蛇衣を脱ぐ
「いらっしゃい」
部屋から乗り出すようにドアを開けて、自分に向けてニッコリ笑った男を三井は睨みあげた。
「ビデオ」
それへ一言催促すると仙道は眉を下げた。今日は髪の毛はきっちり上げられていて、見覚えのある男の印象だった。
「せっかく来たんだし。あがってお茶でも」
「いらねー。あ! コワいからじゃねーからな」
「はい。…あー、でもね、…困ったな」
仙道は笑顔を引っ込めて、考えるように大きな手を頭にやった。ここまで無駄足を運ばせたんじゃないだろうな、と三井の声が低く沈む。
「なにが」
「ダビングにちょっと時間かかっちゃってるみたいで。後で彦がここに届けに来てくれるんですよ。もう来る頃だと思うんだけどなー」
「マジか!」
「すいません」
全く悪いとも思っていなさそうな顔で、頭を下げるわけでもない。
長身を中に引っこめた仙道に「まあ、どうぞどうぞ」と、もう入ってくるのが当たり前のように言われて、三井は躊躇った。
ちらっと昨日のオバケ話が頭を掠めて、バカバカしい!と自分で自分に怒り、「邪魔する!」と幾分か乱暴に狭い土間にスニーカーの足を上げた。
玄関の隅に、昨日は部屋にあったバケツと釣竿が立てかけてある。倒さないように避けながら、ホントにこの男が釣りなんてやるんだな、と思いつつ、三井はスニーカーを脱いだ。
部屋に上がると昨日とは違って明るい西日が差し込んでいた。暑いが潮の香りのする風が吹き込んで、昨日のどこか陰鬱な部屋の雰囲気は消えていて、三井は少し安心して周囲を見渡した。
昨日と変わっていないように思えた部屋は、しかし奥の部屋に見えた万年床が片づけられていた。自分が来るとわかっていたからか?と考えて、少しだけ三井の機嫌が浮上する。
「ビデオそのまんまなんで見てていいですよ」
入った背中から声をかけられて、「ん」と頷き、テレビの傍にあったリモコンを手に取った。
「あー三井さん、昼飯食います?」
「は? もう3時だろ」
「なんですけど、俺も今帰ってきたとこで腹減っちゃって」
豚肉のパックを持った仙道が台所から声をかけてくる。
「おまえが作んの?!」
「まー作るってほどじゃないですけど。一応一人暮らしなもんで毎回外食だとキツいんですよ。時々下から賄い飯もらったりするんですけど、毎回は心苦しいし」
「ふーん。何作んの?」
「焼きそばです。昨日のお詫びに。どうですか?」
焼きそばと聞いて急に空腹感が浮上した。焼きそばならかっこめるし、長居にはならないだろうと踏んで、三井は頷いていた。
「…もらう」
「はい」
仙道はまたニッコリ笑って顔を引っ込めた。
昨日と同じ位置に座って、手に持ったリモコンでテレビの電源を入れて再生ボタンを押すと、昨日の続きの試合が映し出された。最後に見たシーンとは逆に流川が沢北を抜いて豪快にダンクを決めた。
思わず拳を握り、それからふと気になって台所を見ると、仙道はテレビを気にすることもなく、手元に集中しているように見えた。
顔を戻して画面に夢中になっていると、ほどなく鼻孔を擽る匂いが流れてきた。気になって台所を振り返り、一時停止ボタンを押して三井は座り込んでいた畳から立ち上がった。近づいていくとソースの匂いが濃く漂い、自分の空腹がいや増して感じられる。
「え? なにこれ」
「なにって…焼きそばですけど」
「じゃなくてコレ」
本来ガス台があると思しきところにはアルミのようなもので作られた仙道の身長に合わせた高めの台が置かれ、その上に小さめのホットプレートが居座っていた。ホットプレートには仙道が今まさに作っている大量の焼きそばが焦げたソースのいい匂いをさせている。
「あー、俺火加減とかわかんなくてすぐ焦がすんですよ。それにただ焼くだけぐらいの簡単なことしかできないって言ったら、魚さんのおじいさんが作ってくれて」
「へー…」
なるほど脇には電気ケトルがあって、湯を沸かすのはこっちなのかと思う。
「なんか…いたれりつくせりだな」
「ホントお世話になってます」
その時、土間からガタッと大きな音が鳴った。三井は肩をびくつかせて驚き、身を引いた背中が仙道の胸に当たった。音のした方を見れば、立て掛けてあった釣り竿が倒れていた。背中の温かさにどこか安心しながら、三井は仙道の顔を恐る恐る見上げた。
「…昨日の…ホントにジョーダン…なんだよな?」
「昨日のって…あぁ」
少し考えた仙道の顔がまた笑顔に崩れる。
「ジョーダンですよ。…三井さんって、」
「なんだよっ」
パッと身を離して顔を怒らせると、仙道は笑った顔のままホットプレートに向きなおった。
「いえ、なんでもナイです。あ、そこの皿取ってもらえますか?」
三井は尖らせた口のまま、手前にあった2枚重ねてあった皿を渡すと、仙道は2等分に焼きそばを盛り付け、それぞれが持って座卓に運んだ。
「いただきます」
手を合わせて受け取った箸を取り上げる。
「肉しか入ってないですけど」
「ハハ、肉やきそば。俺この方が好き」
仙道は笑い、自分の皿を置くとまた台所に戻って、昨日と同じグラスを二つ取り出して茶を注いで持ってきた。それに礼を言うとまた仙道は三井を見て微笑んだ。
「三井さんって」
「ん?」
三井は一時停止ボタンを押して試合を再開させた。テレビは両チームがエースを下げて、バカデカい河田の弟がコートに入ってきた場面を映している。
「挨拶とかお礼が言える人ですよね」
「へ?」
見上げた仙道の顔が優しい。昨日の何を考えているのかわけのわからない男の顔はもうなかった。三井は困って、「まーこのぐれーはな」と小さく返事をした。
「うん、うめぇ」
「よかった。これくらいなら失敗なく作れるから」
「なんかいろんな匂いがする」
「にんにくチューブとしょうがチューブメチャクチャ入れてます」
「へー」
にんにくチューブとしょうがチューブなるものが何なのか三井はわからなかったが、まあ料理に使うもんだろ、と考えて適当に相槌を打つ。
二人がかきこむ皿に盛られた焼きそはみるみる内になくなって、三井は麦茶の入ったグラスに手を伸ばした。
「ごちそーさん。そういや今日釣り行ったのか」
「え? あぁ、まあ…」
珍しく言葉を濁すような仙道に、「部活はどうした」と言葉を続けようとすると、玄関のチャイムらしき音が鳴った。
「彦かな」
仙道が立って玄関に向かうと、三井はまたテレビに集中しようと座卓に肘をついた。
いや、ビデオが来たならもう帰るか、と自分と仙道の使った皿を重ねて持ち、台所に近づくと押し問答のような言い合う声が聞こえてきた。
聞いちゃまずいかな、と思いつつ、狭いアパート内では耳に届いてきてしまう。ここでは珍しいまくしたてるような関西弁が玄関先で響いていた。
「もう越野さんもめちゃめちゃ心配してはりますから」
「あいつは怒ってるだけだろ」
「ちゃいますて。いきなり電話も通じんようになるしアパートも引っ越されてはるし」
引越したばかりだったのか。三井はなぜか少し安心したように感じて、荷物が少なく感じた部屋をまた見渡した。
「ゴメン、連絡する暇なかった」
「とにかく部活には来とっただかんと」
「うん。もう落ち着いたし明日は行くから」
「それ昨日も聞きました」
「ビデオ、頼むよ」
「それはもちろんですけど、あ」
伸びをして玄関を覗いた三井は、仙道に詰め寄っていた関西弁を話す男と目が合った。
「あーすいません、お客さんでしたか」
「知ってるだろ、湘北の三井さん。ビデオ取りに来たんだよ」
「あー…!! そうでした! えろうすいません! 部のデッキいかれてしもてお詫びがてらうちのキャプテンの様子見にきた陵南一年の相田いいます」
また機関銃のような関西弁が放たれて、三井は「お、おう」とだけ応えて片手を上げた。
「彦、もういいから。じゃあまたな」
「あ、仙道さ」
最後まで言わせずに仙道は玄関のドアを体で閉め切った。
「…すみません…。そういうことみたいで、あと1週間はかかるみたい」
「あーいいよ。今これ花道に見せたら暴れだしそうだしな。安静にしろって言われてんのに」
「俺の、やっぱり持ってきます?」
言って、仙道が部屋を横切りテレビに近づくと、三井は重ねて「いいって」と遮った。
「俺もまだ見終わってないし」
「え」
仙道は驚いたような顔を向け、それから頭をかいた。
「もしかして気ぃ遣われちゃってます?」
「陵南の事情は知ったこっちゃねーよ。俺は山王戦のビデオが手に入ればいいだけ。急ぎでもねぇし」
「…そっか。そうですね」
頭に手をやったままの仙道はどこか困っているようにも見えた。
「じゃあ最後まで観ましょっか」
「あ? あぁ…」
だからその後に続いた言葉に三井は驚いたし、なんとなく失敗したかな、と思い、だが他に返事のしようがなくなって、玄関先から居間に戻った。
そのすぐ後ろをついてきた仙道も三井の隣に腰を降ろす。
「俺、勝手に見させてもらうからさ、おまえ好きなことしてていいぜ。何回も観たんだろ?」
「…また気ぃ遣ってます? いいですよ、俺も見ます」
「別につかってねーし」
まあ本人が言うならいいか、と三井はまた再生を開始させた。
入ってきたバカデカい一年に押されて、なかなか思うように動けけず焦れている桜木が映った。似たように赤木もその兄とのマッチアップにイラついている。
自分がコートにいた時には俯瞰で見られなかったチームメイトの姿を見て、三井の唇は自然に尖った。
この後のTOで先生は桜木中心の攻撃の指示を出した。ここで視点を変えることなく、局地的な視野をも取り入れていく戦略は自分などにはまだ理解できないものだった。そして桜木がその意図通りに動けるようになったのは赤木の言葉だ。
「付き合ってた女子大生が、」
「ハア?」
唐突に仙道が口を開く。またかと思い、しかも女子大生ときた。まあモテそうなヤツだとは思っていたが。
「…なんだよ、惚気かよ」
「いえ、こないだフラれたんですけど」
「…あ、ワリー…」
「…いえ。その人が映画好きで」
またバスケと関係がない話しらしい。それでもオバケ話よりはマシかと、三井は仙道を遮らなかった。
「部屋に遊びに行くと大体古い洋画が流れてるんですよ」
「ふーん?」
「で、最後に見たのが、不動産屋に同じアパートに案内されちゃったおじさんと、若い女の子の別々の客で。それが不動産屋がいなくなったら突然始めちゃうんです」
「なにを?」
「セックス」
「…は…?」
いろいろ情報を整理できなくて、三井は画面から目を離し仙道を見た。
「なんだそれ。AVか?」
「いやー、おじさんの方は名前知らないけどゴッドファーザーに出てた人だっていうし、違うと思うんですよねー。あ、でも女の子のあそこの毛すごかったなー。パンダの耳みたいだった」
ゴッドファーザーときた。しかもパンダの耳ってなに。無修正か。
三井は不良時代の仲間がそのテーマのミュージックホーンをバイクに取りつけていたのを思い出した。
「…で?」
仕方なしに三井は話の続きを催促した。
「いや、それだけなんですけど。ちょっと今思い出して」
なぜ今それを思いだす。
「…あっそ」
三井はつきあってられないと、顔を画面に戻した。が、試合はすぐに前半が終了しTOに入った。
早送りをしようとリモコンに手を伸ばそうとして、顔の脇に気配を感じ、三井はなんの気なしに振り向いた。すぐ傍に仙道の顔があって、驚く。仙道の顔はそのまま近づき、あ、と思ったときにはキスをされていた。驚きに固まったままの体を大きく重い体がのしかかって、三井は畳に頭から倒された。
衝撃に顔を顰めていると熱い肉厚の舌が入ってきて、三井は混乱した頭の中で先刻背中をぶつけた仙道の体の熱を思い出した。見下ろしてくる目の睫毛の長さを思い出し、少し薄い唇を思い出す。
両手首が取られて、足の間に仙道の膝が入って、初めて三井は顔を背けて体をバタつかせた。
「ちょっ! おいっ! なにすっん…!」
声を上げようとした口はすぐに仙道のそれに塞がれた。すぐに入ってきた舌がまた口内を蹂躙し始める。
なんで、と思う間もなかった。自分の体の前面に伸し掛かってくる重さを感じて下腹がざわつき、ヤバいと焦った。
三井は顔を離して、思いきり額を仙道のそれにぶつけた。と同時に少し離れた体に膝をぶつける。唸るような声を出して、仙道が脇に転がった。
三井は体を起こして立ち上がり、玄関へ走った。ドアを開けて振り返ると、仙道はまだ倒れた時の体勢のままで、乗せられた腕がその横顔を隠していた。