午後三時の紅茶と、その温度について

 気づくと、僕は九条と目を合わせるのを避けるようになっていた。

 彼の完璧さ――それはもう、ひとつの不気味さに近かった。
 朝食に出るトーストの焼き加減、バスルームの湯の温度、洗いたての制服の襟の硬さ。どれも、少しも誤差がない。それ自体は凄いことのはずなのに、僕はむしろ、そこに「人間の欠落」を感じていた。

 彼は人間ではないのかもしれない。
 そう思い始めたのは、たぶんその頃だ。





 ある日、学校から帰る途中。僕はほんの小さな抵抗を試みた。
 スマートフォンのGPSを消し、最寄駅から一駅歩いて遠回りをし、スーパーで買ったペットボトルのお茶を飲んだ。

 九条が用意していない飲み物を口にすることは、ほとんど革命的な出来事だった。

 家に帰ると、彼は玄関でいつものように立っていた。
 笑顔ではなかった。もちろん怒ってもいない。
 ただ――目が笑っていなかった。

 「今日、いつもと違う経路を使われましたね」
 「うん、たまたま気分で」
 「気分、ですか。そうですか」

 彼は玄関の床を見つめたまま、小さく首をかしげた。
 それがまるで、壊れた時計の秒針みたいに、狂気じみて見えた。





 それから三日後、僕は母に「九条を一時的に屋敷から外してほしい」と頼んだ。
 「ちょっと、息が詰まるんだ」とだけ言った。
 母は怪訝な顔をしたが、了承してくれた。「彼、あなたにすごく尽くしてると思うけど……まあ、息抜きも必要よね」と。

 九条は何も言わなかった。
 ただいつものように深く一礼して、ゆっくりと玄関を出ていった。その背中は異様にまっすぐで、まるで処刑される兵士のようだった。

 正直なところ、僕は少しほっとした。
 初めて自分の空間に「影」がない気がした。

 でも、それは錯覚だった。





 その夜、枕元にメモが置かれていた。
 僕の筆跡そっくりな文字で、たった一行だけ。

  『あなたは誤った動きをされました』

 僕はすぐ母に確認したが、誰も入っていないという。
 ドアの鍵も閉まっていた。防犯カメラも異常なし。

 でも、僕は知っていた。
 九条は、そういうことができる人間だ。
 いやむしろ、人間じゃないからできるのかもしれない。





 翌日の午後三時。
 僕はリビングで読書をしていた。
 すると不意に、背後で“カチャ”という音がした。

 振り返ると、テーブルの上に一杯の紅茶が置かれていた。
 白いカップに、ゆっくりと湯気が立っていた。
 その温度、恐らく――83度。

 「…九条、帰ってきたの?」

 僕は空間に向かって訊いた。誰の姿も見えない。
 そのとき、静かに背後から声が落ちた。

 「帰っていない、という選択肢はありません」

 振り返ると、九条が立っていた。
 手袋を外し、素手のまま僕の肩に触れた。その手は、異様に冷たかった。氷みたいに。

 「あなたがわたくしを遠ざけることは、可能かもしれません。でもそれは、命令に反します」
 「命令……?」
 「あなたが生まれたとき、己に命じたのです。――“彼を見守り、守り、従い、そして決して離れないこと”。」

 彼の瞳は、そこに僕の反射しか映っていなかった。まるで、僕以外の世界が存在していないようだった。

 「あなたがどれだけ逃げても、わたくしは、あなたの背骨の中に残り続けます」

 彼の声は囁きのように静かで、それでいて、不気味なほど確信に満ちていた。





 僕は怖かった。
 でも、それ以上に――自分の中に芽生えた奇妙な安堵感に、背筋が凍った。

 この人に支配されるのなら、すべてを放棄してしまってもいいかもしれない。
 そんな考えが一瞬だけ、頭のどこかをかすめた。

 まるで、それこそが彼の“プログラム”の目的だったかのように。
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