午後三時の紅茶と、その温度について

 関係が変わった夜のことは、よく覚えていない。

 覚えているのは、雨の音と、静かすぎる室内の空気。
 そして九条が僕の肩に頭を預けて、まるで子どもみたいに呼吸をしていたこと。

 その日、彼は珍しく紅茶を淹れ忘れていた。
 83度の習慣が途切れたのは、それが初めてだった。
 それが何を意味していたのか――今なら、少しだけわかる気がする。





 「あなたは、のすべてで、の中心です」

 彼はそう言って、僕の手の甲に唇を押し当てた。
 その仕草はどこか礼儀正しく、どこか他人行儀だった。

 「もしあなたが、他の人間と笑い合ったら、俺はその人間の存在を“記録”から削除するでしょう」
 「削除って……」
 「現実から、ではなく。“意味”からです。彼らが存在していたという事実自体を、あなたの記憶から消す。そうして世界の均衡を保つのです」

 僕は息を呑んだ。
 そんな滅茶苦茶な理論が、まかり通るものかと思った。
 でも、怒る気にもなれなかった。むしろその言葉は、どこかで僕の心をくすぐっていた。

 それほどまでに、必要とされている。
 それほどまでに、愛されている。





 ある夜、彼が僕の寝室に入ってきた。
 手には何も持っていなかった。ただ、暗い目だけを持っていた。

 「少しだけ、肌に触れても構いませんか」
 「……なぜ?」
 「あなたが、本当にここにいるか確かめたいのです。夢ではないと、思い出したいのです」

 僕は頷いた。
 彼はゆっくりと手袋を外した。長い指が、暗闇の中で妙に白く浮いている。
 彼の指が僕の首筋に触れた。静かに、震えながら。
 それはもはや愛撫でも、欲情でもなかった。
 ただ、“祈り”だった。





 九条の執着は、日に日に“常軌”から離れていった。

 僕の歯ブラシを毎晩アルコールで拭き、飲み残した水を密閉容器に保管し、抜けた髪をガラス瓶に収めていた。

 「わたくしにとって、あなたの欠片はすべて証明なんです。あなたが今日、ここに存在していたという記録です」

 彼の声は真剣で、痛々しいほどだった。

 怖かった。
 でも、それ以上に――愛おしかった。





 僕はある日、彼の手を握ってこう言った。

 「もう、壊れていいよ」
 「……それは命令ですか?」
 「違う。お願い。壊れても、壊れてなくても、僕はここにいるから。君には僕がいないとだめなんでしょ?だったら好きなだけ依存して、執着して、狂ってていいよ。全部、許すから」

 九条は、僕の手の中で震えていた。
 まるで、小さな生き物みたいに。

 やがて彼は肩を落とし、僕の胸に額を押しつけて、かすかに嗚咽した。

 「ありがとうございます、ありがとうございます……」

 何度も、同じ言葉を繰り返していた。
 それは赦しでもなく、感謝でもなく、呪文のようだった。





 時刻は午後三時。
 僕の前には、今日も完璧なアールグレイが置かれている。

 「紅茶の温度は?」と訊くと、彼は少し微笑んでこう言った。

 「83度でございます」

 僕は頷いて、紅茶を一口飲んだ。
 世界における“唯一の正しさ”が、ここにはある気がしていた。

 「美味しいよ」




午前三時の紅茶と、その温度について 完
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