てのひらの上の檻
彼はいつからか、鍵の隙間に自分の存在を差し込むようになった。
僕が帰宅すると、玄関にコンビニ袋が置かれている。中身は僕がよく買うヨーグルトや銘柄を指定しているわけでもないのにぴたりと好みに合った煙草だった。
ある朝は、まだ眠気に溺れている僕の布団の中に彼の体温が潜り込んでいた。鍵をどうやって開けたのかは訊かなかった。訊けば、答えが現実になってしまう気がしたからだ。
彼は背中にぴたりとくっついて、息の音を揃えようと必死だった。僕はそのまま目を閉じた。体温が二重になっても、眠気は驚くほど減らなかった。
日常はだんだんと彼の影に覆われていった。
冷蔵庫を開ければ、見覚えのないタッパーが増えている。クローゼットの隅には僕が買った覚えのないシャツが吊るされている。まるで同居人がいつの間にか越してきて、部屋の空気を少しずつ塗り替えているように。
それを拒む理由はなかった。彼の痕跡は湿った空気のように僕にまとわりつき、僕はただ「仕方ないな」と受け入れる。それは愛でも恐怖でもなく、ただの習慣に近かった。
けれどある夜、彼が不意に僕の手首を掴んだ。痣になるほど強く。目は焦点を失っていて、彼の言葉は呪文のように何度も繰り返された。
「君は僕を捨てないだろう? 捨てないだろう?」
僕は少し笑って、彼を見つめた。まるで子供が壊れやすい玩具を抱えて泣いているのを眺めるみたいに。
そしてグラスの中の氷が解けきったのを確認してから、静かに言った。
「もういいよ」
その言葉は、部屋の空気を一瞬で乾かす刃物のようだった。
彼の手が僕の手首から落ちていく。
時計の針の音だけが、やけに澄んで響いた。
僕が帰宅すると、玄関にコンビニ袋が置かれている。中身は僕がよく買うヨーグルトや銘柄を指定しているわけでもないのにぴたりと好みに合った煙草だった。
ある朝は、まだ眠気に溺れている僕の布団の中に彼の体温が潜り込んでいた。鍵をどうやって開けたのかは訊かなかった。訊けば、答えが現実になってしまう気がしたからだ。
彼は背中にぴたりとくっついて、息の音を揃えようと必死だった。僕はそのまま目を閉じた。体温が二重になっても、眠気は驚くほど減らなかった。
日常はだんだんと彼の影に覆われていった。
冷蔵庫を開ければ、見覚えのないタッパーが増えている。クローゼットの隅には僕が買った覚えのないシャツが吊るされている。まるで同居人がいつの間にか越してきて、部屋の空気を少しずつ塗り替えているように。
それを拒む理由はなかった。彼の痕跡は湿った空気のように僕にまとわりつき、僕はただ「仕方ないな」と受け入れる。それは愛でも恐怖でもなく、ただの習慣に近かった。
けれどある夜、彼が不意に僕の手首を掴んだ。痣になるほど強く。目は焦点を失っていて、彼の言葉は呪文のように何度も繰り返された。
「君は僕を捨てないだろう? 捨てないだろう?」
僕は少し笑って、彼を見つめた。まるで子供が壊れやすい玩具を抱えて泣いているのを眺めるみたいに。
そしてグラスの中の氷が解けきったのを確認してから、静かに言った。
「もういいよ」
その言葉は、部屋の空気を一瞬で乾かす刃物のようだった。
彼の手が僕の手首から落ちていく。
時計の針の音だけが、やけに澄んで響いた。