しあわせな世界

 乾いた風が、荒野を渡っていた。軍靴の群れが遠くに見える。まだ衝突の前の、押し殺されたような沈黙が辺りを覆っていた。

 馬の一行が止まる。
 鎧のきしむ音が、風の中に短く沈んだ。騎士は迷わず馬を降り、すぐに主のもとへ回り込む。

 「どうぞ、お足元にお気をつけてください」

 その声は礼儀正しく、しかしどこか切実だった。けれど魔法使いは彼を一瞥することもなく、裾を翻し、自らの力だけで馬から軽やかに降りる。

 「お前に借りる手などない」

 短く吐き捨てるように言い、そのまま砂を踏みしめて歩き出した。

 騎士は黙って後に続く。その姿は騎士というより従者か、あるいはただの護衛にすぎなかった。

 魔法使いは人にも物にも興味を示さぬ顔で戦場を眺める。
 そして、宙へ手をかざした。指先から光を孕んだ魔法陣が浮かび上がる。その瞬間だけ、唇の端がかすかに持ち上がった。

 ――楽しげに。

 青白い光が幾重にも重なり、旋律のように響き出す。戦場のざわめきに紛れて、それは確かに音楽のように聞こえた。光の矢が放たれ、人々が次々と倒れ伏す。けれどその光景は凄惨ではなく、不思議と静謐でさえあった。

 「……あぁ…」

 騎士はその背中を見つめながら、ため息のようなうっとりとした声を漏らした。

 誰一人口を開かなかった。

 わずか数分後。
 魔法使いの眼下には、敵陣の屍の海が出来上がっていた。

 「お見事でございました」

 彼の背後に、騎士が静かに片膝をつく。鎧の金具が小さく鳴った。
 彼は深く頭を垂れ、次の命を静かに待つ。
 魔法使いはただ横目で彼を鋭くにらみ、唇から冷たく言葉を零した。

 「帰る」

 騎士はゆっくりと顔を上げ、真顔で頷く。

 「承知いたしました」

 しばしの間。魔法使いの瞳が、騎士の忠実さを試すように揺れる。
 やがて彼は短く吐き捨てるように言った。

 「やりすぎだ……いつも通りにしていろ」

 その言葉を受けても、騎士は眉間を動かさない。ただ口元に、わずかに柔らかい影を浮かべて、首を横に振った。

 「いいえ。他の者もおりますので」

 彼の目元には頑なな意思と、仕える者にしか見せぬ温度が宿っている。

 魔法使いは一瞬、言葉を失い視線を逸らした。風が彼のローブを揺らし、乾いた音を立てる。

 「……戻りましょう。夜は冷えます」

 そして二人の影が燃え尽きた戦場を背に、ゆっくりと帰路へと歩み出した。
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