スプートニクの夏

 八月に入って、街の空気が少しだけ重くなった。蝉の声はやけに断続的で、まるで誰かが下手なタイミングでラジオのボリュームを上げ下げしているようだった。

 彼と出会ってから、僕の生活は目に見えて変わっていった。
 寝る時間が不規則になり、冷蔵庫の中には開けかけのビール缶が増え、読みかけの本は最後のページまで辿り着けなくなった。ドストエフスキーも、途中で行方不明になった。

 かわりに、彼がいた。
 彼はたまに僕の部屋に来て、何も言わずに僕のソファに座った。音楽はかけない。テレビもつけない。ただ沈黙が部屋を満たし、ふたりの呼吸だけが、小さな宇宙のようにゆっくり回っていた。

 「君はさ、なぜ私を見てたんだい?」

 ある晩、彼がたずねた。小さなグラスにウィスキーを少しだけ注ぎながら。氷は入れていなかった。

 「うまく言えない。ただ、君は引力みたいだった。僕は、気づいたら引き寄せられてたんだ。」

 僕の言葉に、彼は一瞬黙った。そして逡巡した後、ゆっくりと僕を見た。

 「引力ってさ、近づきすぎると壊れるっていうよね。」

 彼の言葉は、まるで宇宙空間で発せられる声のように、時間差をともなって僕に届いた。そして、僕の中の何かを静かに凍らせた。

 彼はかつて、誰かを失っていた。
 その話を彼は一度だけ、風のように話したことがある。詳細は言わなかった。ただ、「その人のことを忘れるために、自分の軌道をずらした」と言った。

 「私はね、自分の重力から逃げたかったんだ。君みたいに誰かに引き寄せられるのが、こわかったんだ。」

 それ以降、彼は少しずつ僕の部屋から消えていった。
 来る回数は減り、来ても時間は短くなった。ソファの上に置いていったタバコの箱は、開けてももう何も残っていなかった。

 僕は夜の街を、また一人で歩くようになった。
 彼の影を探すように街灯の下を彷徨い、コンビニの窓越しにただ立ち尽くした。

 そしてある日、彼はいなくなった。部屋の中にも、生活の周縁にも、名前のない場所にも。
 彼はまるで軌道を外れた星のように、僕の引力圏から消えていった。

 でも僕はまだ、彼が回っていたその軌道の跡を、記憶のなかで辿っていた。
 音のない、真空の宇宙で。
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