彼はいつもナイフを磨いていた

 逃げようと決めたのは、金曜日の午後だった。
 理由はない。ただその日、コピー機の前で紙詰まりと格闘していた時、不意に「今なら行ける」と思った。それは思考ではなく、もっと原始的な反射のようなものだった。肺の奥にたまった空気が一気に排出されるように、僕の中で何かが動いた。

 財布とスマートフォン、そして通帳だけをポーチに入れ、新幹線に乗った。
 目的地は決めていなかった。とにかく彼の目の届かないところへ行きたかった。
 ただそれだけだった。

 けれど、彼はやはり、僕を見つけた。
 僕が小さな地方都市のビジネスホテルで、ぼんやりとインスタント味噌汁をすすっていた夜。ドアをノックする音がして、そこに彼が立っていた。

 「やっぱり、君はここにいた」と、彼は言った。

 彼の目には怒りも哀しみもなかった。ただ、いつものように静かで、底が見えなかった。
 僕は言い訳しようとしたが、喉が乾きすぎて言葉が出なかった。

 「僕はね、君を失うくらいなら、君を壊すほうを選ぶよ」

 彼はそう言って、僕の顔に手を添えた。
 その手はひどく温かくて、優しかった。言葉のわりに、殺意のかけらもなかった。





 部屋に二人きりになって、彼はまたナイフを磨き始めた。
 持ってきていたらしい。旅用のケースに、小さな砥石と布とナイフ一本。
 「旅用のナイフなんだ」と、彼は少しだけ笑った。

 僕はその姿を見ながら、ベッドに座って、手のひらをじっと見つめた。
 この手は誰のために存在しているのだろう。
 触れたいと願うのは、誰の温度なのだろう。

 気づけば僕は、彼のそばに歩み寄っていた。
 何かを言ったわけじゃない。何かを約束したわけでもない。
 ただ、彼のナイフを磨く手の上に、自分の手をそっと重ねた。

 彼は動きを止めて、僕を見た。
 「どうして?」と彼は小さく言った。

 「逃げたのに、戻ってくるなんて」

 僕は少し考えてから、こう答えた。

 「たぶん君の愛が狂ってるなら、僕の孤独も同じくらい狂ってるんだと思う」

 その夜、彼はナイフを磨くのをやめた。
 代わりに僕の手を取って、何も言わずに隣に座った。
 テレビでは深夜のドキュメンタリーが流れていて、遠くで雷が鳴っていた。





 僕は今でも彼のことを、うまく説明できない。
 でも、たったひとつだけ確かなのは――

 彼がその手で壊そうとしたものの中に、僕は自分の存在の輪郭を見出してしまった、ということだ。
 それは救いだったのか、破滅だったのかはまだわからない。でもたぶん、愛ってそういうものなんだと思う。

 歪で、脆くて、どうしようもなく引き返せないもの。
 きっと、そういうものなんだと思う。



彼はいつもナイフを磨いていた 完
3/3ページ
スキ