午後三時の紅茶と、その温度について
九条が再び屋敷に戻ってきた夜から、僕は眠りが浅くなった。
夢の中で、彼が僕の名を何度も呼ぶ。低く、深く、まるで儀式の詠唱のように。
目覚めると、彼はいない。
けれどその気配だけが、部屋の空気に残っていた。
ある夜、僕はリビングの明かりを点けたまま寝落ちしていた。気づくと、九条が床に座って僕の足元に顔を伏せていた。
まるで、祈っているような姿勢で。
「……何してるの?」
そう訊くと、彼は少しの間動かなかった。
やがて顔を上げると、髪が少し乱れていた。そんな彼を見たのは初めてだった。
「壊れてしまいそうだったのです」
「……何が」
「私 の中の“あなた”が」
彼の目には、涙のような光が浮かんでいた。それは本物かどうか、僕には判断できなかった。でもそのとき確かに、彼の中にある“完璧さ”にヒビが入っているのを感じた。
「私 には、“あなた”以外の軸が存在しません」
「それって……危ないんじゃない?」
「ええ、そうでしょうね。でも、それ以外の世界を私 は知らない。九条 は作られたのです。あなたのためだけに」
彼はそう言って、僕の手を取った。柔らかく、だけどどこか必死な強さで。
「あなたが私 を切り捨てた瞬間、九条 の存在は未定義になります」
「未定義……」
「ええ。空白でもなく、死でもなく、“意味が存在しない”状態。あなたに触れられない限り私 は、“人間の形”を保てない」
彼の指先が僕の手の甲をなぞった。それは奇妙に熱っぽく、でも震えていた。
この人は怖い。でも、それ以上に――孤独なんだ。
自分以外の何かとつながる術を知らずに、ただ一つの命令――己に自分で科した誓いだけを頼りに、生き続けている。
僕が少しでも冷たくすると、彼は壊れてしまう。実際、もう壊れかけている。
「僕がいないと、ダメなんだな」
僕がつぶやくと、九条の指がぴくりと震えた。
それから彼は目を伏せたまま、静かに、まるで告白のようにこう言った。
「あなたのいない世界など、最初から俺 の設計に含まれていないのです」
それは愛ではなく、呪いのような言葉だった。でも不思議と、心のどこかがそれを“受け入れた”気がした。
この人は、僕だけのために生きている。
僕が与えなければ、彼は“存在できない”。
そのことに、ほんの少しだけ、安心してしまった。
他の誰にも向かない執着。壊れかけの愛。
どれも、少しだけ――愛おしかった。
その夜、僕は初めて、自分から彼に触れた。
怖さも、嫌悪も、どこかに置き去りにして。
静かな紅茶の匂いが、部屋に溶けていた。
夢の中で、彼が僕の名を何度も呼ぶ。低く、深く、まるで儀式の詠唱のように。
目覚めると、彼はいない。
けれどその気配だけが、部屋の空気に残っていた。
*
ある夜、僕はリビングの明かりを点けたまま寝落ちしていた。気づくと、九条が床に座って僕の足元に顔を伏せていた。
まるで、祈っているような姿勢で。
「……何してるの?」
そう訊くと、彼は少しの間動かなかった。
やがて顔を上げると、髪が少し乱れていた。そんな彼を見たのは初めてだった。
「壊れてしまいそうだったのです」
「……何が」
「
彼の目には、涙のような光が浮かんでいた。それは本物かどうか、僕には判断できなかった。でもそのとき確かに、彼の中にある“完璧さ”にヒビが入っているのを感じた。
「
「それって……危ないんじゃない?」
「ええ、そうでしょうね。でも、それ以外の世界を
彼はそう言って、僕の手を取った。柔らかく、だけどどこか必死な強さで。
「あなたが
「未定義……」
「ええ。空白でもなく、死でもなく、“意味が存在しない”状態。あなたに触れられない限り
彼の指先が僕の手の甲をなぞった。それは奇妙に熱っぽく、でも震えていた。
この人は怖い。でも、それ以上に――孤独なんだ。
自分以外の何かとつながる術を知らずに、ただ一つの命令――己に自分で科した誓いだけを頼りに、生き続けている。
僕が少しでも冷たくすると、彼は壊れてしまう。実際、もう壊れかけている。
「僕がいないと、ダメなんだな」
僕がつぶやくと、九条の指がぴくりと震えた。
それから彼は目を伏せたまま、静かに、まるで告白のようにこう言った。
「あなたのいない世界など、最初から
それは愛ではなく、呪いのような言葉だった。でも不思議と、心のどこかがそれを“受け入れた”気がした。
この人は、僕だけのために生きている。
僕が与えなければ、彼は“存在できない”。
そのことに、ほんの少しだけ、安心してしまった。
他の誰にも向かない執着。壊れかけの愛。
どれも、少しだけ――愛おしかった。
*
その夜、僕は初めて、自分から彼に触れた。
怖さも、嫌悪も、どこかに置き去りにして。
静かな紅茶の匂いが、部屋に溶けていた。