しあわせな世界


 白い月が、ベランダの石畳をやわらかく照らしていた。
 魔法使いは欄干らんかんに腰を下ろし、頬に赤みを宿したまま、ぼうっと夜空を仰いでいる。
 酒に酔った彼がこんなふうに気を抜く姿は、滅多にないことだった。

 そこへ、若い貴族の男が忍び寄る。

 「――美しい夜ですね」

 彼は魔法使いの背後から声をかけ、軽薄な笑みを浮かべた。
 肝心の魔法使いは、振り返りもせず欠伸をした。

 「……帰れ」

 そう低く、一言だけ吐き捨てる。

 しかし男は怯むことなくその横顔をじろじろと眺め、口元を吊り上げた。

 「冷たいことを。少しくらい、私の部屋で続きを――」
 「俺にれるな」
 「嫌よ嫌よも好きの――」

 手が、彼のローブの肩へと伸びかけた瞬間だった。
 ぐぎり、と音を立てるほどに、その腕が後方へねじり上げられる。
 悲鳴が上がった。

 「な、何を――!」

 背後にいたのは騎士だった。
 顔は一見冷静そのもの。だが瞳の奥には鋭い刃が走り、静かな怒気が滲み出ていた。

 「……れるな」

 唸る声は、血の気が引くほど冷えている。

 「このお方に指一本触れる資格が、貴様にあるとでも?」

 締め上げた腕から、骨が軋む音がした。

 「酔った隙を狙うなど、恥を知らぬにも程がある」

 月光が騎士の横顔を切り取る。
 静かに笑っているようにすら見えるが、その笑みは酷く冷たい。

 「次はない」

 男は呻き声をあげ、必死に謝罪の言葉を繰り返した。「もういい」という魔法使いの言葉に、やっとのことで解放された。
 逃げ去る背中を一瞥することもなく、騎士はすぐに魔法使いの方へ向き直る。

 彼はまだ欄干らんかんに腰をかけたまま、月を見ていた。
 頬に差す赤は酒のせいか、それとも――

 騎士はわずかに呼吸を整え、胸に手を当てて深々と頭を垂れた。

 「……遅れて申し訳ありません」

 彼の謝罪を無視して魔法使いは、宙に手をかざした。指先から、光る蝶が飛んでいく。
 彼の楽しそうな様子に、騎士はため息を吐いた。

 「私が席を外したのを狙って抜け出しましたね」

 魔法使いは騎士を一瞥して、また夜空へ視線を戻した。

 「見てみろ。この蝶はひとつひとつが魔法の理だ」

 騎士は空を見上げる。
 夜風に舞う蝶の光は、まるで大気そのものが震えているようだった。ひとひらごとに淡く瞬き、夜空にすりガラスのような膜を重ねていく。
 魔法使いは赤らんだ頬を上げ、子供のような笑みを浮かべてそれを追う。普段の冷ややかな眼差しからは想像もつかない表情だった。

 騎士はしばし黙って見上げていた。
 光に埋め尽くされる夜空と、白い指先に宿る魔の理。
 ふっと息を吐いて言葉を落とす。

 「……美しいです」

 魔法使いはそれに応えるでもなく、細い石の上に立ち上がった。
 両手をひらりと広げ、空を仰ぐ。そしてそのまま、ゆるりと身体を反らせた。無防備な背がそのまま後ろへ沈んでいく。

 「……っ!」

 慌てて騎士が手を伸ばし、引き寄せた。
 抱きとめた彼の肩は驚くほど薄く、軽い。

 「何をなさるんですか!」

 魔法使いはにやにやと笑みを崩さず、喉の奥で笑い声を転がした。

 「ふふ……そう目くじらを立てるな。お前は俺を落としたりしないだろう」

 その声は酔いの熱を帯び、いつもの鋭さがどこにもなかった。

 「俺はただ、一番最初にこの景色を見せるのはお前がいいと思っただけだ」

 騎士は言葉をなくした。抱きとめた腕から伝わる熱に、妙に鼓動が早まる。
 そっと彼を立たせ、滑らかな白い手を取り、その甲を額へ添えた。

 「ありがとうございます」

 ひんやりとした魔法使いの指先が、熱を持った騎士の額に触れる。

 それは誓いというにはあまりに個人的で、信仰というにはあまりに近すぎた。

 ただ静かに――騎士はその手の温もりを逃すまいと、瞼を閉じた。
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