しあわせな世界

 一週間後に迎えに来ると視察に出かけた魔法使いは、約束の日が過ぎても帰ってこなかった。
 その翌朝から、騎士は妙に落ち着かない。

 庭の水桶を担ぎながら、何度も空を仰ぐ。洗濯物を干しては、風に揺れる白布の向こうに影が差すのを期待してしまう。家の軒先で蝶番の緩んだ扉を直しながらも、ハンマーを握った手が止まるたび、視線は無意識に雲の切れ間へ。

 「……まだか」

 母が声をかけると「すぐ行くよ」と答えるが、皿を拭いている間に窓辺へ吸い寄せられる。スープをかき混ぜる手は、空の気配を探るたびに止まってしまう。
 まるで魔法使いが今にも黒い外套を翻して降り立つのでは、と錯覚するのだ。

 夜は夜で、眠りに落ちる寸前まで耳を澄ませている。外を吹き抜ける風のざわめき、遠くで鳴く夜鳥の声、どれも彼の乗るドラゴンの翼音に聞こえてならない。

 一日、二日、三日。
 待つほどに心はせわしなく、じっとしていると胸の奥でざわめきが暴れる。だからこそ、棚のぐらつきを直し、花壇の土を耕し、店の壊れた看板を修繕する。
 手を動かしていないと、気が狂いそうだった。

 けれど、空を仰ぐ癖だけは抑えられなかった。雲が裂ける音すら聞こえぬのに、昼も夜も、ひたすらに。
 あの人が、翼を広げて帰ってくる瞬間を――今か今かと待ち焦がれながら。


 幼馴染の女性が店先に現れたのは、午後の光が傾きかけた頃だった。

 「ひさしぶり!」

 花籠を抱えたまま振り向いた彼の顔に、はじけるような笑みが向けられる。数年ぶりの再会に、彼女は子どもの頃のように目を輝かせて話しかけてくる。変わらない温かさが胸に刺さり、彼は一瞬だけ笑みを返すが――心はどこか宙ぶらりんだった。

 日を追うごとに、店を訪れる客は増えた。いや、客というより見物人と呼ぶほうが正しいのかもしれない。
 国を代表する魔法使いに引き抜かれ、今でも前線で勝利を上げ続ける騎士だ。英雄と名を馳せ、なおかつ独り身で、浮いた噂すらひとつもない。
 その騎士が、今この町にいる――ただそれだけで、花屋は「完売御礼」の札を掲げざるを得なくなるほどの賑わいを見せていた。

 けれども彼にとって、それは喧騒にすぎない。

 「……居心地が悪い」

 そうつぶやいた息子を見て、両親はすぐに眉をひそめた。気の毒そうな目が彼に注がれていた。

 町中がざわめきに包まれたのは、午後の澄んだ鐘の音が響いた直後だった。

 「ドラゴンだ!」

 誰かの叫びを皮切りに、人々の声が一斉に波立つ。花籠を手にしていた彼の耳にもそれは届き、弾かれたように顔を上げた。

 長く鬱屈とした影を落としていた表情が、瞬く間に晴れわたっていく。
 目の奥に灯った光は、まるで誕生日にろうそくを吹き消す少年のそれのように無垢で、輝かしかった。

 気づけば剣も鎧もないまま、彼の足は走り出していた。
 ぽかんと口を開けたまま、町の人々はその背を見送る。英雄と呼ばれた騎士が、戦場へではなく、待ち望んだ誰かの元へ駆けていく姿を。

 町はずれの森の縁。
 舞い降りたドラゴンの巨体が枝葉を揺らし、地を震わせる。
 人間離れした速度で追いついた彼は、息を乱すこともなく片膝をつき、深々と頭を垂れた。

 その背から軽やかに飛び降りた影――魔法使いは、風に揺れる外套を払うように片手を振って。

 「腹が減った」

 開口一番、投げられた言葉はそれだった。

 抑えきれず緩む口角。頬がにやにやと緩んでいく。

 「お待ちしておりました。食事にしましょう」

 顔を上げた騎士の瞳は、歓喜と安堵の光を宿して、ただひたすら眩しげに己の主を映し出していた。

 「……こんなに嬉しそうな顔をする奴だったか」

 眉間に皺を寄せ、魔法使いは吐き捨てるように呟く。
 けれどその視線を真っ直ぐ受け止める輝きに、ぐっと唇を噛み、視線を逸らした。胸の奥が熱を帯びるのを、誰にも悟らせまいとするように。
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