YOUTH

3年目10月下旬 柔らかな感触
主人公side


 コンロの奥で煮物がふつふつと音を立てている。
 菜箸で軽く混ぜながら、味を染み込ませるタイミングを計っていた。
 煮汁の香りが湯気にのって、キッチンに漂う。
 静かで、穏やかな、夕方。

 リビングでは、妹が体育座りのまま黙っていた。音のない部屋の中で、彼女はうつむいたまま、微かに揺れているようにも見えた。

 「もうすぐごはんできるよ」

 声をかけてみる。けれど、返事はなかった。

 ふと自分の腕のピントが合う。あざだらけの腕だ。

 扉の開く音。
 玄関のがちゃ、という音がした瞬間、空気が変わった気がした。
 ごつ、ごつ、と乱れたリズムの足音が近づいてくる。

 「父さん、おかえりなさ――」

 言い終えるより早く、熱が、腰のあたりに流れ込んだ。

 「……え?」

 首をねじって視線を落とすと、Tシャツの白がじわりと赤に染まっていくのがわかった。異物感とともに、刃が肉の奥へ食い込んでいる。

 その光景に、驚きや恐怖は湧かなかった。

 顔を上げると、父さんの目と合う。
 真っ赤に血走ったその目には、光も理性もなかった。まるで、火の消えたストーブのような――不気味な静けさ。

 「父さん、どうし――」

 問いかけは痛みで掻き消される。
 もう一度振り下ろされたナイフが、足に刺さった。
 声がうまく出せない。身体が思うように動かない。もうこれでは走れないのだと悟る。
 リビングに目をやった。

 妹はまだ、端で縮こまったままだ。
 動かない。息をしているかもわからない。
 でも、あの子にだけは――と、思った。

 僕は父さんを抱きしめるように、腕を回す。
 足がもつれて、二人して転んで、大きな体の上に転がった。
 顔をあげて、妹を見る。

 「……走って」

 掠れた声でも、届いてほしいと願った。

 「早く、走って」

 妹の目が、かすかに見開かれる。
 僕を見ていた。怯えた瞳が、僕から玄関へ動く。

 そのまま彼女は立ち上がり、駆けていく。
 がちゃ、と玄関の鍵を開ける音。
 足音が、遠ざかっていく。

 僕は笑った。
 肩のあたりをまた違和感が襲ったが、もう痛くはなかった。

 床に広がっていく赤と、僕を見下ろしている父さん。
 指先がじんわりと痺れていく。

 ”僕はどこで間違えたんだろう”

 そんな疑問が、意識の底で煙みたいにくすぶっている。





















 何か――柔らかいものが、口元を塞いでいた。

 ふ、とした熱。
 けれどそれは押しつけるでもなく、触れるか触れないかの軽さで。意識の底から浮かび上がるように、わずかに口を動かすと、そのぬくもりはすっと離れていった。

 まぶたが重たかった。
 砂を貼りつけられたように開かない。
 ようやくほんの隙間だけ目を開けると、視界いっぱいに、琉夏の顔があった。
 きれいな眉が少しだけ下がって、心配そうに僕を覗き込んでいる。

 「大丈夫?お見舞い来たよ」

 声もまた、熱に包まれているようで。
 耳に届くのに、どこか遠い。

 ――ああ、そうだ。
 熱を出して、倒れたんだった。

 起き上がろうとした体に、激しい痛みが走った。節々がひどく軋んで、皮膚の下を鋭い棘が這うような感覚。喉は焼けるように乾いて、呼吸するのも辛い。

 「無理に動かないで。寝てて」

 そう言って、琉夏はベッドの脇に腰を下ろした。

 「フルーツいっぱい買ってきたから、ばあちゃんに渡したよ。りんご剥いてもらったけど、食べる?」

 少し高めの声が、優しく波打つ。
 冷たい汗に濡れた体の奥に、じんわりと沁みていく。

 「…あとで、いただきます」

 ひとこと返すのがやっとで、声が自分のものとは思えないほど、掠れていた。

 「体、きつい?」

 うなずく代わりに、視線だけを動かした。その小さな仕草を琉夏はしっかり受け取って、そっと僕の顔に手を当てた。

 「まだ熱あるね」

 冷たい手だった。熱のこもったおでこが、やっと人間の温度を思い出す。

 「ばあちゃんが、あとで氷枕変えてくれるって。それまで、俺が冷やしとく」

 そう言って、また琉夏の指が僕の髪に触れた。

 髪をなでる手。そのリズムは心臓の鼓動よりも静かで、確かで。

 頭がぼんやりしているせいか、
 何もかもが夢のなかみたいで――

 「カエデ、うなされてたよ」

 「……刺された瞬間の夢…を見てた」

 自分の口から出たその言葉なのに、まるで他人のことを話しているみたいだ。
 琉夏は黙ったまま、ただ僕の手をきゅっと握ってくれた。
 ひんやりとした彼の手のひらが、火照った体に心地いい。

 「琉夏」

 名前を呼ぶと、琉夏は一度だけ静かにまばたきして、僕を見た。

 「なに? カエデ」

 「……前の父さんとお母さん、、、、、、、、、、は、どんな人たちだったの?」

 深い茶色の瞳が、ふっと揺れた。
 長いまつげの奥で、何かを手放すように目を細める。どこか懐かしさをなぞるような、遠い微笑みだった。

 「……二人とも、すっごく優しい人達だったよ。きっとどこにでもいるような、平和な三人家族だった」

 「そっか……会いたい?」

 問いかけると、琉夏はほんの一瞬だけ、目を伏せて。

 「……うん」

 その肯定に、涙が出た。

 「……カエデ、泣かないで」

 「ごめ…泣きたいのは…君の、方なのに…」

 彼の痛みに手を差し伸べたいのに、どう言えばいいのかわからなかった。
 ただ瞼が震えて、涙がこぼれ続けた。

 なぜ泣いているのか。
 どこまでが自分のためで、どこからが彼のためなのか。
 境界線なんてもう、とっくに消えてしまっていた。

 ぐちゃぐちゃの感情が、胸の奥で暴れてる。

 「行かない、で」

 掠れた声が、懇願する。

 「どこにも行かないよ。」

 「…うそだ」

 「ホント」

 布団の中に、琉夏が入ってくる。彼の腕の中は、フルーツの香りがした。

 「こうしてれば、安心する?」

 「ん…」

 喉から出る熱い息が、琉夏のシャツにかかる。まだ流れ続ける涙が、じわっと染みていく。それでも彼は、僕を離さない。

 「オマエといるよ」

 「うん……」

 「いてもいい?」

 「うん…」

 熱に浮かされた脳みそが、うまく働いていない。

 「カエデ、大丈夫?」

 冷えた手が、頬に添えられた。そっと目を開けるけど、視点があわない。ぼやけた視界のまま、ふらふらと視線をさまよわせる。

 「カエデ」

 「………」

 ふわ、と。何かが口に当たった。
 冷えた柔らかいものが、じっと何かを伝えてくる。

 言葉のない静けさのなかに、彼のあたたかさがあった。

 迫りくる眠気の中に、僕は意識を手放した。
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