てのひらの上の檻
てのひらの上の檻
彼は毎朝のように、僕の下宿の前に立っていた。
花屋の店先に置き忘れられた鉢植えのように、少し所在なさげで、しかし確実にそこにある、という種類の存在感をまとって。
僕はそれを嫌悪しているふりをする。眉をひそめて、「どうしてここに?」と尋ねる。彼は決まって「たまたま通りかかったんだ」と言う。
だけど、その“たまたま”が一週間に七回続くと、もはやそれはカレンダーに書き込まれた予定に近い。
正直なところ、僕は困ってなんかいない。むしろ、彼が見張る視線の中で煙草を吸ったり、わざと遅れて家を出たりするのは、退屈しのぎとしては悪くない。
彼は僕の一挙一動に反応する。小さなため息ひとつでも、彼の心を大きく揺らすことができる。まるで湖に小石を投げ込むみたいに。
ただ、僕はその石の数を数えていない。数え始めてしまえば、そこに責任が生まれてしまうからだ。僕はただ、無意識のような顔をして、彼の感情を弄んでいる。
「君は僕のことを試してるのか?」と彼は夜、電話口で言う。
「そんなことないよ」と僕は笑う。笑いながら、冷蔵庫の中に残ったビールの本数を数えている。彼の声は遠く、缶のプルタブの音のほうが現実的だ。
僕は彼を愛していないわけじゃない。けれど愛しているかどうかと問われれば、少し考え込んでしまう。答えはいつだって、グラスの底に沈んでいる。彼はそれを飲み干そうとするけれど、グラスを傾けているのは僕の手だ。
つまりこの感情の出どころも行く先も、僕が握っているんだ。
*
彼はだんだん、ただの「偶然」では満足できなくなっていった。
最初は僕の家の前に立っていただけだったのに、ある日、ポストを開けると中に僕の古い雑誌の切り抜きが入っていた。僕がかつてインタビューを受けた小さな記事、僕自身ですら忘れていたようなページだ。たぶん古本屋を何軒も回って探したのだろう。新聞紙の匂いがまだ残っていた。
夜中、寝ぼけ眼で窓を開けると、向かいの公園のベンチに彼が座っていることもあった。缶コーヒーを両手で握りしめ、まるでそれが僕の体温であるかのように大事そうに。
僕が手を振ると、彼は小さく頭を下げる。まるで不法侵入を謝る泥棒みたいに。
少し怖い? そうかもしれない。
でも僕の胸は一ミリもざわめかない。
彼がどれほど僕を追い詰めようとしても、結局、僕の方が一段高いところに立っていることを僕は知っている。
彼が網を張れば張るほど、僕はその網の上で猫みたいに眠ることができる。
「君は僕なしじゃ退屈だろう?」
ある晩、彼はそう言った。電話口の声は切羽詰まっていて、僕を締めつける縄みたいだった。
「そうかもしれないね」
僕は冷蔵庫の中のビールを取り出しながら答えた。
「でも、君がいなくても別に死にはしないよ」
受話器の向こうで、何かが崩れる音がした気がする。でもそれが彼の心なのか、ただの想像なのかは確かめなかった。
僕にとって彼は、日々に色を差す絵の具のひとつだ。少し濃すぎる赤、触れると指先にべっとりつくような。
けれど僕はその赤を気にすることもなく、ただ無造作にキャンバスに塗り広げる。そういうことだ。
「今にわかるよ。退屈は人を殺すんだ」
彼は震える声で言った。