YOUTH

2年目9月中旬 修学旅行
主人公side


 夜の空気は思ったより冷たかった。息がふっと漏れたとき、肩を引かれた。

 「オイ」

 耳元で低く声が落ちてくる。見上げれば、琥一君が自分の服を差し出している。 

 「…え、何?」

 「着替えろ」

 「え?」

 返事を待たずにずんずん歩いていく背中を見送りながら、僕は言われるまま服に袖を通した。ちょっとサイズが大きくて、袖が肘まで落ちてくる。裾も少し長くて、歩くたびに揺れた。

 ホテルの影を抜けて、敷地を出たところで、琉夏君が手を振っていた。

 「カエデ、サイズちょっと大きい?今からでも俺のと交換する?」

 「いやこのままでいいよ。それより、どこ行くの?」

 「ついて来いって」

 そう言われて細い路地を抜けた先、小さな木造の店が現れた。看板には、ひらがなでゆるく『かにのよしだ』と書いてある。知らなければ絶対に見逃してしまうような、地元の匂いがぷんと漂う場所だった。

 店内は古い演歌が低く流れ、壁には地元漁師の寄せ書きと色あせたサイン入りのカレンダーがぶらさがっている。

 店の中には、もう鍋が用意されていた。ぐつぐつと音を立てる湯気の向こうに、真っ赤に茹でられたカニ。

 「……カニ?」

 「カニ」

 「な、なんで?」

 「北海道といえばカニだろ。学年の夕飯じゃ出ねぇからな」

 「ごちゃごちゃ言うな」って琥一君はぶっきらぼうに言ったが、なんとなく顔が嬉しそうだった。

 三人で座敷にあがり、湯気を分け合いながら箸を伸ばす。初めて食べるわけじゃないけど、こうして友達と囲むカニ鍋って、なんだかずっと特別な味がした。

 「……おいしい。出汁がしっかり出てる」

 「カニの感想を言え」

 「えっと……カニの味がします」

 「本当に料理研究家かよお前は」

 笑いながら琥一君は、今ゆでたばかりの身を器用に殻から外して、僕の皿にそっと置いた。

 すかさず琉夏君が口を挟む。

 「違うよ、コウ。カエデは“出張シェフ”だよ」

 「そう……ん?」

 僕は箸を止めて、二人を見た。

 「……なんで知ってるの?そういえば」

 自然な顔で当たり前みたいに言った二人に、思わず問いかけると、二人とも目をぱちぱちさせた。

 「コンビニに、お前が載ってる雑誌売ってた」

 琥一君が言う。さらりと。

 「え”っ」

 思わず、情けない声が漏れた。

 「なんだ、秘密だったんか?」

 「いや……そういうわけじゃないけど……」

 頭が熱くなる。なんだろう、この気持ち。隠していたわけじゃないけど、気付かれたくなかったというか、僕の日常が、知らず知らず“二人”に届いていたことに、妙に照れくさくなった。

 「いーじゃねぇか、減るもんじゃねぇし」

 「そうだよ。雑誌のカエデ、すごくかっこいいし」

 そう言ったのは、琉夏君だった。何気なく口にしたみたいなその声に、顔の熱が引かない。

 「ほんと、キマってた。普段のカエデじゃないみたいで、ちょっとびっくりしたけど……うん、なんか分かんないけど、嬉しかった」

 「そうだな。あんな真面目な顔すんのな、お前」

 「琉夏君はありがとうだけど、琥一君はなんか違う……」

 「褒めてんだろうが」

 目の前の湯気が急にまぶしくなって、僕はカニの甲羅に目を落とした。
 でも、口の端が笑ってしまうのは止められなくて。

 「……ねぇ、連れてきてくれてありがとう。カニも……美味しいけど、こうして食べるのが、一番うれしい」

 「おー、じゃあもう一匹いくか?」

 「今度はカニじゃなくて、ラーメンとかでもいいかも」

 「もうシメの話かよ」

 笑い声と湯気が絡まって、部屋があったまる。
 彼らは蟹の足を一本ずつ丁寧に割り、中の身を無駄なく取り出し、食べ続けた。

















 修学旅行三日目の夜。

 「……はぁ……」

 ガラス越しに映る自分の顔が、げっそりしてるのがわかった。ノートパソコンの光はもう目にしみるだけで、カーソルの瞬きが妙に虚しく見える。

 修学旅行──それは本来、もっと自由で、わくわくして、誰かと笑い合えるもののはずだった。でも、僕のスケジュール帳は、今日もびっしりと埋まっていた。
 仕事の締切、やらなきゃいけない確認作業、対応の連絡……
 旅先で仕事なんてしないように調整したはずだったのに、どうしてこうなるんだろう。

 ため息をついたそのときだった。

 「カエデ、ちょっと来いよ」

 ノックの音もせず、すっとドアを開けて顔をのぞかせたのは琉夏君だった。
 いつもの、飄々とした顔。けれど、どこか目の奥に焦りのような、もどかしさのようなものが滲んでいた。

 「……なにかあった?」

 そう尋ねる間もなく、彼は「いいから」とだけ言って、僕の手首を軽く引いた。
 冷たい廊下。パーカーを羽織るのも忘れて、僕は慌てて後ろをついていった。

 「夜もやってる喫茶店があるんだ、昔行ったことがある」

 その言葉に、足を止める。
 “昔”──?
 彼の口からその響きが出るのは、なんだか珍しい気がした。

 「どうだった?今日の観光。」

 道すがら、ぽつりと尋る。
 ライトに照らされた雪が、アスファルトの端で静かに溶けていた。

 「まぁ、普通だよ。小さな町だからね、あんまり変わってない」

 「……変わってない?」

 その一言に、琉夏君はふっと笑った。

 「ここで生まれたんだ」

 少しだけ、遠くを見るような瞳だった。

 「へえ知らなんだ。君らは北海道生まれなの?」

 なんとなく、流れで出た言葉だった。けれど、彼の返事は少しだけ、間が空いた。

 「ん?あぁ、そうか。えっと……この話は、またいつか」

 それが触れたらいけない話だということは、すぐにわかった。
 だから僕も、それ以上はなにも言わず、黙って彼の背中についていく。

 夜の喫茶店は静かだった。僕はメニューの端に手を置いていた。

 「ラテでいい?」

 「うん」

 出されたラテの湯気に、指先をかざす。少しずつ、心がほどけていくのを感じながら。

 「明後日の自由行動は、一緒に行ける?」

 静かな声で尋ねられて、僕は一瞬、固まった。
 タスクは山積み。正直、自信はない。
 でも一度しかない修学旅行の思い出をそれだけで潰す気なんてさらさらない。

 「まわれる。頑張る」

 「無理はすんなよ」

 そう言われて、思わず笑ってしまう。
 だって、無理をしてでも一緒にいたいと思ったのは、僕のほうなんだから。

 「連れてきてくれてありがとう」

 そう言った僕に、琉夏君は何も言わなかった。ただ、カップを手に取って、ひと口だけラテを飲んだ。

 そして──その目が、どこか懐かしそうに細められる。
 少しだけ胸があたたかくなった。

















 修学旅行、最終日。

 夜もひたすら仕事をこなしていたせいで、移動時間はほとんど意識がなかった。
 バスのシートに身体を預けると、ふっと目の前が暗くなって、そのまま夢と現実のあいだを漂う。
 疲労感は、ふわふわと身体の外にまとわりついていて、地面を歩いているのか浮かんでいるのかわからないくらいだ。

 それでも、二人と一緒に歩くこの時間は不思議と心地よかった。
 観光地の並ぶ店のあいだを、ふらふらと歩きながら、ふと視界に入った小さなガラス張りの店に目が留まる。
 木の看板には、手描きの文字で「handmade accessories」と書かれていた。
 中にはピアスや指輪、ブレスレットが並んでいて、窓際に吊るされたサンキャッチャーが風に揺れていた。

 「あのさ」

 思わず、二人の背中に声をかけていた。
 振り返った二人の顔は、なんだか妙に懐かしい。

 「どうした、カエデ」

 「ん?」

 僕は少しだけ頬をかいてから、視線をアクセサリー屋に向ける。

 「せっかくだから二人で、僕に似合うの選んでくれない?」

 そう言って、ガラス越しに並ぶアクセサリーを指さす。

 「……へぇ」

 「珍しいな、オマエがそんなお願いすんの」

 意外そうに目を丸くした二人は、それでもすぐに目を細めて笑った。

 「いいじゃねぇか、面白ぇ」

 「カエデがそう言うなら、任せてよ」

 そんな会話を交わしながら、僕たちは小さなアクセサリー店の中へと入った。
 ショーケースの前で、兄弟がやいやい言いながら僕の耳元にピアスを当てる。

 「こっちは? んー……悪くないけど地味か?」

 「これ、かわいい。ちょっと丸っこい」

 「でもこれはさすがに派手すぎだろ、普段使いできねぇよ」

 「でも顔がきれいだからなんでも似合うんだよねー」

 「確かにな」

 笑いながら、左右の耳に交互にピアスを当てられる。
 ひんやりした金属が肌に触れるたび、少しくすぐったい。

 最終的に、選ばれたのは小ぶりのシルバーリング。
 500円玉くらいのサイズで、主張しすぎず、でも存在感はあった。

 「これじゃねぇか?」

 「うん。かわいい。耳にきれいに沿うし」

 「じゃ、これで決まりだな」

 「ありがとう」って僕が財布を取り出しかけると──

 「バカエデ。俺らが払うに決まってんだろ」

 琥一君の手が僕の肩をぐっと押し返した。

 「えっ、でも僕が言い出したことだし」

 「いーんだ。誕生日とかじゃないけど、これが俺らからの……なんていうか、記念」

 「土産ってことでいいじゃねぇか」

 そう言って兄弟はレジに並び、包装されていないピアスを差し出してくる。
 「なあ、今つけていいか?」って琥一君が首を傾げた。

 「え? うん……いいよ」

 ファーストピアスを外すのは、これが初めてだった。
 去年の9月に開けて以来、ずっとそのままにしていた。

 どこか儀式めいた空気の中で、兄弟はそれぞれの手で僕の耳にそっとピアスをつけてくれる。
 左耳を琉夏君が、右耳を琥一君が。

 「……ん。いい感じ」

 「似合ってんじゃねぇか」

 小さな笑い声がこぼれて、気づけば、ピアスをつけてもらった僕よりも、二人のほうがずっと嬉しそうな顔をしていた。

 「一生大事にします…」

 「大げさだな、おい」

 「壊れちゃってもすぐ新しいの買ってあげるからね。すぐ教えて」

 そっとピアスに触れる。
 リングは静かに揺れていた。


















 ぐらり、とした揺れが、まどろみの奥に染み込んできた。
 まぶたが、じんわりと焼けるように熱い。
 かすかに頬に触れるのは、夏の終わりを知らせる夜風。
 ──なんで僕、外にいるんだっけ。

 ゆっくりとまぶたを持ち上げると、見覚えのあるシャツの背中が視界いっぱいに広がった。
 琥一君の、しっかりとした広い背中。
 そこへ、僕はおぶさっていた。

 「……え?」

 思わず息が漏れる。

 「お、起きたか」

 琥一君の低い声が、首のすぐ下から届く。振り向きはしないけれど、声にふっと笑いが混じっている。

 「やっとだね、カエデ」

 横を歩いていた琉夏君が、荷物を両手に抱えながら覗き込む。

 「バスでも飛行機でも全然起きないから…結局家まで来ちゃった」

 「え……まって、そ、それって……」

 膨れ上がる記憶の空白。
 確かに、北海道でピアスを買ってもらって、バスに乗って、それから──もう、まるきり覚えてない。

 「全部……?僕……」

 「うん、全部」

 琉夏君はくすっと笑って答える。
 だけど、決して責めるような声じゃなかった。

 「……ごめん……」

 情けなさが喉の奥をひりつかせる。
 ふがいなくて、恥ずかしくて、こんなにまで二人に甘えていた自分が悔しかった。
 高校生にもなって、まともに自分のことすら面倒見られないなんて。

 僕は、首の後ろをぎゅっと握りしめるようにして、小さく背中で縮こまった。

 けれど。

 「……バカエデ」

 琥一君の声は、思いのほか優しかった。

 「二徹もして、俺らとの自由行動に間に合わせようとしたの、知ってんだぞ」

 「うん。無理してたの、ずっとわかってた」

 琉夏君も、まっすぐに言葉を繋いだ。

 「ありがとうね、俺らんために。嬉しかったよ」

 「だから謝んな」

 琥一君が、ぽん、と僕のお尻を支えるようにして叩く。

 「俺ら、助けられてばっかだからよ。たまには甘えとけ」

 言葉が胸にぽとりと落ちて、広がっていく。

 「ありがとうは僕もだよ…」

 消え入りそうな声で言うと、琥一君は「ん」とだけ返した。
 歩く振動が、肩にかかる風が、どこまでも心地よい。

 帰ってきたのだ、と思う。
 夏の終わりの匂いがする、この町へ。
 そして──僕が、心から安らげる、この二人のもとへ。
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