しあわせな世界


 朝一番に書斎へ足を踏み入れた騎士は、その日の魔法使いが纏う空気が違うことに気が付いた。
 ぴりぴりと張りつめた空気が、ちりっと皮膚を焼くように研ぎ澄まされている。
 怒っているのだ。そう直感した彼は、わずかに背筋を正し、声を落として問いかけた。

 「いかがなさいましたか」

 本を閉じる音が、やけに重く響いた。魔法使いは顔をあげ、「お前」と射抜くように言う。

 「――俺の研究室に入ったか」
 「いいえ」

 彼は即座に否定する。あるじの領域を荒らすなど、彼にはあり得ないことだった。
 首を横に振りすぐに、「まさか――」と青ざめる。魔法使いは静かに頷いた。

 「ネズミが入った。かなりの手練れらしい。処理しておけ」

 剣より冷たい言葉に、騎士は深く頭を垂れた。

 「仰せのままに」

 騎士はすぐさま踵を返す。忍び込んだネズミーー侵入者に対する殺意をその瞳に光らせて、英雄は今日も剣を取った。






 血の匂いを纏い、騎士は静かに書斎の扉を押し開けた。
 片手には、赤黒く汚れた本――魔法使いの書が握られている。

 「お待たせしてしまい、申し訳ありません」

 短く言葉を落とすと、魔法使いは魔法でその血を払った。ぱちりと金色の火花が散り、部屋の空気は一瞬清らかさを取り戻す。
 だが、すぐに魔法使いの眉間に深い皺が寄った。

 「……負傷したのか」

 その声に、びくりと騎士の肩が震える。
 どくどくと胸を打つ鼓動の上に、白い指が触れた。

 ふわりと金色の魔法陣が浮かび上がった瞬間――魔法使いのこめかみに青筋が走る。

 「……誰の仕業だ」

 低く抑えた声に、騎士はすぐ答えた。

 「戦闘中に、対象からの干渉を――」

 バチ、と空気が弾ける。
 驚愕に、騎士は目を見開いた。魔法使いの瞳から光の筋が立ち昇っている。

 「バカめ」
 「申し訳ありま」
 「これは呪いだ!!」

 噛みしめるように吐き出された声。

 「俺のモノに、唾をつけるバカがいたか」

 ゆらり、と黒い渦が彼の周りに生まれる。
 思わず膝をつきかける威圧感に、騎士は奥歯をかみしめた。怒り心頭した青い瞳が、騎士を映す。

 「解呪する。そのまま歯を食いしばれ」

 返答を許さぬまま、魔法使いの掌から奔流が放たれる。
 数式のように組み上がる光の壁が空に広がり、円を描いて渦を巻いた。

 爆風が書架を揺らし、全身が引き裂かれるような痛みが走る。

 「――っ!」

 全身を引きちぎられるような痛みに喉を裂く叫び声を残し、騎士の意識は闇に沈んだ。







 目を覚ました騎士の視界に最初に映ったのは、傍らに腰を下ろし、静かに本を繙く魔法使いの横顔だった。
 鉛のように重く、微動だにできぬ体。唇も言葉を形作れないまま、ただその姿を見つめる。

 ぱたり、と本が閉じられる音。魔法使いの青い瞳がこちらを射抜いた。

 「……水を飲め」

 低く放たれた言葉と同時に、水の球が宙を滑り、乾いた口内へ吸い込まれていく。ひんやりとした感触に、わずかに息が戻った。

 「体の調子はどうだ」

 返答はできない。けれど心の中で、もう大丈夫です、と呟いた。
 魔法使いは静かに頷く。

 「そうか」

 その声音は、どこか安堵を滲ませて。

 「……お前が受けた呪いは、元は俺が作ったものだ。普通なら数時間と持たずに死ぬはずだが……お前は随分と丈夫らしい」

 そう言いながら伸ばされた白い指が、汗で張り付いた騎士の髪をふわりと撫で整えた。
 その仕草に胸が詰まる。嬉しいやら、情けないやら、羞恥が一度に押し寄せ、頬が熱を帯びた。

 無表情を崩さぬまま、魔法使いは告げる。

 「もう少し眠れ。回復にはあと数日かかる」

 再び本が開かれる。白い手は離れていった。
 その温もりを、指で掴みとれたら――どんなにいいだろう。
 熱に浮いた頭でそんなことを考えながら、白を視線で追いかけた瞬間、ふいに魔法使いが顔を上げた。

 「……」

 騎士の思考が止まった。
 まさか、と思った次の瞬間、その白い手がきゅっと、動かぬ彼の手を握る。

 「満足か」

 いつもの冷えた声で、何気なく放たれた言葉。
 だが騎士の心臓は爆ぜるように跳ね、全身が真っ赤に染まる。

 ――はい。

 声にはならない。けれど心の奥で必死に叫びながら、騎士は布団の下で身をよじるように全身を震わせた。
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