knock on wood
「…あいつ、すげーな…!」
おし殺したような呟きが隣のロッカーから聞こえてきて、仙道はユニフォームを脱ぐ手を止めた。今日の練習試合を思い返し、少し考えて自分にやたらと挑みかかってきた寡黙な一年の顔が浮かんだ。
「…流川?」
言葉を返されるとは思っていなかったのだろう、三井の驚いたような大きな瞳が自分を見上げてきた。が、すぐに破顔し「そう、そいつ!」と大きく何度も頷く。
「あれで一年かよ。おまえと当たっても遜色なかったよな!」
「え~そうですか~?」
「技術もセンスもスピードもある。タッパも一年でもうあれだけあるしそれでいてなによりアグレッシブでハングリーだ」
仙道は言われて再度試合を思い出すことなく、目の前の3年の先輩を眺めた。珍しく随分な入れ込みようだな、と思った。自分と比べられたことに苛立ちを覚えたわけではないが、意地悪な気持ちがなんとなく浮いてきてそれを抑えることなく口に乗せた。
「惚れた?」
三井はそれまでの笑顔を瞬時に解いて仙道を睨み上げた。言い返してくる言葉を仙道は着替えの手を止めたまま待っていたが、三井はロッカーに向き直り乱暴にタオルを投げ入れた。
2年のブランクを開けて最近戻ってきたばかりの先輩の一年生の頃を自分は知らない。中学MVPだということや田岡監督のリクルートに成功した三井の自慢話は耳にタコができるほど聞かされてきたが、仙道は自分の目で見たものしか信じなかった。ケガと家庭の事情が重なったとか。自分が陵南高校に入学したときには既に三井の姿はバスケ部にはなく、学校をサボり不良仲間と遊び歩いているという話しだった。田岡監督が月に何度か三井の家を訪問しているのは知ってはいたが、仙道は己でバスケを捨てた者を無理に連れ戻す必要はないと思った。なにより甘えている。それだけのものを持っていてどんな事情があったか知らないがドブに捨てるというのなら好きにさせておけばいいのだ。
仙道が初めて三井を見たのは休日の公園の隅のバスケットコートだった。練習と用事のない休日、釣りをする気分でもない日は、休部していた福田に付き合ってそこで1on1をして過ごした。越境入学をして一人暮らしの自分にはいい暇つぶしになったし、周囲に近づいてくる女の子達を捌くにもいい口実になった。勿論自身の鍛錬と福田の様子を伺うためにも。ふいにボールを持つ手を止めた福田の視線を追うと、フェンスの外に背の高い長髪の男が立っていた。あまりまともとはいえない外見からしてはじめは絡んででもくるのかと福田は身構えたようだが、男はどことなく放心したような眼をしてこちらを眺めていた。が、気づかれたことを悟ると苦虫を噛み潰した、という形容詞そのままに顔をくしゃくしゃに潰して踵を返した。その後から見慣れた顔が走ってくると思えばそれは田岡で、それで仙道はその長髪が三井寿であることを知った。
それから間もなくして三井は突然バスケ部に戻ってきた。ある日部室のドアを開くと見慣れない顔がおり、それがあの日公園で見た男だとは仙道はすぐには気づかなかった。あっけに取られた、が正直な感想。言葉もなく黙って不必要なほど長い時間顔を眺めてしまった自分を三井はどう思ったのか。三井も言葉はなく、目を反らすように肩をいからせて部室を出ていった。
公園で見た長髪は短く切っており、固い顔で全部員の前で挨拶する顔は相応の覚悟をしているようでもあったが、前後して復部した福田とは違い、それまで不良として認識されていた三井に周囲は戸惑いを隠せなかった。部内の空気が悪くなる。控えの層は厚いし、これまで練習を耐え抜いてきた自分達の指揮が下がる。気が強くそれでいて周囲に細かく気配りのできる越野がそう田岡に直言した部屋にちょうど入ってきた三井は、周りが気まずげに顔を反らす中、やはり何も言わず練習の準備を整えると外へ出ていった。
黙々とボールを拾いゴールの籠を揺らす。乾いた音が静まりかえった体育館に響いていた。その日仙道は仲間の誘いを断り部室で適当に時間を潰して再度体育館に行くと、思っていた通りの姿がそこにあった。きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれていくボール、バスケットボールの教本にでも出てきそうなブレのないフォームを黙って見つめながら、それまで薄っすらと思い描いていたことを実際に行動に移してもいいか、な?と仙道は寄りかかっていた扉から身を起こした。三井が練習後に居残っているのは部員全員が知っていて、だがそれには触れる者は誰もいなかった。使用したハーフコートの清掃と鍵の当番を三井はきちんと引き継ぎ行っている。問題がなければ、今更入ってきてどこまでやるのか、やれるのか部員達は遠巻きに様子を伺っているところがあったが、仙道の思惑はまた別のところにあった。
「相手しましょうか。1onとか」
突然体育館に響いた仙道の声に驚いたように振り返った三井は何か言いかけたが、それが言葉になる前に体が揺れた。驚いた仙道が飛びだす前にもうその体は体育館の床に蹲っていた。
「三井さん?!大丈夫ですか?」
三井は薄く目を開くが言葉が出ない。体を楽な姿勢に直してやり、仙道は自分のカバンに入ったスポーツドリンクを取りに走った。
「…悪い」
三井の声に仙道は目を通すこともなく開いていただけの部誌から目を上げた。
「大丈夫ですか?立てます?」
「立てる」
小さく呟いて何気ない振りをして口を押え立ち上がる。まだ吐き気がするのだ。が、仙道の方は見ずに、決められた清掃をするつもりなのか三井は倉庫の方角に歩き始めた。これまでも三井は練習中も度々倒れた。ただでさえ厳しさでは名高い田岡のシゴキだ。在籍し続けている部員にも脱落する者は珍しくないのに、2年のブランクは相当にキツいだろう。見られたくないだろうな、とは思いながら放っておくわけにもいかなかった。
「掃除はしときました」
背中が揺れて止まった。
「…悪い」
同じ短い言葉を返しまた歩き始める。取り付く島もない感じ。が、しばらくしてまた足を止めて、今度は仙道を振り返った。
「ありがとう。もう帰っていいぞ。後は閉めとく」
仙道はかけようとした言葉を飲み込んだ。三井が笑っていた。いや、正しくは口の端を巻き上げただけかもしれなかったが、確かに笑いに属する表情に違いなかった。仙道は長い足を使って一息に距離を縮めた。
「な、なんだよ」
「俺も着替えないと」
「…ああ…」
三井は気が抜けたように仙道の練習着を見、仙道の接近で一気に険しくなった眉を解いた。なんとなく気が立った猫みたいだな、と先輩に失礼なことを考えながら隣合って歩きはじめた三井から警戒されないようにほんの少し、気づかれない程度の距離を取った。
元不良の中学MVP。ただでさえ扱いの難しい先輩にこの状況。どうやって切り出したものかな。これは苦手だなーと思いつつ、仙道は頬を指で掻いた。
「俺、この頃やっとバスケがおもしろいんです」
少し迷って、だが正直に切り出せば思った通りに三井は驚いた顔をして振り向いてくれた。じわじわと驚きからまた険しくなっていく眉間を見て焦り、やはりこの人には正攻法でいくほうがいいのだと直感的に悟って仙道は眉を下げた。
「あなたに聞いてもらえるとうれしいです」
三井は戸惑ったように瞬き、それでも足を止めて仙道に向き直った。
「場所を変えましょうか」と誘った、駅までの通学路の途中、踏切を渡った突き当りの海への防波堤に、コンビニで仕入れた鳥カラ串を手にとりあえず二人は落ち着いた。周囲は既に暗いが海辺を散策する人通りはぽつりぽつりと絶えない。波の音は大きく、だが二人の間の静寂を妨げない。東京から越してきて、仙道が気に入ったことの一つだった。ずっと聞いていると肩に入っていた力が抜けて、そでまでもやもやと雲のように漂っていた思考をかき集めてそれが形になって自分に戻ってきてくれる気がする。湘南に越してきてから教わった釣りを気に入った理由の一つでもあった。
自分も陵南に推薦で入学したこと。それなりに自分個人の技術には自信があってそれでチームを引っ張っていく気でいたこと。1年で思った通りの結果が出せず2年で薄っすらと理由が見えてきて。
「気が付かなかったけど。やっぱり天狗になってたのかなあ」
それまで相槌すら打たずに黙って聞いていた三井が顔を上げた。月の淡い光を反射する色の薄い瞳を見て、あれ、余計なこと喋ってるな自分、と仙道は思ったが口は止まらなかった。
「それがあなたを見ていて確信できたと思うんです」
「何を?」
「チームプレー」
一言いえば、三井は目を海に戻し頷いた。
個人の技量である程度まではチームを引っ張っていける。だがそれからは?前年思っていたより手前で敗退した理由はそれしかない。自分の動きを100%とは言わず8割がたでも予測できるプレイヤーがいたら。予測し実際に行動に移すことができ、いるべき場所でパスを受け思う通りに動いてくれる仲間がいたら。今のメンバーに通じないわけではないが、コンマ1秒の遅れが失点に繋がり敗北に導く。練習やディスカッションであるレベルまではいけるが、それからはセンスだ、と仙道は考える。練習では得ることのできない個々の才。それを口にはできないエース。復帰した三井のプレイを見たとき、仙道はこれは利用できる、と単純に考えた。3年ではあるが2年のブランクがあり、部員に遠慮のある元不良。それが中学時代、自分と似たようなオールラウンダーであったとあれば更に申し分ない。しかも特別なオマケとして外からも打てるとくれば物ぐさな自分も腰を上げざるを得ない。だが自分の言葉に頷いた三井に仙道が感じたことは、利用できることではなく理解してもらえたことへの素直な喜びだった。
「正直今の俺がおまえについていけるとは思えないけど。カバーはできると思う。なんていえばいいのかわからないけど、通訳?的な?」
瞬間仙道は鳥串をテトラポットに飛ばし、三井を両腕に囲いこんでいた。腕の中でじたばたと暴れる三井に気が付き、腕を解く。赤い顔をして自分を睨み上げてくる三井に仙道は久しぶりに心からの笑いが弾けた。
「でもなぁ、おれ」
続かない言葉に促すように隣の三井を見つめる。しばらく待って口を開かない三井に変わって指摘した。
「出戻り?」
「おまえ…!」
三井は拳でもあげそうな勢いで仙道を振り返り、目が合ってそれから力なく眉を下げた。
「どう思われてるか知ってるし、わかってて復帰した。まずは地道に信頼してもらう努力しないとだな」
「大丈夫ですよ、三井さんなら」
「おまえなあ…!」
呆れたように三井が喚く。
「おれとまともに話したの今日がはじめてだろ。おれの何知ってるってんだよ。調子いいんだよ、おまえ」
「おれは好きですよ。三井さん」
三井は今度は絶句して顔を赤くし、唇を尖らせて顔をまた海へと向けた。実際に話してみれば三井は無口ではないし、初めに口を巻き上げて笑いとわかったような無表情でもない。どちらかといえば感情を隠さずストレートに出す裏表のなさそうな人間だとすぐにわかる。自分のように建前と本音の異なる腹芸などできそうもなく、そしてそんな三井を知れば嫌う人間はいないだろう。まるで子供のような表情の豊富さは端正な顔立ちも相まって後輩で男の自分の目から見てもかわいくすら見える。
「…ホント調子のいいヤツ…」
仙道は眉を下げることでそれに答えた。四月にしては暖かい潮風が気持ちよかった。言葉の途絶えた中でも心地いいのは釣り以外に久しぶりで、帰宅を促す言葉を仙道は飲み込んだ。
チームの中心である仙道が打ち解けたように三井に接すれば、ほかの部員たちもゆっくりとだが声をかけてくる。主将である魚住とは元々が知っている者同士であったし、越野も後にひきずるタイプではない。三井の本気を見ればつっけんどんではあっても傍から見ればすでに普通の先輩後輩であった。仙道が気づいた時にはコート内で心から楽しそうに笑い、伸びやかにプレイする三井がいた。インターハイ予選に近い時期、それに安心したのが半分、複雑な気分も半分。この複雑さがどこから来るのだろうと考えたが、特にバスケには必要もないことのように感じられたので深く考えることはやめた。
福田も復帰して使える口実もなく、面倒くさくなりはじめた彼女との付き合いに貴重な休日を使って行きたくもない観覧車に乗った帰り道。付き合いはじめて半年、既に飽きてきたというほどひどい人間ではないと自分では思うが、スラリとしたクールな外見で魅かれたほどの内面がなかった相手に、男の身勝手さとは知りながらがっかりもしていた時期だった。すっかり日も暮れて明日からまた朝練もあるし、どうやって怒らせることなく今すぐ家に帰れるか、それとももう怒らせて面倒なく自分を振るように仕向けようかと仙道が考えていると、前方に脇道から飛び出してきた人影があった。それを追うようにしてもう一人。逃げた人間に無理にキスしようとして、突き飛ばされて揉み合っている。これは自分たちと似たようなカップルのケンカかなーと眺めていると、その逃げようとしている人間は見知った部の先輩だった。あの途中復帰の元不良。これはきまずいな、と女の子を促して道を変えようとした時、その子が嫌悪も露わに声を上げた。
「やだ、ホモの痴話ゲンカー??」
仙道が驚いて見返せば追ってきていた人間も確かに男に見えた。甲高い女の子の声に揉みあっていた二人も気づき、追ってきた人間は舌打ちして元来た道を走っていった。残された三井と自分は目が合ったと思った。街頭の光も十分でない暗い中だが確かに互いを認識した時、三井は弾かれたように走り去っていった。
2
「三井さん」
「…おう…」
初めて言葉を交わした日から、部員に溶け込めるようにと仙道は三井を誘って一緒に帰っていた。みんなで食事をして帰るときも仙道が無理に三井を引き留める体を作り、それがいらなくなった今でも当然のように声をかけた。いつもの屈託のない顔が向けられず、仙道はやはり昨晩見たのが三井であったと確信した。慣れた道を並んで歩きながら、いつもとは違って口を開かないのはわざと。仙道から敢えて聞き出すことはしなかったが、三井は諦めたように口を開いた。
「見てたんだろ?」
返事はしなくてもそれが肯定の意味に取られることはわかっていた。
「悪かったな、彼女と一緒のとこヘンなモン見せちまって」
「…いえ」
仙道はあれから彼女から振ってもらうことはせずに、自分から振った。「ひどいこと言う人だったんだね」と笑って、三井たちのことを利用して別れを告げた。使えるものは使わせてもらう。そんな自分がたまに嫌になるが、誰も本当のことを知らなければ傷つかない。いや、この場合知ったところで三井たちも元カノも自分のことで大変だろうからそこは気にはしないだろう。
「高校に入った辺りから気づいてたんだ。女とやってもみんなが言うほどおもしろくねぇし」
打ち明け話を聞いても特に何の感慨も浮かばなかった。意外だな、とかオネエっぽくないのにな、とか、あれオカマとゲイは違うんだっけ?とか。情報として正確であるのがわかれば、もう仙道には関係のない話だった。
「嫌だったら部は辞める」
「え、どうして?!」
だから思わず大きな声が出たのは本音だった。その声に三井も驚いたように仙道を見返した。
「え、だってヤだろ?」
「なんで?」
「なんでっておまえ…」
驚いてというよりは困ったように見上げてくる顔を見て、この人は抱かれるほうなのかな、とつい先刻、自分には関係がないと切ったことも忘れて考える。
「嫌じゃねえの?」
「んー、いや…ではないですねぇ。別にいいんじゃないですか?」
「…そう…か?」
「そうですよ」
そんなことぐらいで三井に部を辞められることの方が嫌だ。だから仙道にとっては『そんなこと』だった。
「…そっか」
少し嬉しそうに足元を見て、口を綻ばす三井が不思議だった。そんな三井を見て自分も少し嬉しくなるのはもっと不思議だった。
そして湘北との練習試合後。
「だって三井さん、あんまりストレートに人を誉めないじゃないですか。だから好みなのかなーって。いって!」
部室を出た途端に頭を平手で叩かれた。言い訳をすると更に強く殴られた。
「バスケ関係でそんな奴は作らねぇ。拗れるのはまっぴらだ。おれはバスケがしたくて部に戻ったんだ。壊すような真似はしたくねぇ」
もっともな言い分だ。おまけに男らしい。今日の試合は考えていた以上にパスが通った。みんなの動きが変わってきたのを肌で感じる。俯瞰して掴まなければならない情報が格段に増えた。大変だがやりがいがある。思った以上に湘北が食らいついてきたのは誤算だったが、インハイ前、練習試合で知っておけてよかった。三井はフルで出場はしなかったが、その加入はやはり大きい。三井の身のすくような3Pシュートが脳裏に蘇り、その三井の言葉を聞けば雲がかかったように試合のことを思い出せなかったことが嘘のように頭の中が晴れた。
「わかりました。すみません。もう言いません」
「おう」
三井も晴れたように笑う。
笑ったのに。
「あいつと1on1した!」
「はぁ?」
そのたった1週間後にはまたこの先輩は突拍子もないことを言い出す。
「あいつって…あいつ?」
なんとなく予想がつきそうで仙道は顔を歪めた。
「なんだよ、そんなんじゃねぇよ。ヘン顔してんなよ」
「どうしてまた」
脛に蹴りをいれてくる足を器用によけながら、仙道は探りを入れた。三井も特に隠すでもなく話してくる。
「おまえと初めて会った公園で…あ」
覚えていたのか、と思う。互いに名乗ったわけではないし、遠目に目が合っただけだと仙道は思っていた。気まずげに言葉を探す三井に助け舟を出す。
「会いましたよね。三井さんロン毛だった」
「うん…。まあその公園でさ、シュートの練習できるかなーと思って行ったら流川がいてさ。そんで勝負しろっての。おれのこと覚えてたんだなー。ちゃんと三井さんって名前まで」
その嬉しそうな顔が気に入らず仙道は半目になった。三井と親しくなってわかってきたことだが、褒められることにとてもこの人は弱い。あの無愛想そうな他校の一年坊が三井のことを誉めるとは思えないから、この場合は「すごいヤツが自分の名前を憶えていた」ことにポイントがついたのだろう。
「盛り上がって気が付いたら日が暮れててようー…なんだよ?」
返事をしてこない仙道に苛立ったのか三井が顔を覗きこんでくる。それに仙道はため息をついた。
「そんで朝練から倒れてちゃ練習にならないんじゃないですか?」
「なんだよ、おまえもおれを口実にサボってるくせに」
三井は借りていた肩を小突いて睨み上げる。三井は練習でまた倒れ、仙道は三井の面倒をみるという名目で隣り合ったパイプ椅子に並んで座っていたが、目が回るらしい三井はきちんと座ることができず、かといって寝ていることは断固拒否するので仙道が自分の肩に寄りかからせていた。
「ん、もう大丈夫だ」
よし!と気合をいれて立ち上がる。仙道はその背中に「バスケ関係ではそういうの作らないんでしょ?」と声をかけようとしてやめた。三井がゲイであることを自分が気にしないというのであれば、それも余計なお世話であることはわかっていたし、その言葉が逆に三井を意識させるようなことになっても困るかなと思った。困るというのは流川がライバルとなるだろう他校チームの人間だからか、仙道も認めざるを得ない才能の持ち主だからか、それとも他の理由からなのかな。どうなのかな。仙道は頭を傾げたが碌な答えに繋がらなさそうで考えることをやめて、真っすぐに伸びた背中を追って立ち上がった。
3
「湘北、あがって来たんだな」
練習後の部室内。福田の背に寄り掛かったままインハイ予選の対戦表を見ていた三井が口を開いた。その偉そうな態度だけ見ていれば一年から叩き上げてきた3年生そのままだ。魚住だって疲れ切った練習後にそんな迷惑な真似はしない。が、福田も迷惑そうにしながら三井に文句を言うでもない。いつの間にやら部に馴染みまくった様子に、自分が気を遣わなくてもいずれ三井は自分で溶け込んでいたのではないかと仙道は小さくため息をついた。
「宮城もいます」
三井を受けて越野が応える。それに三井はピンとこなかったようで頭を越野に向けた。
「だれって?」
「2年のPGっすよ。こないだなんでか来てなかったけど、今回加わるんなら更に侮れなくなるな」
意外な顔をして自分を見る目が多いことに気づくと、越野は声を荒げて小鼻を広げた。
「ま、チビだし敵じゃーねーけどな!」
「そっか…。更に侮れない、と。…どーしたもんかなぁ…」
からかって言葉尻を捉えたようでもない常とは違う様子の三井の呟きに似た小さな声に、越野は中途半端に勢いを削がれて問うような視線を仙道に送った。おまえ仲いいだろう、どうしたこの子供先輩は?とでもいうような。仙道はそれを肩を竦めてやり過ごした。どうにも部内ではこの頃三井番として面倒を引き受けさせられている気がして納得いかない。とはいえ自分も気にならないでもない。気にならないというより、気になる因子はある。
あれから流川との1on1は途切れておらず、約束をするでもなくコンスタントに続いていたことは三井からちょくちょく聞いていた。三井もわからないが、流川も更にわからない。やめさせるという選択肢は消したものの奥歯に刺さりっぱなしの棘のように忘れられることもなく仙道の脳の隅に居座っていた。
二人きりになったいつもの帰り道。日が落ちてもすっかり暑さが居座った外気はじっとりと身に纏わりつくようで、三井の首にもうっすらと汗を浮かばせていた。見るとはなしに目につくそれから無理やり視線をはずし、仙道は三井に直球を投げた。
「流川とやりづらい?」
「はぁ?!」
不良の名残が抜けない威嚇するような目つきを投げてくるがどことなくいつもの勢いはない。仙道はさらに畳みかけた。
「仲いいでしょ?」
「別に友達ごっこやってんじゃねぇ。そんなこた関係ねーよ」
唇を尖らせて下を向く。これは何か他にあるな、と口を開かず待っていると、三井は仙道と反対の方向に顔を背け下を向くという仕草を2,3回してみせた挙句ぶっきらぼうに口を開いた。
「やっぱ関係あるかな。勝ったら付き合ってくれって言われた」
「何に?」
「ってくるよな、やっぱり!」
「え…?」
え?
どういうことそれ?流川ってそうなの?三井さん自分ゲイって言ったの?いやいや、そうじゃなくてそういうことじゃなくて。三井は三井で「大体勝ったらってなんだよ」「罰ゲームかよ」等々ブツブツ言っている。
「どういうことなのそれ?」
「告られた」
三井は仙道から顔を背けたままボソッと口を開いた。仙道は少し下にある背けられた顔に繋がる、ついさっき視線をもぎ離した首筋に目を落とした。そのまま少し自分の顔も下げて鼻を三井の首にあて、スンと匂いを嗅いだ。
「って、てめっ!」
気がついた時には左頬を殴られ、三井は仙道の手の届かないところまで飛びすさっていた。
「なにしやがんだてめっ!」
「や、ミョーなフェロモンでも出てるのかなーと」
じんじんと響いてきた頬を押さえながら真っ赤な顔の三井を見つめる。どうして自分があんな真似をしたのかわからないが、確かに殴られても仕方のない行為だった。でも謝りはしない。
「それで?なんて答えたの」
落ち着いた仙道の表情に三井も現実に引き戻された顔をして向き直った。
「おまえが勝ったらなんでもしてやるよって言った」
「ええっ?!」
今度は仙道があっけにとられて三井を見つめた。なに言ってんのこの人?勝ったら付き合う?ってかなんでもしてやる?流川と?流川に?勢いでナニ言っちゃってるの?! …いや、そうだこの人。そういう人だった、この人は。
仙道はハーっと深く溜息をついた。この人と一緒にいるようになってからため息をつく回数が格段に増えたような気がする。自分の、というかチームのためにこの人を利用しようと思っていたはずなのにいつの間にか自分が振り回されている。
「だって勝つだろ?」
気付けば三井が真っ直ぐ自分を見上げていた。
「おまえ、勝つだろ?」
その色素の薄い瞳が夜なのに光を反射していて、ああ、今日も満月だったのかな、と思う。
「勝ちますよ」
流川の思惑とか。実際のところ三井が流川をどう思っているのかとか。それよりも今はその瞳が真っ直ぐに自分を見ていることがとても仙道には重要なことに感じられた。
「俺が勝ちます」
おし殺したような呟きが隣のロッカーから聞こえてきて、仙道はユニフォームを脱ぐ手を止めた。今日の練習試合を思い返し、少し考えて自分にやたらと挑みかかってきた寡黙な一年の顔が浮かんだ。
「…流川?」
言葉を返されるとは思っていなかったのだろう、三井の驚いたような大きな瞳が自分を見上げてきた。が、すぐに破顔し「そう、そいつ!」と大きく何度も頷く。
「あれで一年かよ。おまえと当たっても遜色なかったよな!」
「え~そうですか~?」
「技術もセンスもスピードもある。タッパも一年でもうあれだけあるしそれでいてなによりアグレッシブでハングリーだ」
仙道は言われて再度試合を思い出すことなく、目の前の3年の先輩を眺めた。珍しく随分な入れ込みようだな、と思った。自分と比べられたことに苛立ちを覚えたわけではないが、意地悪な気持ちがなんとなく浮いてきてそれを抑えることなく口に乗せた。
「惚れた?」
三井はそれまでの笑顔を瞬時に解いて仙道を睨み上げた。言い返してくる言葉を仙道は着替えの手を止めたまま待っていたが、三井はロッカーに向き直り乱暴にタオルを投げ入れた。
2年のブランクを開けて最近戻ってきたばかりの先輩の一年生の頃を自分は知らない。中学MVPだということや田岡監督のリクルートに成功した三井の自慢話は耳にタコができるほど聞かされてきたが、仙道は自分の目で見たものしか信じなかった。ケガと家庭の事情が重なったとか。自分が陵南高校に入学したときには既に三井の姿はバスケ部にはなく、学校をサボり不良仲間と遊び歩いているという話しだった。田岡監督が月に何度か三井の家を訪問しているのは知ってはいたが、仙道は己でバスケを捨てた者を無理に連れ戻す必要はないと思った。なにより甘えている。それだけのものを持っていてどんな事情があったか知らないがドブに捨てるというのなら好きにさせておけばいいのだ。
仙道が初めて三井を見たのは休日の公園の隅のバスケットコートだった。練習と用事のない休日、釣りをする気分でもない日は、休部していた福田に付き合ってそこで1on1をして過ごした。越境入学をして一人暮らしの自分にはいい暇つぶしになったし、周囲に近づいてくる女の子達を捌くにもいい口実になった。勿論自身の鍛錬と福田の様子を伺うためにも。ふいにボールを持つ手を止めた福田の視線を追うと、フェンスの外に背の高い長髪の男が立っていた。あまりまともとはいえない外見からしてはじめは絡んででもくるのかと福田は身構えたようだが、男はどことなく放心したような眼をしてこちらを眺めていた。が、気づかれたことを悟ると苦虫を噛み潰した、という形容詞そのままに顔をくしゃくしゃに潰して踵を返した。その後から見慣れた顔が走ってくると思えばそれは田岡で、それで仙道はその長髪が三井寿であることを知った。
それから間もなくして三井は突然バスケ部に戻ってきた。ある日部室のドアを開くと見慣れない顔がおり、それがあの日公園で見た男だとは仙道はすぐには気づかなかった。あっけに取られた、が正直な感想。言葉もなく黙って不必要なほど長い時間顔を眺めてしまった自分を三井はどう思ったのか。三井も言葉はなく、目を反らすように肩をいからせて部室を出ていった。
公園で見た長髪は短く切っており、固い顔で全部員の前で挨拶する顔は相応の覚悟をしているようでもあったが、前後して復部した福田とは違い、それまで不良として認識されていた三井に周囲は戸惑いを隠せなかった。部内の空気が悪くなる。控えの層は厚いし、これまで練習を耐え抜いてきた自分達の指揮が下がる。気が強くそれでいて周囲に細かく気配りのできる越野がそう田岡に直言した部屋にちょうど入ってきた三井は、周りが気まずげに顔を反らす中、やはり何も言わず練習の準備を整えると外へ出ていった。
黙々とボールを拾いゴールの籠を揺らす。乾いた音が静まりかえった体育館に響いていた。その日仙道は仲間の誘いを断り部室で適当に時間を潰して再度体育館に行くと、思っていた通りの姿がそこにあった。きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれていくボール、バスケットボールの教本にでも出てきそうなブレのないフォームを黙って見つめながら、それまで薄っすらと思い描いていたことを実際に行動に移してもいいか、な?と仙道は寄りかかっていた扉から身を起こした。三井が練習後に居残っているのは部員全員が知っていて、だがそれには触れる者は誰もいなかった。使用したハーフコートの清掃と鍵の当番を三井はきちんと引き継ぎ行っている。問題がなければ、今更入ってきてどこまでやるのか、やれるのか部員達は遠巻きに様子を伺っているところがあったが、仙道の思惑はまた別のところにあった。
「相手しましょうか。1onとか」
突然体育館に響いた仙道の声に驚いたように振り返った三井は何か言いかけたが、それが言葉になる前に体が揺れた。驚いた仙道が飛びだす前にもうその体は体育館の床に蹲っていた。
「三井さん?!大丈夫ですか?」
三井は薄く目を開くが言葉が出ない。体を楽な姿勢に直してやり、仙道は自分のカバンに入ったスポーツドリンクを取りに走った。
「…悪い」
三井の声に仙道は目を通すこともなく開いていただけの部誌から目を上げた。
「大丈夫ですか?立てます?」
「立てる」
小さく呟いて何気ない振りをして口を押え立ち上がる。まだ吐き気がするのだ。が、仙道の方は見ずに、決められた清掃をするつもりなのか三井は倉庫の方角に歩き始めた。これまでも三井は練習中も度々倒れた。ただでさえ厳しさでは名高い田岡のシゴキだ。在籍し続けている部員にも脱落する者は珍しくないのに、2年のブランクは相当にキツいだろう。見られたくないだろうな、とは思いながら放っておくわけにもいかなかった。
「掃除はしときました」
背中が揺れて止まった。
「…悪い」
同じ短い言葉を返しまた歩き始める。取り付く島もない感じ。が、しばらくしてまた足を止めて、今度は仙道を振り返った。
「ありがとう。もう帰っていいぞ。後は閉めとく」
仙道はかけようとした言葉を飲み込んだ。三井が笑っていた。いや、正しくは口の端を巻き上げただけかもしれなかったが、確かに笑いに属する表情に違いなかった。仙道は長い足を使って一息に距離を縮めた。
「な、なんだよ」
「俺も着替えないと」
「…ああ…」
三井は気が抜けたように仙道の練習着を見、仙道の接近で一気に険しくなった眉を解いた。なんとなく気が立った猫みたいだな、と先輩に失礼なことを考えながら隣合って歩きはじめた三井から警戒されないようにほんの少し、気づかれない程度の距離を取った。
元不良の中学MVP。ただでさえ扱いの難しい先輩にこの状況。どうやって切り出したものかな。これは苦手だなーと思いつつ、仙道は頬を指で掻いた。
「俺、この頃やっとバスケがおもしろいんです」
少し迷って、だが正直に切り出せば思った通りに三井は驚いた顔をして振り向いてくれた。じわじわと驚きからまた険しくなっていく眉間を見て焦り、やはりこの人には正攻法でいくほうがいいのだと直感的に悟って仙道は眉を下げた。
「あなたに聞いてもらえるとうれしいです」
三井は戸惑ったように瞬き、それでも足を止めて仙道に向き直った。
「場所を変えましょうか」と誘った、駅までの通学路の途中、踏切を渡った突き当りの海への防波堤に、コンビニで仕入れた鳥カラ串を手にとりあえず二人は落ち着いた。周囲は既に暗いが海辺を散策する人通りはぽつりぽつりと絶えない。波の音は大きく、だが二人の間の静寂を妨げない。東京から越してきて、仙道が気に入ったことの一つだった。ずっと聞いていると肩に入っていた力が抜けて、そでまでもやもやと雲のように漂っていた思考をかき集めてそれが形になって自分に戻ってきてくれる気がする。湘南に越してきてから教わった釣りを気に入った理由の一つでもあった。
自分も陵南に推薦で入学したこと。それなりに自分個人の技術には自信があってそれでチームを引っ張っていく気でいたこと。1年で思った通りの結果が出せず2年で薄っすらと理由が見えてきて。
「気が付かなかったけど。やっぱり天狗になってたのかなあ」
それまで相槌すら打たずに黙って聞いていた三井が顔を上げた。月の淡い光を反射する色の薄い瞳を見て、あれ、余計なこと喋ってるな自分、と仙道は思ったが口は止まらなかった。
「それがあなたを見ていて確信できたと思うんです」
「何を?」
「チームプレー」
一言いえば、三井は目を海に戻し頷いた。
個人の技量である程度まではチームを引っ張っていける。だがそれからは?前年思っていたより手前で敗退した理由はそれしかない。自分の動きを100%とは言わず8割がたでも予測できるプレイヤーがいたら。予測し実際に行動に移すことができ、いるべき場所でパスを受け思う通りに動いてくれる仲間がいたら。今のメンバーに通じないわけではないが、コンマ1秒の遅れが失点に繋がり敗北に導く。練習やディスカッションであるレベルまではいけるが、それからはセンスだ、と仙道は考える。練習では得ることのできない個々の才。それを口にはできないエース。復帰した三井のプレイを見たとき、仙道はこれは利用できる、と単純に考えた。3年ではあるが2年のブランクがあり、部員に遠慮のある元不良。それが中学時代、自分と似たようなオールラウンダーであったとあれば更に申し分ない。しかも特別なオマケとして外からも打てるとくれば物ぐさな自分も腰を上げざるを得ない。だが自分の言葉に頷いた三井に仙道が感じたことは、利用できることではなく理解してもらえたことへの素直な喜びだった。
「正直今の俺がおまえについていけるとは思えないけど。カバーはできると思う。なんていえばいいのかわからないけど、通訳?的な?」
瞬間仙道は鳥串をテトラポットに飛ばし、三井を両腕に囲いこんでいた。腕の中でじたばたと暴れる三井に気が付き、腕を解く。赤い顔をして自分を睨み上げてくる三井に仙道は久しぶりに心からの笑いが弾けた。
「でもなぁ、おれ」
続かない言葉に促すように隣の三井を見つめる。しばらく待って口を開かない三井に変わって指摘した。
「出戻り?」
「おまえ…!」
三井は拳でもあげそうな勢いで仙道を振り返り、目が合ってそれから力なく眉を下げた。
「どう思われてるか知ってるし、わかってて復帰した。まずは地道に信頼してもらう努力しないとだな」
「大丈夫ですよ、三井さんなら」
「おまえなあ…!」
呆れたように三井が喚く。
「おれとまともに話したの今日がはじめてだろ。おれの何知ってるってんだよ。調子いいんだよ、おまえ」
「おれは好きですよ。三井さん」
三井は今度は絶句して顔を赤くし、唇を尖らせて顔をまた海へと向けた。実際に話してみれば三井は無口ではないし、初めに口を巻き上げて笑いとわかったような無表情でもない。どちらかといえば感情を隠さずストレートに出す裏表のなさそうな人間だとすぐにわかる。自分のように建前と本音の異なる腹芸などできそうもなく、そしてそんな三井を知れば嫌う人間はいないだろう。まるで子供のような表情の豊富さは端正な顔立ちも相まって後輩で男の自分の目から見てもかわいくすら見える。
「…ホント調子のいいヤツ…」
仙道は眉を下げることでそれに答えた。四月にしては暖かい潮風が気持ちよかった。言葉の途絶えた中でも心地いいのは釣り以外に久しぶりで、帰宅を促す言葉を仙道は飲み込んだ。
チームの中心である仙道が打ち解けたように三井に接すれば、ほかの部員たちもゆっくりとだが声をかけてくる。主将である魚住とは元々が知っている者同士であったし、越野も後にひきずるタイプではない。三井の本気を見ればつっけんどんではあっても傍から見ればすでに普通の先輩後輩であった。仙道が気づいた時にはコート内で心から楽しそうに笑い、伸びやかにプレイする三井がいた。インターハイ予選に近い時期、それに安心したのが半分、複雑な気分も半分。この複雑さがどこから来るのだろうと考えたが、特にバスケには必要もないことのように感じられたので深く考えることはやめた。
福田も復帰して使える口実もなく、面倒くさくなりはじめた彼女との付き合いに貴重な休日を使って行きたくもない観覧車に乗った帰り道。付き合いはじめて半年、既に飽きてきたというほどひどい人間ではないと自分では思うが、スラリとしたクールな外見で魅かれたほどの内面がなかった相手に、男の身勝手さとは知りながらがっかりもしていた時期だった。すっかり日も暮れて明日からまた朝練もあるし、どうやって怒らせることなく今すぐ家に帰れるか、それとももう怒らせて面倒なく自分を振るように仕向けようかと仙道が考えていると、前方に脇道から飛び出してきた人影があった。それを追うようにしてもう一人。逃げた人間に無理にキスしようとして、突き飛ばされて揉み合っている。これは自分たちと似たようなカップルのケンカかなーと眺めていると、その逃げようとしている人間は見知った部の先輩だった。あの途中復帰の元不良。これはきまずいな、と女の子を促して道を変えようとした時、その子が嫌悪も露わに声を上げた。
「やだ、ホモの痴話ゲンカー??」
仙道が驚いて見返せば追ってきていた人間も確かに男に見えた。甲高い女の子の声に揉みあっていた二人も気づき、追ってきた人間は舌打ちして元来た道を走っていった。残された三井と自分は目が合ったと思った。街頭の光も十分でない暗い中だが確かに互いを認識した時、三井は弾かれたように走り去っていった。
2
「三井さん」
「…おう…」
初めて言葉を交わした日から、部員に溶け込めるようにと仙道は三井を誘って一緒に帰っていた。みんなで食事をして帰るときも仙道が無理に三井を引き留める体を作り、それがいらなくなった今でも当然のように声をかけた。いつもの屈託のない顔が向けられず、仙道はやはり昨晩見たのが三井であったと確信した。慣れた道を並んで歩きながら、いつもとは違って口を開かないのはわざと。仙道から敢えて聞き出すことはしなかったが、三井は諦めたように口を開いた。
「見てたんだろ?」
返事はしなくてもそれが肯定の意味に取られることはわかっていた。
「悪かったな、彼女と一緒のとこヘンなモン見せちまって」
「…いえ」
仙道はあれから彼女から振ってもらうことはせずに、自分から振った。「ひどいこと言う人だったんだね」と笑って、三井たちのことを利用して別れを告げた。使えるものは使わせてもらう。そんな自分がたまに嫌になるが、誰も本当のことを知らなければ傷つかない。いや、この場合知ったところで三井たちも元カノも自分のことで大変だろうからそこは気にはしないだろう。
「高校に入った辺りから気づいてたんだ。女とやってもみんなが言うほどおもしろくねぇし」
打ち明け話を聞いても特に何の感慨も浮かばなかった。意外だな、とかオネエっぽくないのにな、とか、あれオカマとゲイは違うんだっけ?とか。情報として正確であるのがわかれば、もう仙道には関係のない話だった。
「嫌だったら部は辞める」
「え、どうして?!」
だから思わず大きな声が出たのは本音だった。その声に三井も驚いたように仙道を見返した。
「え、だってヤだろ?」
「なんで?」
「なんでっておまえ…」
驚いてというよりは困ったように見上げてくる顔を見て、この人は抱かれるほうなのかな、とつい先刻、自分には関係がないと切ったことも忘れて考える。
「嫌じゃねえの?」
「んー、いや…ではないですねぇ。別にいいんじゃないですか?」
「…そう…か?」
「そうですよ」
そんなことぐらいで三井に部を辞められることの方が嫌だ。だから仙道にとっては『そんなこと』だった。
「…そっか」
少し嬉しそうに足元を見て、口を綻ばす三井が不思議だった。そんな三井を見て自分も少し嬉しくなるのはもっと不思議だった。
そして湘北との練習試合後。
「だって三井さん、あんまりストレートに人を誉めないじゃないですか。だから好みなのかなーって。いって!」
部室を出た途端に頭を平手で叩かれた。言い訳をすると更に強く殴られた。
「バスケ関係でそんな奴は作らねぇ。拗れるのはまっぴらだ。おれはバスケがしたくて部に戻ったんだ。壊すような真似はしたくねぇ」
もっともな言い分だ。おまけに男らしい。今日の試合は考えていた以上にパスが通った。みんなの動きが変わってきたのを肌で感じる。俯瞰して掴まなければならない情報が格段に増えた。大変だがやりがいがある。思った以上に湘北が食らいついてきたのは誤算だったが、インハイ前、練習試合で知っておけてよかった。三井はフルで出場はしなかったが、その加入はやはり大きい。三井の身のすくような3Pシュートが脳裏に蘇り、その三井の言葉を聞けば雲がかかったように試合のことを思い出せなかったことが嘘のように頭の中が晴れた。
「わかりました。すみません。もう言いません」
「おう」
三井も晴れたように笑う。
笑ったのに。
「あいつと1on1した!」
「はぁ?」
そのたった1週間後にはまたこの先輩は突拍子もないことを言い出す。
「あいつって…あいつ?」
なんとなく予想がつきそうで仙道は顔を歪めた。
「なんだよ、そんなんじゃねぇよ。ヘン顔してんなよ」
「どうしてまた」
脛に蹴りをいれてくる足を器用によけながら、仙道は探りを入れた。三井も特に隠すでもなく話してくる。
「おまえと初めて会った公園で…あ」
覚えていたのか、と思う。互いに名乗ったわけではないし、遠目に目が合っただけだと仙道は思っていた。気まずげに言葉を探す三井に助け舟を出す。
「会いましたよね。三井さんロン毛だった」
「うん…。まあその公園でさ、シュートの練習できるかなーと思って行ったら流川がいてさ。そんで勝負しろっての。おれのこと覚えてたんだなー。ちゃんと三井さんって名前まで」
その嬉しそうな顔が気に入らず仙道は半目になった。三井と親しくなってわかってきたことだが、褒められることにとてもこの人は弱い。あの無愛想そうな他校の一年坊が三井のことを誉めるとは思えないから、この場合は「すごいヤツが自分の名前を憶えていた」ことにポイントがついたのだろう。
「盛り上がって気が付いたら日が暮れててようー…なんだよ?」
返事をしてこない仙道に苛立ったのか三井が顔を覗きこんでくる。それに仙道はため息をついた。
「そんで朝練から倒れてちゃ練習にならないんじゃないですか?」
「なんだよ、おまえもおれを口実にサボってるくせに」
三井は借りていた肩を小突いて睨み上げる。三井は練習でまた倒れ、仙道は三井の面倒をみるという名目で隣り合ったパイプ椅子に並んで座っていたが、目が回るらしい三井はきちんと座ることができず、かといって寝ていることは断固拒否するので仙道が自分の肩に寄りかからせていた。
「ん、もう大丈夫だ」
よし!と気合をいれて立ち上がる。仙道はその背中に「バスケ関係ではそういうの作らないんでしょ?」と声をかけようとしてやめた。三井がゲイであることを自分が気にしないというのであれば、それも余計なお世話であることはわかっていたし、その言葉が逆に三井を意識させるようなことになっても困るかなと思った。困るというのは流川がライバルとなるだろう他校チームの人間だからか、仙道も認めざるを得ない才能の持ち主だからか、それとも他の理由からなのかな。どうなのかな。仙道は頭を傾げたが碌な答えに繋がらなさそうで考えることをやめて、真っすぐに伸びた背中を追って立ち上がった。
3
「湘北、あがって来たんだな」
練習後の部室内。福田の背に寄り掛かったままインハイ予選の対戦表を見ていた三井が口を開いた。その偉そうな態度だけ見ていれば一年から叩き上げてきた3年生そのままだ。魚住だって疲れ切った練習後にそんな迷惑な真似はしない。が、福田も迷惑そうにしながら三井に文句を言うでもない。いつの間にやら部に馴染みまくった様子に、自分が気を遣わなくてもいずれ三井は自分で溶け込んでいたのではないかと仙道は小さくため息をついた。
「宮城もいます」
三井を受けて越野が応える。それに三井はピンとこなかったようで頭を越野に向けた。
「だれって?」
「2年のPGっすよ。こないだなんでか来てなかったけど、今回加わるんなら更に侮れなくなるな」
意外な顔をして自分を見る目が多いことに気づくと、越野は声を荒げて小鼻を広げた。
「ま、チビだし敵じゃーねーけどな!」
「そっか…。更に侮れない、と。…どーしたもんかなぁ…」
からかって言葉尻を捉えたようでもない常とは違う様子の三井の呟きに似た小さな声に、越野は中途半端に勢いを削がれて問うような視線を仙道に送った。おまえ仲いいだろう、どうしたこの子供先輩は?とでもいうような。仙道はそれを肩を竦めてやり過ごした。どうにも部内ではこの頃三井番として面倒を引き受けさせられている気がして納得いかない。とはいえ自分も気にならないでもない。気にならないというより、気になる因子はある。
あれから流川との1on1は途切れておらず、約束をするでもなくコンスタントに続いていたことは三井からちょくちょく聞いていた。三井もわからないが、流川も更にわからない。やめさせるという選択肢は消したものの奥歯に刺さりっぱなしの棘のように忘れられることもなく仙道の脳の隅に居座っていた。
二人きりになったいつもの帰り道。日が落ちてもすっかり暑さが居座った外気はじっとりと身に纏わりつくようで、三井の首にもうっすらと汗を浮かばせていた。見るとはなしに目につくそれから無理やり視線をはずし、仙道は三井に直球を投げた。
「流川とやりづらい?」
「はぁ?!」
不良の名残が抜けない威嚇するような目つきを投げてくるがどことなくいつもの勢いはない。仙道はさらに畳みかけた。
「仲いいでしょ?」
「別に友達ごっこやってんじゃねぇ。そんなこた関係ねーよ」
唇を尖らせて下を向く。これは何か他にあるな、と口を開かず待っていると、三井は仙道と反対の方向に顔を背け下を向くという仕草を2,3回してみせた挙句ぶっきらぼうに口を開いた。
「やっぱ関係あるかな。勝ったら付き合ってくれって言われた」
「何に?」
「ってくるよな、やっぱり!」
「え…?」
え?
どういうことそれ?流川ってそうなの?三井さん自分ゲイって言ったの?いやいや、そうじゃなくてそういうことじゃなくて。三井は三井で「大体勝ったらってなんだよ」「罰ゲームかよ」等々ブツブツ言っている。
「どういうことなのそれ?」
「告られた」
三井は仙道から顔を背けたままボソッと口を開いた。仙道は少し下にある背けられた顔に繋がる、ついさっき視線をもぎ離した首筋に目を落とした。そのまま少し自分の顔も下げて鼻を三井の首にあて、スンと匂いを嗅いだ。
「って、てめっ!」
気がついた時には左頬を殴られ、三井は仙道の手の届かないところまで飛びすさっていた。
「なにしやがんだてめっ!」
「や、ミョーなフェロモンでも出てるのかなーと」
じんじんと響いてきた頬を押さえながら真っ赤な顔の三井を見つめる。どうして自分があんな真似をしたのかわからないが、確かに殴られても仕方のない行為だった。でも謝りはしない。
「それで?なんて答えたの」
落ち着いた仙道の表情に三井も現実に引き戻された顔をして向き直った。
「おまえが勝ったらなんでもしてやるよって言った」
「ええっ?!」
今度は仙道があっけにとられて三井を見つめた。なに言ってんのこの人?勝ったら付き合う?ってかなんでもしてやる?流川と?流川に?勢いでナニ言っちゃってるの?! …いや、そうだこの人。そういう人だった、この人は。
仙道はハーっと深く溜息をついた。この人と一緒にいるようになってからため息をつく回数が格段に増えたような気がする。自分の、というかチームのためにこの人を利用しようと思っていたはずなのにいつの間にか自分が振り回されている。
「だって勝つだろ?」
気付けば三井が真っ直ぐ自分を見上げていた。
「おまえ、勝つだろ?」
その色素の薄い瞳が夜なのに光を反射していて、ああ、今日も満月だったのかな、と思う。
「勝ちますよ」
流川の思惑とか。実際のところ三井が流川をどう思っているのかとか。それよりも今はその瞳が真っ直ぐに自分を見ていることがとても仙道には重要なことに感じられた。
「俺が勝ちます」
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