close to you
振り返った顔が少し笑っている。何か用かと思ってしばらく目を合わせていたけれど仙道は何も言ってこない。三井は眉を寄せて表情を誤魔化し、雑然としたまだ他人顔の室内を見渡した。
荷物はあらかた片付いた。業者は頼まずに軽トラを借りて、二人で荷物を運び入れた。お互い男の一人暮らしでさほどの量の荷物ではなかったが、それでも汗をかいて交代で風呂に入って、食事を作るのは今日はもう面倒でピザの宅配を頼んで、段ボールの箱を食卓に代用して缶ビールで乾杯した。狭い台所に並んでふざけながら押し合って洗い物を終えると、つけっぱなしのテレビは賑やかなバラエティーをながしているのに、部屋の周囲の静けさがどうにも気になった。少し開けた窓の外から遠くバイクの走り去る音が聞こえてくる。ここを内見したのは昼間だけでその時は随分賑やかに感じられたけれども、駅から少し歩く住宅街のせいか随分と静かになる。
一人で暮らしていた時はこういう時間何をしてたかな。
あいつは今頃なにやってんだろうなぁとか。メールを打とうとして携帯を睨みつけていたかもしれない。そしていつものように諦めて頭に入ってこないテレビを眺めていたのかもしれない。その本人は顔を動かさなくても視界に入るほど今はすぐ近くにいる。三井は思わず緩んだ自分の顔を擦って、あとで本棚に片付けようと積んだまま置いてあった雑誌に体を伸ばして取った。ガランとしたダイニングの壁を背に座り込んで読む気もなく雑誌を広げると、隣に仙道も座った気配があった。目をやると片膝を立ててその上に長い腕を乗せた仙道は何を言うわけでもなくただ薄く笑みを浮かべている。雑誌に夢中になっているフリをしても視線は外されることなく右の頬に痛いほどに仙道を感じる。
自分と一緒にいる時間は仙道は大体笑っていた。が、こういう時の笑い方は少し違う。唇が薄く開いていて、柔らかく撓んだ目元が優し気で甘くて、年下の男のこの目を見るだけで自分の方から近づいていって舐めてやりたいと三井は思う。膝の上に所在なく乗せられている腕は以前のようにすぐに自分の背中に回ってくるのだろうか。肘窩から手首に続く筋の真っすぐな流れに過去を思い出して、喉が鳴りそうになる。
他のことを必死に考えようとしてるとぽっかりと思い出したことがあって勢いよく雑誌を閉じた。
「そうだ、お隣さんとかに挨拶に行かねぇと」
「今から?もう遅いですよ。また明日にでも行きましょう」
言われてテレビの横の棚に置いた時計に目をやるともう11時近かった。
「…そっか」
膝の上の閉じた雑誌の表紙に目を落とす。もう一度開くほどには興味が湧かない。元々がそれほど読みたかったわけでもなかった。
「今日は疲れたろ。もう寝る…か」
寝る、のところで不自然に途切れた。今いるダイニングの続きに引き戸で仕切れば個室になる和室と、別に洋室があって、一応それぞれに部屋がある。仙道は和室で布団な!と一方的に宣言して、仙道に手伝わせて洋室に自分のベッドを運び入れた。チラリと目をやった和室にはまだ布団は敷かれてはおらず、仙道の私物がポツポツと置かれてあった。 端に置かれたドラムバッグはファスナーが半分開いていて、詰め込んできたらしい大量のTシャツがこぼれて見える。それを眺めていても三井はどこか居心地の悪さを感じずにはいられなかった。挨拶を夜中にするのは迷惑なことだ。当たり前を仙道は口にしただけでしないとは言っていない。
「そうですね」
反論するかと思った年下の男は予想外に素直に頷いて、三井より先に立ち上がった。それを目で追いかけると、背の高い天辺に乗っかっているはずの顔は蛍光灯の逆光で見えなかった。自分から言いだしたことなのに三井は立ち上がらずにいた。仙道は4,5歩でダイニングを横切って和室入って押入れを開き、使う布団をまとめて引き出して手早く敷いていく。眺めているうちにあっという間にその作業は終わって、頭を乗せる方向に枕が放り投げられて寝床が仕上がったところで、まだ座りこんでいた自分に気づいて仙道は声をかけてきた。
「三井さん?」
「うん」
三井は仙道と目を合わせないようにゆっくりと立ち上がった。
『一緒に住みませんか』
半年以上のブランクを置いて、何もなかったように声をかけてきたのは仙道だった。大学1年生の入寮義務期間を終えると、仙道は三井の部屋に真っ直ぐに来た。あっけにとられた三井が声を発する前に「期間限定で」、と目尻が下がった。
「俺は大学出てもバスケを続けたいと思ってる。三井さんも、だよね?そうすると東京にいるかお互いわからないでしょ。だから」
それまで一緒に。
口には出されなかった言葉を三井は受け取ったと思った。
つきあった期間は一年と少し。仙道が高校生の時はよかった。時間がないなりにお互いを思いやる言葉や行動がストレートに伝わった。が、仙道が大学に上がると同じ東京でも異なる大学で西と東に別れ、おまけに仙道は寮生活ですれ違いが多くなった。そこに同性同士であることの行動の制約や、自分の中にあった引け目に耐えられなくなって、三井が連絡を取ることがまずなくなり、そうすると仙道からの連絡も減り、疑心暗鬼が加速して三井は好きでもない人間と寝た。
今でこそバスケを続け大学にも通ってはいるが、自分は根本で変わることが出来ていない、と三井は思った。物事がうまく運ばなくなると悪い方向にばかり考えて、その先を恐れるあまりに大切なものを自分でぶち壊し始める。
実際に白状したわけではないが、前後して何かを察したように仙道からの連絡もなくなった。相手には困らなさそうな男だから、自分が壊す前にもう飽きていたのかもしれない、と三井は考えた。
逃避の手段として寝た女の子とは当然のようにうまくいかず、声をかけてきた男とも寝てみた。自己嫌悪が募るばかりの自分に相手は優しかったが、それがまた別れた仙道を思い出させて辛かった。なぜこんな自分に優しく接することが出来るのかわからなかった。優しい男に背を押される形で何度か仙道に連絡を取ろうとしたこともあった。
だが何と言う?違う人間とやってみたけどやっぱりおまえがいい?
言えるわけがない。
大学も2回生を終了間近のまだ真冬のように寒い朝だった。部屋に響いたインターフォンの音に反応はしても起き上がる気力がなかった。放っておけば2回鳴らされて大体は諦めて帰っていく。
「ええの?」
隣で寝ていた男が呟く。「いい」ぶっきらぼうに答えて三井は布団をかぶり直した。3回目を鳴らされていい加減苛立ってきたところで、ドアを叩かれた。こんなことをする人間はいない。少なくともかつて付き合っていた一人以外は。
「三井さん?」
裸足で土間に駆け降りた三井の耳に懐かしい声が聞こえた。
「なんで…おまえ、」
そしてドアの向こうから持ち掛けられた思いもよらない提案に三井は目を瞠った。
勢いよくドアを開けると変わらない男が鼻を赤くしてそこに立っていて、三井を見ると眉を下げて顔をくしゃっと笑わせた。
そこからワンルームの室内は見渡せたはずだった。が、仙道は何も言わず、「考えといてください」とだけ言って背を向けた。
「おまえ、なんにも聞かないな」
立ち上がった三井が口を開くと、仙道は手にしていた寝巻代わりのTシャツを布団の上に放り、和室から出て三井の前に近づいてきた。
「…うん」
仙道の顔が見られなくて顔を下に向けると、言葉が足りなかったと思ったのか仙道が続けた。
「これから毎日一緒にいるし」
「そうだな」
三井は目の前の固い肩に額をつけた。懐かしい匂いがする。風呂上がりと洗ったシャツと、この男の自身の匂い。
部屋は三井が1人で探した。都合のいい考えが夢で終わらないように、どこか現実感がないままに動き回った。目星をつけて連絡をするまで、もしかして仙道にいいように担がれているのかもしれない、と何度か考えた。付き合っていた人間は三井が何かを言う前に去って行った。1人になり仙道からも去られる可能性を考えて、それならそれでいい、と思った。寧ろその方が自分の中のどうしようもない甘えや、情けない未練を断ち切れるのではないか。仙道がそんなことをする男ではないとわかっていながら、これから二人でやり直す不安よりも自分が惨めに捨てられる未来を想像して、自分がしでかしてきたことに対する断罪を求めていたのかもしれない。
どこでもいいです、と言った言葉通り、契約を済ませて鍵を受け取った三井が連絡すると、拍子抜けするほどにあっさりと仙道は引越してきた。顔を合わせたのは仙道が訪ねてきた朝も入れて今日で3度目。
そういえば。
どんな関係でいるのかとも話し合ってはいなかった。ヨリを戻したいと仙道は言葉にしたわけではない。ここに二人で住むのも三井が大学を卒業するまでの期限つき。それ以降はどうするのか。どうなるのか。この半年間を思い出し、三井は仙道の肩に押し当てていた額を離した。
「わるい」
離した顔をいきなり両手でがしっと挟み込まれた。
「いってぇっ!」
大きな手で挟まれて力尽くで上を向かされて、三井は戸惑う前に頬を張られたような痛みに思わず声を上げた。
「あんたもなにも聞かないじゃないか」
目の前の仙道の顔は笑ってはいなかった。怖いような、今までに見たことのない強張り固まった顔。
「なんで連絡して来なかったんだとか。今まで何してたんだとか!あんたは連絡くれないし、他の奴と寝てるし俺のこと…!」
仙道は言葉を切った。出した大きな声を後悔するように勢いがなくなり口を食いしばり、視線を外に流す。
「もう…どうでもいいの…?って」
初めて聞く仙道の震えた声。三井は頬を挟まれたまましばらくその顔を見つめた。自分がこの男を傷つけることが出来るのだと、それをやってしまっていたのだと、自分の痛みに捕らわれて気付くこともなかった。
三井は腕を上げて自分の顔を掴んでいた仙道の力のなくなった両手首を握ってゆっくりと開いた。
「…聞きたい。聞きたかったけど…怖かった。俺、こんなだし」
正直に吐き出すと呼吸が楽になった。胸の奥は相変わらずつかえたように痛むけれど。
仙道は唇を横に食いしばって端を震わせていた。
「おまえに触れてもいいか?」
仙道は三井を見つめ、小さく頷いた。瞼を降ろした拍子に涙が一粒頬を伝わった。その頬に手のひらをあてて唇を寄せる。軽く触れているだけでじんわりと暖かさが体を満たした。仙道は口づけを返しては来なかった。ただされるがままに受け入れて、三井が唇を離すと両腕を三井の背に回し、しがみつくように三井の体を抱きしめた。
けたたましい音に脳天を蹴られて目を覚まし、慌てて枕元を手で探り、触れる物がなくて机の上にあるそれに気づいて三井は舌打ちをした。脇にある半分敷布団から落ちている大きな塊は当たり前のように ピクリともしない。もう一度舌打ちをして三井は布団から起き上がった。
寒い。
何も着ていない裸の上半身が震え、今起き上がったばかりの寝具に三井は倒れ込み暖かい布団を肩まで引き上げた。が、鳴り続ける目覚まし時計は止まってはくれない。このまままた寝に落ちるには難しい音量で、三井は腹が立って何事もないように寝続ける大きな塊を蹴った。頭は枕に乗って三井の隣に合ったが、蹴った足は掛布団は乗ってはいるものの敷布団の外で、畳が指に触れた。三井はため息をつき、掛布団をいやいや体から剥がして立ち上がり、目覚まし時計を止めに机まで歩み寄った。小学生が持っていそうな年季の入った文字盤の大きなそれは相変わらず頭を割りそうに喚きたてていたが、それでも起きられない仙道も相変わらずだった。買い換えろ、と何度か言ったこともあったが、まだこのままだったんだな、と少し労るように目覚まし時計の上についているプラスチックの突起を押してアラームを止めた。振り返ってもまだその大きな塊には変化が見られない。周りには脱ぎ散らかしたシャツだのスウェットだの丸められたティッシュだのゴムの小箱だのが散乱している。片付け途中のドラムバッグも夕べのまま手がつけられずにそのままだった。三井はそれらから目を逸らし大声を出した。
「ほら、起きろ。ってかさみーだろ。風邪引くぞ!」
畳に落ちた下半身をどうにか布団の上に引き上げようとするが、足だけでもとにかく重い。それがふいに軽くなって三井は勢い余って布団に頭から突っ込んだ。
「っぶ!てめ、起きたんならさっさと!」
下から伸びてきた腕に巻き込まれて、最後までいうことはできずに三井の体は仙道の腕に囲まれてまた暖かい布団の中にあった。
「う~まだ寒いね」
密着した体は暖かく滑って気持ちいい。そのまま抱きついて寝てしまいたかったが、目覚ましが鳴った事実を仙道に教えてやる。
「今日も大学あんだろ。起きろよ、ほら」
「もうちょっとこのまま…」
伸し掛かられてくると今度は三井の体が布団から落ちそうになる。体の大きな男二人では普通の布団は狭かった。背が畳についてひやっとする。腰を寄せると仙道が気づいて背中に腕が回った。
「シングルベッド買おうかと思ってたけどダブルにしようかな」
「おまえそれここに置くの。この部屋ベッドだけで埋まるぞ」
6畳ほどの部屋にはすでに仙道の机も置いてある。ここにダブルなんて置いたら歩くスペースもなくなる。
「だって三井さんが布団から落ちちゃう」
「おまえが落ちときゃ俺は無事だ」
「え~」
「ってナニやってやがる!」
胸に吸いついた仙道の頭をペシッと平手で殴る。
「んー起きちゃった」
「起きねぇとまずいだろ」
「違う。下の方」
「オヤジか」
寝床が暖かくて仙道が子供みたいで触れ合う肌が気持ちよくて、このままだと本当に流される。
「サボりはマズイ。高校と違うだろ」
耳元に囁いてやると、不満そうに唇を尖らせた仙道の顔がようやく胸元から離れた。両腕をついて仙道が起き上がると肌が震えて、それは寝具の隙間から入った朝の空気のせいだと三井は考えた。軽くキスをしてきた顔が甘く崩れる。布団から這い出して、大きく欠伸をする。腕を大きく振り上げて伸びをしながら真っ裸で歩く背の筋肉が捩れる。仙道は何もかも変わらないように見えて、ならば変わったのは自分なのだと三井はもう一度布団を引き上げた。仙道の匂いの中に包まれていれば寒さは感じられない。
「三井さんはー?」
「俺は3限からー!」
ダイニングから聞こえてきた問いに怠惰に声だけ張り上げて答える。ブーブーと不平を鳴らす声に笑みが湧き出る。浴室へ通じるドアの閉まる音がしてから10数えて三井も起き上がった。朝とはいえまだ日の射さない薄暗い部屋の中で、検討をつけながら下着やシャツを拾って着けていく。寝床については熟考が必要だな、と考え部屋を見渡して、本当に仙道と一緒に住むのだとようやく安心することのできた自分に気付いた。あ、隣へ挨拶、とまた思いついたが、一人で回ったっていい。
朝飯くらいは用意してやってもいいだろう。昨日買い置いた食材で自分に作れるものを頭に並べて、三井は台所へ向かった。