しあわせな世界
朝一番に書斎へ足を踏み入れた騎士は、その日の魔法使いが纏う空気が違うことに気が付いた。
ぴりぴりと張りつめた空気が、ちりっと皮膚を焼くように研ぎ澄まされている。
怒っているのだ。そう直感した彼は、わずかに背筋を正し、声を落として問いかけた。
「いかがなさいましたか」
本を閉じる音が、やけに重く響いた。魔法使いは顔をあげ、「お前」と射抜くように言う。
「――俺の研究室に入ったか」
「いいえ」
彼は即座に否定する。
首を横に振りすぐに、「まさか――」と青ざめる。魔法使いは静かに頷いた。
「ネズミが入った。かなりの手練れらしい。処理しておけ」
剣より冷たい言葉に、騎士は深く頭を垂れた。
「仰せのままに」
騎士はすぐさま踵を返す。忍び込んだネズミーー侵入者に対する殺意をその瞳に光らせて、英雄は今日も剣を取った。
*
血の匂いを纏い、騎士は静かに書斎の扉を押し開けた。
片手には、赤黒く汚れた本――魔法使いの書が握られている。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
短く言葉を落とすと、魔法使いは魔法でその血を払った。ぱちりと金色の火花が散り、部屋の空気は一瞬清らかさを取り戻す。
だが、すぐに魔法使いの眉間に深い皺が寄った。
「……負傷したのか」
その声に、びくりと騎士の肩が震える。
どくどくと胸を打つ鼓動の上に、白い指が触れた。
ふわりと金色の魔法陣が浮かび上がった瞬間――魔法使いのこめかみに青筋が走る。
「……誰の仕業だ」
低く抑えた声に、騎士はすぐ答えた。
「戦闘中に、対象からの干渉を――」
バチ、と空気が弾ける。
驚愕に、騎士は目を見開いた。魔法使いの瞳から光の筋が立ち昇っている。
「バカめ」
「申し訳ありま」
「これは呪いだ!!」
噛みしめるように吐き出された声。
「俺のモノに、唾をつけるバカがいたか」
ゆらり、と黒い渦が彼の周りに生まれる。
思わず膝をつきかける威圧感に、騎士は奥歯をかみしめた。怒り心頭した青い瞳が、騎士を映す。
「解呪する。そのまま歯を食いしばれ」
返答を許さぬまま、魔法使いの掌から奔流が放たれる。
数式のように組み上がる光の壁が空に広がり、円を描いて渦を巻いた。
爆風が書架を揺らし、全身が引き裂かれるような痛みが走る。
「――っ!」
全身を引きちぎられるような痛みに喉を裂く叫び声を残し、騎士の意識は闇に沈んだ。
*
目を覚ました騎士の視界に最初に映ったのは、傍らに腰を下ろし、静かに本を繙く魔法使いの横顔だった。
鉛のように重く、微動だにできぬ体。唇も言葉を形作れないまま、ただその姿を見つめる。
ぱたり、と本が閉じられる音。魔法使いの青い瞳がこちらを射抜いた。
「……水を飲め」
低く放たれた言葉と同時に、水の球が宙を滑り、乾いた口内へ吸い込まれていく。ひんやりとした感触に、わずかに息が戻った。
「体の調子はどうだ」
返答はできない。けれど心の中で、もう大丈夫です、と呟いた。
魔法使いは静かに頷く。
「そうか」
その声音は、どこか安堵を滲ませて。
「……お前が受けた呪いは、元は俺が作ったものだ。普通なら数時間と持たずに死ぬはずだが……お前は随分と丈夫らしい」
そう言いながら伸ばされた白い指が、汗で張り付いた騎士の髪をふわりと撫で整えた。
その仕草に胸が詰まる。嬉しいやら、情けないやら、羞恥が一度に押し寄せ、頬が熱を帯びた。
無表情を崩さぬまま、魔法使いは告げる。
「もう少し眠れ。回復にはあと数日かかる」
再び本が開かれる。白い手は離れていった。
その温もりを、指で掴みとれたら――どんなにいいだろう。
熱に浮いた頭でそんなことを考えながら、白を視線で追いかけた瞬間、ふいに魔法使いが顔を上げた。
「……」
騎士の思考が止まった。
まさか、と思った次の瞬間、その白い手がきゅっと、動かぬ彼の手を握る。
「満足か」
いつもの冷えた声で、何気なく放たれた言葉。
だが騎士の心臓は爆ぜるように跳ね、全身が真っ赤に染まる。
――はい。
声にはならない。けれど心の奥で必死に叫びながら、騎士は布団の下で身をよじるように全身を震わせた。
