蛇衣を脱ぐ
降雨前特有の湿った空気の匂いに嫌な予感はしたものの、少しぐらいなら濡れても走ればいいぐらいに思っていた。それがバケツをひっくり返したような豪雨に突然見舞われて、三井は庇が張り出した今は閉店している店の軒先に慌てて飛び込んだ。
降りが緩くなったら駅まで走ろうと考えて待つが、目の前が白く見えるほどの雨は一向に勢いの止む気配を見せない。コンビニか、せめて傘が置いてありそうな店でもないか、と目で探すが、大通りから1本入った細い路地にそれらしき商店は見当たらなかった。
通常であればとうに癇癪を起して大雨の中だろうが飛び出していたが、両腕で濡らさないように大事に胸に抱えたそれが三井を思いとどまらせていた。周囲には暇を潰すような店もなく、恨めし気に灰色の厚い雲の立ち込めた空を睨みつけていると、三井のいる軒先に水しぶきとともに飛び込んできた人間がいた。
あー…お気の毒。
飛び込んできた背の高い男は降り始めてから大分雨の中を走ってきたらしく、息を上げた体はずぶ濡れだった。白い開襟シャツは雨を重く含んで肌に張り付き、長い前髪が顔の上半分を覆って水を滴らせている。
「いやーすごい雨ですね」
それが突然話しかけてきて驚いた。
「…そうですね」
三井は思わず棒読みになった言葉を返した。
男は持っていたスポーツバッグを降ろし、気持ち悪そうにずぶ濡れのシャツを胸の辺りで指で摘んで体から離した。
「もつと思ったんだけどなー」
「…………そうですね」
「あれ?」
男は前髪を片手でかき上げて、三井を見た。
「もしかして俺、わかりません?」
抑えきれず水分を含んで落ちてきた前髪を両手で上に持ち上げて額を出し覗き込んできた男を、三井は胡乱気に見やった。
制服は違う。湘北じゃない。デカいからどこかで試合に当たった選手かもしれない。だがこの色男面には確かにどこかで見た覚えがある。
「あ、おまえっ!」
「思い出してくれました? うれしいなぁ」
陵南の7番だ。仙道。
忘れるわけがない。
馴れ馴れしく笑ってくる顔に、チッと舌を鳴らして顔を背けた。
敬語なんて使わなければよかった。
「いやー偶然ですねぇ」
舌打ちが聞こえなかったのか、雨に濡れて何がうれしいのかずっとニヤニヤと笑っている。まともに話したこともない他校の、しかも陵南の選手と軒下の雨宿りで一緒になって、三井は居心地の悪さに顔を顰めた。
が、外に飛び出したくても胸に抱えたものを思い出して動けない。
「おかえりなさい」
「あ?」
投げられた言葉の意味がわからずに仙道を向くと、「広島」と言ってまた笑う。
「あ、…ああ。うん」
なんと言っていいのかわからず、三井は短く答えて頷いた。
もしかしたら目の前の男がいる高校が行っていたかもしれない場所。
なにか言いたいことでもあるのか、と思って見ても、仙道は濡れて落ちてくる髪を気にしながらも、ただ感情の読めないどこか惚けたような笑顔を浮かべているだけだった。
「それ、彦一のでしょ? 魚住さん、今日三井さんが取りに来るって言ってた」
仙道は三井が胸に抱えたものを顎で差して訊ねた。
「…ああ。そうだ。…見たのか?」
「いいえ」
胸に抱えていたものは、湘北山王戦のビデオだった。一年坊の家族のツテで手に入れたものだが、と魚住から湘北に連絡があったのが昨日。
ダビングするから桜木への見舞いにしたい、という言葉をありがたく受けて、夏期講習があるとかいう赤木の代わりに三井が魚住の家にまで受け取りにきた。
だから。花道に見せてやるまで絶対に濡らすことはできねー。
三井はまたビデオを入れた紙袋を抱え直した。
「なんだ、見てねーのか」
「ウソです。見ました」
三井は眉を寄せて仙道を睨み上げた。それでもニヤニヤ笑いは止まらない。
「見ましたよ」
2度言って、仙道は顔を地面に向けた。
「いやースゴかった。スゴい。あの山王相手に湘北ガラ悪いし。チョー悪役だし。笑った」
「…バカにしてんのか、おまえ」
返答によっちゃ大雨の中に叩きだしてやる、と向き直ると、「きっと俺たちじゃ勝てなかった」と返されて、三井の足が止まった。
「ちょっと感動しちゃいましたよ」
「…ふん」
上げられた顔がまた微笑んできて、三井はどんな顔をしていいのかわからずにそっぽを向いた。
まだ雨の勢いは収まっていなかった。このわけの分からない男と狭いこの場所で二人でいるのにも困って、また三井は降りやまない空を睨み上げた。
「…観ていきます?」
「へ?」
「それ。ここで」
仙道は言って、指で今立っている場所の上を指した。
「ここの2階にお世話になってるんっすよ、俺」
「え?」
雨宿りしている軒先の店は割烹料理屋で、ランチ営業を終えて休憩時間中だった。隣の建物との間に細い内階段があって、上階に繋がっているように見えた。
「ここって魚住さんのお家の料理屋さんですよ。気がついてなかったの?」
「え?!」
三井は驚いて目の前の店と、その階段とを交互に見た。魚住の自宅に行ってきたばかりだった。そこから駅までの道で大雨に邪魔されたのだ。
「雨が止むまでの間」
小首を傾げられて、三井はもう一度土砂降りの雨を眺め、胸に当たるビデオの存在を思い出して首を縦に振っていた。
「店を始めたおじいさんが住んでたんですって。あと板前修行の人? 今は誰もいないけど」
昼間でも薄暗く、軋むような音を立てる古い建物内の階段を上がりきると、2階はアパートのような造りになっていて、その一番手前の部屋を仙道はズボンのポケットから取り出した鍵を使って開けた。
「どうぞ。散らかってますけど」
「…お邪魔します…」
ボソッと呟いた三井に、仙道は振り返って微笑んだ。
部屋は玄関を上がってすぐに小さな台所と浴室らしき水回りがあり、その奥が二間続きの和室だった。どこにでもあるようなアパートの間取りで、三井は不良時代に上がり込んで入り浸っていた仲間の部屋を思い出した。
部屋の中まで薄く暗く感じるのは摺りガラスの窓の向こうの降り続いている豪雨のせいなのかもしれない。仙道の部屋は説明された言葉と違って自分の部屋よりよっぽど物が少なく、ガランとして実際以上に広く見えた。
「喉乾いてたら冷蔵庫の中のもんなんでもご自由にどうぞ。と言ってもあんまり入ってないけど。俺ちょっとビチャビチャなんでシャワー浴びてきますね」
「おう」
背を向けたまま返事をかえし、続きの和室の手前の部屋にテレビとビデオが一体化した家電を見つけて持っていたビデオを紙袋から出した。正面に見えた電源をつけ、イジェクトボタンを押そうとして少し考えて三井は手を止めた。
今いる和室には小さな座卓と隅に勉強机とその椅子があるばかりで、クッションや座布団類もなく所在ない。仕方なく畳に腰を落として、胡坐に座り込んで部屋を眺めた。
奥に引きっぱなしの布団が目の端に映って、三井は居心地悪く背を向けた。グレていた時代の仲間の部屋を不意に思い出していた。
薄暗い西日の射すアパートで、鍵がかかっていなかったその仲間の部屋に三井は自由に出入りをしていた。ここと同じような造りの続きの部屋に万年床があって、ある日そのアパートに行くといつも開きっぱなしの続きの襖が立て切られていた。開けようと手をかけると、女の喘ぎ声が聞こえてきた。
三井は頭を振っていつの間にか眺めていた万年床から目を離して、今いる部屋の中を見渡した。
ヒマを潰そうにも物が少ない、というよりはほぼない。ここに本当に住んでいるのか、暗さや外の雨の烈しい音も相俟って少し不気味に感じられるくらいだった。
ふと部屋の隅に目が止まった。新聞紙が引かれた上にバケツが乗せられて、釣竿らしきものが突っ込んであった。
釣りなんかすんのか?と立って近寄って行くと、「三井さん」と呼びかけられて足が止まった。
振り返ると、部屋着らしきスウェットとTシャツに頭からかけたバスタオルで立っている男の顔が見えず驚き、瞬間体が固まった。
「仙道…だよな?」
「ですよ?」
髪を拭いた手がタオルをどかすと、見慣れない髪型ながら人を食ったような笑顔は見知った男のもので、三井は知れず息をついた。
「これ。勝手にやっちゃワリーかと思って」
「そんな気ぃ使わなくてもいいのに」
三井から受け取ったビデオを手に、仙道は長い前髪の下に見える口元だけで笑いテレビに近づいた。
中に何も入っていないことがわかっている無造作さでビデオを挿入口に突っ込み、脇に置いてあったリモコンを手に取る。
「はい、これ」
三井に手渡して自分は台所へ足を向けた。三井は手に持ったリモコンに目を落とし、再生ボタンを探して押下した。
すぐに会場のざわめきが部屋の中に響き、画面の中ながら見知った様子に三井はホッと息をついた。
見覚えのあるアリーナの様子が映し出され、しばらくピントが合わない画像が流れたかと思うとフリースローラインから踏み切った花道が目に飛び込んできた。
ダンクは失敗して体がボールとともにコートに叩きつけられ、桜木の今の状態を知っている三井は思わず目を背けた。
「ハハ、相変わらずっすね、桜木は」
すぐ傍に来ていた仙道に気づかず、三井はまた少し驚く。
手に持っていた茶の入った水滴のついたグラス二つを座卓の上に置き、仙道は座卓を挟んで三井の向かいに座って上体を壁に預けた。長い足がこちらに向けられて、三井はなんとなく座卓にかけていた肘を外した。
「あれ、でもこれって第一試合の海南とどっかの試合ですよね。他に入ってませんでしたか?」
「いや、これ1本だった」
「あれー、3倍速? じゃないよな? 魚さん間違えたのかなー」
仙道はリモコンを取り上げ、画面に向けて早送りのボタンを押した。
海南と岩手代表の試合は後半3分を過ぎるともう結果が見え始め、牧と神、清田が交代してベンチに下がっていた。そのまま試合は終了し、テープの再生も終わって音をたててビデオが排出された。
「うん、入ってないな」
「マジかー?!」
わざわざ受け取りにきたのは無駄だったというわけだ。しかも大雨に振られて仙道の部屋にいる。
仙道に傘を借りてもう一度魚住の家に行くか?とすりガラスの窓の外を見ても、まだまだ雨は激しく外に出る気が削がれる。よほど厳重に包まないと、ビデオテープだってただではすまないだろう。
「そっかそっか」
仙道は片手を畳について立ち上がり、板間の台所の方に歩いていった。
そこに置いたままになっていたスポーツバッグを開き、中からタオルの塊を取り出す。そのタオルをグルグルと解いていくと、中からビデオテープが1本現れた。
「それ…」
「山王戦です。彦からダビングしてもらって」
「あぁ…」
「これは俺のなんで、後でまた魚さんからもらってくださいね?」
そう言うと仙道は排出口にあったビデオテープと、手に持ったそれをさっさと入れ替えた。
「おまえもダビングしてもらったの」
「はい」
なんの気負いも照れもなく、仙道は頷いてまた座っていた場所に腰を落とした。
「だって17年連続優勝の山王がインハイ本選初出場校に負けるゲームなんて。とっとかないとでしょ」
「あ?」
言葉にひっかかりを覚えて仙道を見れば口の端を機嫌良さそうに上げた顔はもう画面を見ていて、やはり三井にはわけのわからない男としか見えない。
再生が始まってテレビから山王への歓声が大きく響いた。画面に目を向けるとちょうど自分達が入場してきたところだった。
またしても桜木が飛び出し、相手チームのゴールに豪快にダンクを決めた。戻ってきたところを宮城と出迎えて、ハイタッチをしてポーズを決めている自分が映る。
今更に気恥ずかしく顔を赤く染めると、仙道がクスクスと楽しそうに笑い、それを三井は睨みつけた。
「…湘北って、やっぱ宮城がなるんです? 次期キャプテン」
「ん? ああ、そうだな」
かと思うと、立てた片膝に乗せた腕の上の顔は何かを深く考え込んでいるようにも見えて、また三井は戸惑った。
そういえば今日会った魚住からはもう部を引退したと聞いた。陵南の次期キャプテンはきっとこいつが引き継ぐのだろう。
アッハッハと突然、静かだった部屋に大きく笑い声が響いた。
「ハー…何回見てもおもしれー」
試合が始まり、アリウープを決めた桜木が驚いた顔のまま宮城とハイタッチしていた。
難しい顔をしていたかと思えば次にはもう爆笑している。わけがわからねぇ。
三井はもう仙道は放っておいてビデオに集中しようと決めた。
パスッといい音を立てて自分の腕から放たれた3Pが決まった。実際にテレビからその音が聞こえてきたわけではない。この腕が、耳が覚えていた。あの時は自分でも落ちないという揺るぎない確信があった。
「あぁ。気持ちいいなぁ」
仙道からそんな声が聞こえてきて、三井は思わずまた仙道の表情を盗み見た。気にしないとは決めても、自分のことを話しているとわかるとどうしても気になってしまう。
「こん時は気持ちよかった。落とす気がしなかったな」
「うん。そんな顔してる」
少し満足して顔を画面に戻す。
すぐに気持ちはあの時の自分へと帰っていった。3連続で3Pを決めたところで、相手チームのプレッシャーの方向性が変わった。
今見ている自分の方が焦る。が、画面の中の自分は冷静に周囲を見、パスに変えて得点に繋いだ。
それからは自分へのパス自体が通りづらくなった。対応が早い。山王にはイレギュラーに即対応できるだけの抽斗が、人的にも技術的にも無尽蔵にあるように思える。
画面の歓声が大きくなり、沢北と流川の対峙がクローズアップされた。
「…ここの部屋って」
「へ?」
思わず前のめりになったところを、仙道から今は関係のないような話を切り出されて眉が寄った。
「ここの部屋って出るんですよね」
「は?」
「オバケ」
「…え? ええっ?!」
思わず仙道へ顔を向けたところで歓声が一際大きくなり、慌てて画面に顔を戻すと既に線審がボールを宮城に手渡していた。
「あっ! あー…もう…! ってナニ? 今なんつった?」
「オバケが出るんです」
「はぁ?! …ウソだろ?」
「ホントです。たとえば今日みたいな雨が降ったときとか、ホラ」
仙道がいきなり三井が背にしていた壁を指さした。三井は思わずギャッと声を上げて座ったまま飛びのいた。
この年でと恥ずかしくて誰にも言ったことはないが、そのテの話は昔から大の苦手だった。
壁を指した本人は、三井のあまりに大きなリアクションにびっくりしたように動きと表情を止めていた。それを見た三井の顔がカーッと赤く染まる。
「かっ帰る!!」
まだ怖いのと恥ずかしさと怒りが混ざって三井は勢いよく立ち上がっていた。
「あ、待って、三井さん、ジョーダンですって」
「帰るっ!!」
慌てて立ち上がって、玄関に向かった自分の腕を仙道が掴んできた。
「離せよ!」
「でもまだ雨降ってますよ?」
「傘借せ!」
あ、ビデオ…と思ったが、どうせ中味は違う試合だった。
帰ってまた魚住に連絡すりゃーいいと考えて、玄関先に立て掛けてあった傘を勝手に掴んだ。なによりこのわけのわからない男の部屋から一刻も早く立ち去りたい。
「じゃあ山王戦ダビングしておきますから。明日にでも俺んち取りに来てください」
「なんでおまえん家なんだよ!」
「だってここの方が駅から近いでしょ。…あ、怖い?」
「だっ誰がっ!!」
「ジョーダンですって。じゃあ待ってますね。傘もそん時返して?」
飛び出した部屋の後ろからのんびりした声が追いかけてきた。誰が来るか!と三井は怒りに肩を震わせて、内階段を駆け下りた。