YOUTH
3年目1月中旬 単発バイト再び
琥一side
スタッフ用の黒いジャケットを羽織って、首元にネームタグ。
普段の制服でもないし、私服でもない。少し窮屈な感じがするのに、別に嫌じゃなかった。
理由は簡単だ。前の壇上に立ってる、あいつがいるからだ。
――楓。
光を反射するような薄いグレージャケットに、いつものリングのピアスと、俺がやったサクラソウのピアス。
言葉は柔らかくて丁寧で、でもどこか一歩引いた距離がある。
それでも、目の前の観客たちはみんなうっとりしている。
今日のファン層も、年齢高めの女性ばかりだ。あの年代には、あいつの礼儀正しさと料理の知識の深さがぐさっと刺さるんだろう。
「次の方、こちらへどうぞー」
俺は会場整理の担当で、列を区切る仕事。これでも何度目かの手伝いで、段取りもだいぶ慣れたもんだ。
隣の女性スタッフと手短に確認して、列を送る。
そんなときだった。
男の客が一人、列の端からひょいと滑り込むように前に出てきた。
「すみません、ちょっと……」
スタッフが慌てて止めようとした瞬間、そいつはすっと楓の前に進み出た。
サインを求めるように紙を差し出した、その次の一瞬だった。
振りかぶる、拳。
刹那、周囲の時間が遅くなったような気がした。
楓の睫毛が揺れて、その顔から笑みが消えた。
足が勝手に動いた。
気づけば俺は男の背中に飛びつくようにして、右腕を引き下げ、肩をロックする形で羽交い締めにしていた。
「おい、落ち着け」
声に棘はない。でも、反射で固まった男の身体は俺の腕の中でびくっとした。
暴れる力を一度いなして、腰を落とし、関節の可動をロック。体がそこまで勝手に動いて、最後の一歩を意志で止める。
「や、やめろ!俺はただ、話を――」
「話し合いに拳はいらねぇだろ」
背後から警備員が駆け寄ってきて、俺は静かに手を離した。
男は「ファンレター送ってんのに、冷たくされた!」とか何とか叫んでたけど、もう誰も聞いてなかった。
ふと視線を前に戻すと、楓がまだ椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
俺は小さく手を上げて、「大丈夫だ」って目で返す。
楓はにやっと笑って、親指を立てた。なんとも呑気なヤツだ。
「…ったく。男にもモテんだよな」
俺は手のひらを握ったり開いたりしながら、肩を回す。
殴ろうと思えば殴れた。前までの俺なら、間違いなくぶん殴ってた。
「別にお前のためじゃねぇぞ」
独りごちた言葉は、自分に言い聞かせた言葉で。
そう。楓のためじゃない。
喧嘩をやめたのは、自分のためだ。
なんたって俺の人生は、
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控室のソファに、楓はそっと腰を下ろした。
まだ拍手の余韻が外に残ってる。けれど、ここは嘘みたいに静かだった。
「お疲れ様。ありがとう今日も」って楓はコーヒーカップを渡しながら言う。
俺はそれを受け取って一口飲んだ。
二人して深く息を吐きながら、ソファに沈む。体がでかい俺たちは、それだけで布のこすれる音が鳴った。
「俺が……殴ると思ったか?」
ぽつりと口をついて出たのは、そんな言葉だった。
手を出さずに終わった自分を、自分でまだ少し信じきれずにいたのかもしれなかった。
楓は不思議そうに目を瞬かせてから、あっけらかんと笑った。
「いや?」
それだけだった。なんでもないことみたいに、軽く小首をかしげて。
それだけで、さっきまで張ってた背中の緊張が、ふっと抜ける。
「むしろ、琥一が殴られたら――僕も一発、もらおうかと思ってた」
「は?」
何言ってんだコイツって顔をしてしまった。
なのに、楓は子どもみたいに笑って、気づけば俺の顔をむにむにと両手でつねってきた。
「……なっ」
抵抗する間もなく、柔らかな指が俺の頬をもんで、揺らして、ほぐすように。
まるで、怒った感情ごと撫で落としていくみたいに。
「琥一が無事でよかった」
そう言って、ふっと笑った。
ぱっと腕を広げて笑う楓に、俺もつられて口元が緩む。ガラにもなくその腕に飛び込んで、背中に腕を回した。
「お前もでっかくなったなぁ」
そんな年寄りみたいな言葉が出て、自分で笑ってしまう。
出会ったときは、20センチ近い差があったのに。今はたったの5センチだ。
楓も吹き出してから、「琥一には追い付けてないけどね」って耳元で言った。
「あ”ー…卒業したくない」
「…俺もだ」
「ふふ…僕ら、卒業しても友達だよね?」
その声が優しくて、あったかくて――不意打ちみたいに胸に染みる。どうもこいつが絡むと、俺は女々しくなる。
「ったりめーだ、バカエデ」
ああもう、と思う。
勝てねぇんだよ、こいつには。
