傍にしゃがみ込んだ。
「仙道」
針を落とした先の波を見ながら声をかけると、海に向けられていた顔が三井を振り向いて、目が瞬いた。
「あ…れ? 三井さん?」
「うん」
「あ…もしかして山王のビデオ…? ですか?」
「いや。あ、それもあるけど」
「あー………ごめんなさい…?」
「なんで疑問形なんだよ」
三井は笑って、しゃがみ込んでいた足を伸ばしてコンクリートの上に腰を下ろした。
日も暮れかけた海で、今日一日の暑さの名残がじんわりと体に伝わる。
「まずさ、あの女子大生とは別れて正解だな」
「え? どの?」
「どのって。そんなに付き合ってたのかよ」
「いえ、一人だけ」
「じゃあそいつだよ。その映画好きの女子大生」
「ああ…」
仙道は口元に笑みを浮かべた。
「あとは?」
「あとはってなんだよ」
「まずはって言ったから」
「あー…。まあ、八つ当たりは許してやる」
「八つ当たり?」
「だろ?」
「え、待って。何が? オバケの話?」
「それ忘れろって。…じゃなくてほら…おまえが…その…」
オバケの話しで脅かされたことは確かに、すごく、嫌だった。あれもそうだったのか。
だが三井が自分の言ったことの説明に言い淀むと、仙道が慌てて、「ちがうちがいます!」と顔の前で手を振った。
「確かにあの話した映画が、彼女と一緒に見た時はなんだか…すごくイヤで、その後に彼女に体に手を伸ばされてそれもすごくイヤで、そしたらいきなりひっぱたかれて、よくわかんない間にフラれて。でも違う。八つ当たりとかそんなわけない」
「そ…うなの?」
勢いに押されて三井は思わず頷いたが、ならあれは何だったのだ、と思わずにはいられない。
「はい。でもそれ思い出して、あれ三井さんなら嫌じゃないな、と思って、なんだろうって試してみようと思って」
「はぁ?!」
試しで押し倒してキスしやがったのか。
「おまえ、男好きなの」
「いえ、そういうわけじゃ…すみません。もやもやしたのは溜ってたのかな」
そりゃ仕方ねーだろ。
仙道が背負ってきたもの全てを察したわけではないが、なんとなくキツそうだな、ぐらいは自分にだってわかる。
だが今、釣竿を垂れて穏やかな表情で海を眺める横顔を見ていると、そんなことは自分が気にすることもなく乗り越えてんのかな、とも思える。
少なくともアパートの薄暗い部屋で、捉えどころのない言動を繰り返した仙道とは全く違って見えた。笑顔さえも自然で、こっちの方がずっといい。こんな場所で、三井はすることも何もないのに、つられたように笑っていて居心地のよささえ感じられた。
「…俺、特待で東京から越境してて。学校から家賃補助出されて一人暮らししてたんですけど、学年主任に呼び出されて。遅刻ばっかで生活態度がなっとらんと。要は学校の寮に移れってことだったんですけど、陵南の寮ってほぼほぼ野球部でキツいなーって」
陵南は野球部も強い。門外漢の三井も何度か耳にしたことはあった。一つの部活で占有している寮へ移るのは確かに気が重いだろう。
「あー…キツいな、それ」
「で、困ってたら魚さんが実家の店の2階が空いてるからって口聞いてくれて、田岡先生も頭下げてくれて。今は毎朝、市場帰りのおやじさんに叩き起こされて遅刻ナシの皆勤賞です」
「そっか」
三井は立ち上がり、自分のジーンズの尻をはたいた。
仙道の周りにも仙道に目をかけてくれるやつはいる。何ができるわけでもない自分がでしゃばる必要はなかった。
「じゃあ邪魔したな」
「え? 待って」
「ん?」
「えーと、その…えー…うん。あ、そうだ、あれ。山王戦のビデオ」
「あ? あー…」
忘れて帰るところだった。だがあの部屋に足を踏み入れるとなると、いろいろとまた思い出すことはあった。
「いいや。また一年坊にでも取りに来さすわ」
「…怖いですか?」
「あぁ?」
また。
そう思って三井の眉尻が上がった。
「もう何もしませんから」
ああ、そっち。
力が抜けて、頷く。
「お詫びにまた肉焼きそば作ります。どうですか」
そうまで言われて固辞するのも気にし過ぎているか、と三井は「行く」と答えた。
見覚えのある店舗の前まで来ると、「ちょっと魚卸してきますね」と仙道が言った。
「卸す?」
「あー…というか。食べられそうな魚が釣れた時に持ってくと料理してくれるんっすよ、魚さんのおやじさん。あと賄いにも使ってくれて。俺もいっつもごちそうになっちゃってるし、他の魚も渡してます」
「マジか。それで釣りやってんの?」
「ハハッ! まさかー。三井さんはおもしろいなー」
どこがだ。
仙道の広い背中が、まだ暖簾が仕舞われたままの店の引き戸を開けるのを睨みつける。
「ちわーっす」
「おう、仙道。さっき三井から連絡があって、おまえまだ山王戦のビデオ…お、なんだ三井もいたのか。悪いな、ウチの仙道が」
「ハハ、すいません、つい忘れてて」
なんでもないように笑う仙道の後ろに続いて、三井も興味深げに店の中を見回しながら足を踏み入れた。
「おう。いや、俺も忘れてて」
店内は昔からあるような手のかかった和の空間だったが、思ったよりも敷居が高い感じはしなかった。入って左手のカウンターの中に白い割烹着を来た魚住がいて、そちらの違和感の方が半端ない。
「魚さん、これ今釣ってきたやつ」
クーラーごと仙道が渡そうとすると、魚住はカウンターから出てきた。
「おう。じゃあ早速なんか作ってやる。三井も食ってくか」
肉焼きそば…と思って、仙道に目を流したが、「そうしましょう! 俺、手ぇ洗ってきますね」と目を輝かせて言われて、三井も頷いた。
「悪いな」
「俺も修行になるしな」
クーラーボックスを持って魚住が奥に引っ込むと、店内探検をしていた三井は戻ってきた仙道に促されて、並んでカウンターに座った。
こういう店は親に連れて来られたことはあっても、年代の近い人間と来たことはない。背伸びした感じが少しくすぐったく、だが隣に並んで座っているのは仙道で、料理をするのは魚住だった。
俺はこんなところでナニしてるんだか、と考えるとなんだかおかしくて、三井は思わず一人で笑った。
「あ、なんですか、思い出し笑い。やらしーなー」
「おまえに言われたかねーよ」
笑って仙道の腕を小突くと、仙道は複雑な顔をしてから微笑んだ。
「そういえば三井さん、選抜の話って聞きました?」
「選抜? 秋の?」
「そう。今回神奈川から出場すんの優勝校じゃないんですって」
「マジ?! 海南じゃないのか?!」
「俺もまだ正式に聞いたわけじゃないんですけど、ここに田岡先生が来た時聞いちゃって」
「こら、仙道」
盆で運んできたお手拭きと大皿と小皿を大きな手でカウンターの上に乗せて、魚住が窘めた。大皿の上には鯵がいて、上を向いた顔の口がパクパクとまだ開いている。身はきれいに刺身になっていた。これを魚住が?と三井は驚いて、仙道から聞いた選抜の話がしばし頭から飛んだ。
「そういうことを漏らすな」
「え、だってもう決まってんですよね?」
「スゲーなこれ! まだ生きてんじゃん!」
二人の目が三井に集まる。
「アハハ! スゴいですよね」
「んだよ」
仙道の目がおかしそうに垂れていて、三井の目が逆に上がった。
「まだおやじには店に出すレベルじゃないと言われてるがな」
そういう魚住の顔もまんざらでもなさそうだった。