スプートニクの夏

 八月の終わり、街はゆっくりとその皮膚を脱ぎはじめていた。
 蝉の声は急に止み、風の匂いにわずかな秋の前触れが混じるようになった。
 それでも僕はまだ、あの夏に取り残されていた。彼と出会った、あの不確かな重力の中に。

 彼がいなくなってから、僕は彼の住んでいたアパートの前まで何度か足を運んだ。
 呼び鈴は押さなかった。部屋の明かりがついていないことを確認するだけだった。まるで、旧ソ連の地上管制官のように——遠い宇宙に放たれた衛星が、いまもまだ軌道上にあるかを確かめるみたいに。

 ある夜、郵便受けに小さな冊子が差し込まれているのが目に入った。手に取ると、薄い詩集だった。表紙には手書きの文字でこう書かれていた。

 「**Sputnik no natsu**」

 カタカナではなく、ローマ字で。
 まるでそれが本当に宇宙に向けて放たれたメッセージであるかのように。

 ページをめくると、詩というよりも、断片的なモノローグが並んでいた。ひとつ、ページを読む。



  僕はスプートニクみたいなものだ。

 誰かのまわりを回っているけれど、その誰かには気づかれない。
 音もなく、光もなく、ただ軌道をなぞっているだけ。

 でも、もし誰かが僕に気づいたなら——
 それだけで、この宇宙にも意味が生まれるのかもしれない。




 僕は立ったまま、それを読み終えた。
 胸の奥で何かが静かに振動していた。
 ああ、そうか。彼は最初から、僕と同じだったのかもしれない。

 僕は彼を“見ていた”けれど、彼もまた“見られたかった”のだ。
 引力ではなく、観測。
 恋ではなく、孤独の共鳴。

 それが彼の、そして僕の「スプートニクの夏」だった。

 それから数日後、僕は街を出た。
 荷物は最小限。着替えと、あの詩集と、あと数枚のレコードだけをカバンに入れて。夜行バスに揺られながら、窓の外を見上げた。
 月は雲の向こうでぼんやりと光っていた。
 その隣で、小さな人工衛星のような光がゆっくりと軌道を描いていた。
 それが本当にスプートニクだったのかどうかはわからない。

 でも僕には、それが彼の瞳の残像のように見えた。





 愛とは、必ずしも触れることじゃない。
 伝えることでも、所有することでもない。
 ただ同じ時間に、同じ空の下で、誰かの存在を静かに観測し続けること。
 たとえその軌道が、いつか重ならなくなるとしても。




スプートニクの夏 完
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