彼はいつもナイフを磨いていた
彼はいつもナイフを磨いていた
彼はいつも、ナイフを磨いていた。
僕が最初に彼に会ったのは、六本木の小さなバーだった。
音楽はマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』がかかっていて、バーテンダーは薄く笑いながらジン・トニックをシェイカーで振っていた。僕はただの会社員で、特別な才能もなければ、人に語るほどの人生も持っていなかった。ただ毎日、午前九時に出勤して、五時半に退社し、電車に揺られて自宅へ帰るだけの生活だ。
彼は隣に座っていて、なぜか僕の方をじっと見ていた。
「君、寂しそうな目をしているね」と、彼は言った。
「そう見えるだけです」と、僕は答えた。
その夜、彼の家に行った。なぜだかわからない。行くべきじゃなかったのかもしれない。でも僕は彼の声と、彼の眼差しに引き寄せられた。
彼の部屋は無駄に広くて、家具がほとんどなかった。壁に掛けられた一枚の絵と、窓際に並べられたナイフ。ナイフはすべて同じ角度で整列していた。彼はナイフを一本手に取ると、慣れた手つきで磨き始めた。
「これは僕の儀式みたいなものなんだ」と彼は言った。
「愛を守るためのね」
それからというもの、彼は僕を「守る」と称して、僕の周囲の人間関係をひとつずつ断ち切っていった。
大学時代の友人、元恋人、職場の同期――彼はまるで薄い皮を剥ぐように、静かに、丁寧に、それらを消していった。僕は最初こそ戸惑ったが、ある朝、ふと気づくと、彼の存在だけが僕の生活の中心になっていた。
「君は僕がいないと生きていけない」と彼は言った。
それが事実であるかどうか、僕にはもう判断がつかなかった。
でもたしかに。彼がナイフを磨くその音を聞きながら、僕は安心して眠りにつくようになっていた。
彼の愛は冷たく、静かで、そして完璧だった。
ちょうど、夜の海のように。
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