しあわせな世界


 騎士が魔法使いと故郷を訪れ、一週間が経過した日の夜。
 魔法使いを彼が連れ出したのは、町外れの丘だった。月明かりだけが道を照らし、静寂のなかに二人の足音だけが響いていく。

 丘の上に腰を下ろすと、彼は持ってきた革袋から湯気の立つサンドイッチを取り出した。掌を温めるように受け取った魔法使いは、一口噛みつくなり「いい街だ」と短く漏らす。

 騎士は嬉しそうに目を細めた。

 「ありがとうございます。私もここが好きです」

 彼の故郷の街は大きくはないが、絵画や音楽、工芸に秀でた芸術の町だ。昼は市場の喧噪と香辛料の匂いに満ち、夜は街角ごとに奏でられる旋律が風に流れる。そんな風景を背にしているだけで、心が満ちる場所だった。

 「老後はここへ戻ってくるのか」

 不意に、魔法使いが珍しく踏み込んだ問いを投げる。

 「え……?」

 騎士はきょとんと目を瞬かせたが、すぐに頬を和らげ、嬉しそうに口角をあげた。

 彼は知っていた。己のあるじは本当に正直な人間で、興味のないことをわざわざ聞くようなことはしない。
 だからこそ、こんな問いをしてきたこと自体に喜んでしまう。

 「老後は考えていません。そこまで自分が生き残れるとも思っていませんし……それに、貴方のそばを離れるつもりもありません」

 魔法使いは少しだけ眉を顰め、深く吐息を漏らす。

 「悲観的なのか楽観的なのか……イマイチわからんヤツだな」
 「現実的だと言ってください」

 くすりと笑って答える騎士の頭上で、夜空は瞬き始めていた。無数の星々が散りばめられ、天の川が太い光の帯となって垂れ落ちる。

 その光に目を細めながら、魔法使いはぽつりと口を開いた。

 「もし」
 「はい」
 「俺がお前との契約を終了させたら、どうする」

 騎士は弾かれたように顔を上げる。瞳に映る星々よりも鮮やかに、その言葉が胸を衝いた。

 「お前は俺のそばを離れるつもりはないと言うが……俺たちの間にあるのは雇用契約であって、それ以上でもそれ以下でもない」
 「それは……」

 騎士は言葉を失い、唇を結んだまま黙り込んでしまった。

 「……私が嫌になりましたか」

 震える声が、夜の闇に吸い込まれていった。
 魔法使いは眉間を押さえ、吐き捨てるように言う。

 「仮定の話だ」

 冷えた声音に、騎士の肩がわずかに震える。
 彼は顎に手を当て、ふん、と真剣な顔で思考に沈んだ。黙り込むその様子に痺れを切らした魔法使いが、いぶかしげに覗き込む。

 「……何を考えている」
 「もしそうなった場合、いかにして貴方のそばから離れずに済むかという役職を、考えておりました」

 騎士はこくりと頷き、真面目な声音で答えた。
 魔法使いは呆れを通り越して、思わず目を見開いた。

 「……答えは出たのか」
 「えぇ。多少強引ではありますが、方法はありそうです」

 唖然としたまま、魔法使いは彼を見つめた。
 目の前の騎士は確かに、自分が引き抜いて傍に置いた者だ。護衛という肩書を持ちながら、その実、彼の仕事の多くは魔法使いが面倒がる書類や雑務にすぎない。
 英雄と呼ばれた騎士を小姓のように使っている――その事実に、時折罪悪感すら覚える。

 それなのに。

 「一体俺の何が……お前にそこまでさせるんだ」

 掠れた声が夜に溶ける。
 騎士は小首をかしげ、ふっと微笑んだ。

 「私にも分かりません」

 穏やかに、しかし断言するようにそう告げ、彼は夜空を仰ぐ。

 「しかしこの感情は、知らぬ間に芽生え、もはや取り除くことはできません」

 ちょうどそのとき、風に運ばれるように淡い光の粒が暗闇から舞い上がった。丘の斜面に咲いた光花が、夜風に揺れながらその身を解き放ち、無数の小さな輝きとなって空へ昇っていく。

 星の川へ吸い込まれていく光景を見上げながら、騎士は静かに言った。

 「……貴方のそばに、いたいのです」
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