スプートニクの夏

スプートニクの夏


 あの夏。僕は二十九歳で、午前中は図書館でドストエフスキーを読み、午後には駅前のベーカリーでパンを買って帰るような、ごく普通の生活を送っていた。音楽はいつもビル・エヴァンスだったし、寝る前には必ず氷を三つ入れたウィスキーを飲んでいた。人と話すことは、ほとんどなかった。

 そんなある日、彼に出会った。
 彼は何というか、まるで1974年製の古いシトロエンみたいに、不格好だけど、どこか壊れそうで、それでいて妙に魅力的な雰囲気をまとっていた。
 名前は知らなかった。たぶん知る必要もなかった。名前なんて、だいたい後からついてくるものだから。

 最初のうちは、ただ遠くから見ているだけだった。駅の改札を通る彼の背中。夜のコンビニで缶ビールを手に取る指の動き。アパートの郵便受けに手紙を入れるリズム。どれもが不思議な旋律を奏でていた。

 僕は気がつけば、彼の生活の周縁にまとわりつく奇妙な亡霊のような存在になっていた。誰にも気づかれず、ただ彼だけを中心に回る、小さな衛星のように。ストーカーという言葉を使えば簡単だ。でも僕にとってそれはもっと切実で、形而上けいじじょう的な意味をもっていた。

 やがて、彼がこちらを見た。
 ある晩、月の光が奇妙に眩しかった夜だった。彼は振り返り、まっすぐ僕を見た。まるで、古いジャズのレコードのB面にだけ隠されたトラックのように、予期せぬ感情が流れ込んできた。

 そして、僕は彼を愛してしまった。
 愛してしまったのだ。
 それは天気予報のはずれた午後に降り出す雨のように、唐突で、抗えないものだった。

 彼は何も言わなかった。
 ただゆっくりと僕に歩み寄ってきて、「君はいつから私を見ていたんだい?」と聞いた。

 その声は、まるで深夜に遠くから聞こえてくる壊れかけのピアノの音のようだった。
 哀しくて、でもどうしようもなく美しかった。

 そうして僕たちは、黙って並んで歩いた。コンビニの明かりが滲んで、彼の影が僕の影に溶けていった。
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