ソーダの記憶
ソーダの記憶
彼女の家の前には、いつも午後の静寂が張りついていた。それは、真夏の駐車場に停まっている中古の黄色いルノーみたいに、熱を抱えたまま動かない。僕はそこに立って、彼女の窓が開くのを待った。たいてい午後三時きっかりに、それは開く。
彼女はレモン・スカッシュを飲む。その炭酸のはじける音が、僕の耳の奥で何度も反響する。
僕は彼女の名前を知らなかった。だけど彼女の生活リズムは、指先でピアノをなぞるみたいに把握していた。月曜日の洗濯物、火曜日の青い傘、水曜日のベランダで聴くスティーリー・ダン。どれも些細で、無意味な断片。
でも、僕にとっては小さな宇宙だった。
僕は彼女のストーカーだった。そして、彼女はそれに気づいていなかった。あるいは気づいていたけれど、それを受け入れていたのかもしれない。それはわからない。僕は彼女と一言も言葉を交わしたことがなかったのだから。
ある日、世界の色がわずかに変わった。いつもの午後三時。彼女の窓は開かなかった。代わりに、見知らぬ男が部屋に入っていくのを見た。スーツを着た、不自然に笑う男。
僕の胸の中で、炭酸が爆ぜた。
何かがおかしい、と僕は思った。論理的な根拠はなかった。ただ、ソーダ水の泡が予感を弾き出すように、僕の中で何かが動いた。
*
その夜、僕は彼女の部屋のドアをノックした。手には、コンビニで買った冷たいソーダの缶を持っていた。僕は震えていた。理由のすべてが、彼女だった。
中から男の怒鳴り声がした。続いて、グラスが割れる音。彼女の叫び。僕は反射的にドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。
そこには、彼女と、彼女を押し倒そうとしている男がいた。
僕は男に飛びかかった。喧嘩なんてしたことなかった。でも僕の中にあったのは、ソーダのような、きらめく怒りだった。
結局、男は逃げて、僕は膝をすりむいた。
彼女はソファにうずくまり、息を整えていた。部屋にはスティーリー・ダンの「Deacon Blues」が流れていた。僕は缶ソーダを差し出した。
「どうして…ここに?」
彼女の声は、炭酸が抜けかけたコーラみたいにかすれていた。
「たまたま通りかかったんだ」と僕は嘘をついた。
「君にソーダを渡したかった」
彼女は少しだけ笑った。その笑いは、僕の中に長い間あった暗闇に、少しだけ光を灯した。
その夜、僕は自分がストーカーをやめたことに気づいた。
もう彼女を「観察」する理由はなかった。僕は彼女に触れてしまった。彼女は、もうただの幻想ではいられなかった。
帰り道、僕は自販機で自分のためのレモン・スカッシュを買った。口に含むと、あの午後三時の、炭酸の音が頭に響いた。
僕の記憶の中で、それは彼女の姿と混ざり合い、静かに消えていった。
ソーダの記憶 完
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