YOUTH

2年目6月中旬 ばらばらの家族


 路地の角。
 遠くから聞こえた声に、琥一が足を止めた。

 「……今のカッちゃんじゃね?」

 琉夏が振り返る間もなく、彼の視線はもう人混みの隙間を抜けていた。

 ふたりの視線の先。
 夕暮れのビルの影に立っていた楓が、三人目の影と対峙している。
 その相手は、見覚えのあるヨタカドの不良二人。

 「……あいつら!」

 琉夏が一歩踏み出したそのとき、琥一がその腕をつかんだ。

 「ちょっと待て……”現場”を押さえんだろ?」

 「っ」

 珍しく、琥一の声に苛立ちがなかった。
 むしろ冷静だった。けれど拳を握る音が聞こえるほどに、指先に力が入っていた。

 視線の先で──
 大きな影2つに挟まれた楓がたたずんでいた。

 一方的にからんでいるヨタカドの一人が、大きく振りかぶった。しかし楓はじっとそれを追っている。飛んでくる腕に首を傾け肩をずらし、足を引いて。
 まるで水の流れのように、すり抜けた。
 兄弟ふたりはほぼ同時に息を飲んだ。

 「……カッちゃ」

 琉夏の声が、かすれた。

 喧嘩慣れしていればわかる。
 “戦える人間”の動きではないが、“殴られたことのある者”の動きだ。それも“ある程度経験のある”人間の。それこそ、”毎日でも殴られながら学んだ動き”だった。

 何度も腕を振りかぶる二人の間を、楓は体を捌きながら避けていく。

 衝撃を受ける前にかわす。
 踏みこまれたら一歩引く。
 目を逸らさない。表情を読ませない。反応を見せない。

 「…チッ」

 琥一が舌打ちをした。

 ぞわりと背中をなにかが這い上がるような、嫌な感覚。
 黙っていられない。堪えられない。

 「……もう、いいだろ」

 琉夏が走った。
 ブーツの底がアスファルトを叩く音が、風にまぎれて響いた。

 楓がちょうど背を向けて拳を避けた瞬間、その腕を琉夏が強く掴んだ。

 「……っ琉夏君?偶然だね」

 振り返った楓の顔に驚きが走る。
 その手を離さず、琉夏は言った。

 「走るよ」

 「えっ、でも……」

 「走れって言ってんの。俺が今、絶対見たくねえもん見たから」

 楓が驚いたまま、けれど抵抗しなかった。その手を引いて琉夏は走り出す。
 まるでなにかから引き離すように。置き去りにされた怒りと、重たい違和感を振り切るように。

 夕暮れの雑踏のなか、ふたりのシルエットが細く遠くなっていった。
 あとに残った琥一は、ポケットの中で拳を握ったまま、しばらくそこから動けずにいた。

















 夜風が、ほのかに湿気を含んでいる。
 誰もいない公園のベンチに、楓と琉夏は並んで座っていた。

 重たい沈黙。
 二人とも、言葉なんて出せるような状態じゃない。
 走ったあとの心臓の鼓動だけが、耳の奥でずっと響いている。

 出し抜けに、暗闇の中をエンジン音が近づいてきて、SR400のヘッドライトがベンチを照らす。バイクを停め降りてきた琥一が、二人の前に立った。

 「おめーら、黙ってちゃ始まらねぇだろ」

 そう言って、自販機で買ってきたばかりの冷えた炭酸を一本ずつ差し出した。受け取った二人は、無言のままキャップをひねる。
 プシュッという音が、やけに大きく響いた。

 琥一は楓の目の前にしゃがみ込んだ。
 痛々しいほど真剣な色素の薄い茶色の瞳が、じっと楓を覗き込む。

 「カッちゃん、お前」

 一呼吸おいて、静かに言った。

 「殴られ慣れてんな。どういうこった?」

 ふっと楓は、自然に笑ってしまっていた。
 「……嫌な言い方だね」と諦めたみたいに言いながら、缶の縁を指でなぞる。
 しばらく黙った後で、「うーんとね」と彼は口を開いた。

 「父さんが、結構……そういう人だったから」

 夜の空気がすこし動いた。
 二人は何も言わず、ただ静かに聞いていた。

 「母さんは妹を生んでからいなくなって。僕は妹と、父さんと住んでた」

 言葉が途中で詰まったわけじゃない。ただ、どこから話せばいいのかわからないまま、楓は息を吸った。
 琥一は眉をしかめていた。
 琉夏は視線を落としたまま、拳をぎゅっと握っていた。震えた彼の唇が、静かに動く。

 「オマエの身体の刺し傷も、それ?」

 やや目を見開いた楓は「見られたか」と破顔した。いたずらが見つかった子供みたいな笑顔だ。

 「そうだよ。中学3年の時に、父さんにやられたやつ。」

 「じゃあ高校でこっちに越してきたのって」

 「…うん。今は引き取ってくれた父方の…祖母の家に住まわせてもらってる。」

 ふっと、風が吹いた。
 話してしまえば、少しだけ肩が軽くなったような気がした。

 「ごめんねこんな話。重いでしょ」

 琥一はきゅっと楓の手を包んだ。まるで親の仇を見るような瞳で、じっとどこかを睨んでいる。

 「……ぶん殴らせろ。そのクソ親父」

 楓は思わず吹き出しそうになった。
 でも笑いが引っ込むくらい、琥一の目は本気だった。

 炭酸のしゅわしゅわという音が、静かな夜に弾ける。楓はじっと、その消えていく泡を見ながら言う。

 「僕の家族は、ばらばらなんだ」

 言葉にした瞬間、簡単な過去になってそれは消えていく。

 「もう……母さんがどこにいるかも、父さんがどうなってるかもわからない」

 「お前の妹は?」

 「違う親戚のところ」

 ふたりは何も言わなかった。
 楓は息を吐いた。反応を待つ自分がいて、けれど答えなんて、欲しいわけじゃなかった。

 でも──
 唐突に、肩を引き寄せられた。広い肩口に額を預けながら、楓はつづけた。

 「…僕、二人に謝らなきゃいけないんだ」

 「何。絶対許すけど、一応聞いてあげる」

 琉夏が、楓を抱きしめて低く断言した。
 布が擦れる音が、夜の静けさにひどく際立つ。

 「…家族から離れて一緒に住んでる君たちに、本当は、心のどこかで……親近感を抱いてた。何か訳ありみたいな君たちなら、もしかしたら、少しでもわかってくれるんじゃないかって思ってた…」

 震える琉夏君の背中にそっと手を回して、僕は肩を撫でる。

 「……ごめんね」

 「バカエデ」

 耳元で落ちた低いそのひとことに、叱るような、抱きしめるような温度があった。

 「謝んな。オマエは、なんも悪くないだろ」

 「………っ」

 「オマエは、何も悪くない。」

 楓の耳元に、琉夏の声が震えながらまっすぐに落ちた。ぎゅっと心臓を掴まれたような、そんな感覚に楓の瞳が歪む。

 悪くない。何も、悪くない。
 それは楓が、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。振り上げられる大きな拳と、絶対的な圧力に何度も意識を飛ばしながら。
 なぜ自分なんだと、自分が何をしたんだと、考えない日はなかった。実の父親に刺され広がっていく血だまりの中、病院で意識の果てにいたときも。彼は自分が、何かをどこかで間違えたのかもしれないと思っていたくらいだった。

 「…うん…っ」

 震えた声が、涙を含んで喉奥から絞り出される。
 琉夏の言葉は、不思議なくらいの説得力があった。楓はゆっくりとそれを心の中にしまって、大切に抱える。

 その瞬間だった。

 楓の身体を、琉夏ごと琥一が抱きしめた。
 大きな腕が、ふたりを丸ごと包むように回される。乱暴なくせに、妙にあたたかい。

 「……重い……」

 冗談みたいにぼやいた楓に、琥一はふっと笑った。

「いーから黙ってろ」

 楓は目を閉じた。
 琉夏の震える指先。
 琥一の体温。

 引っ越してきてよかった。あんな父親でよかった。
 すべては二人と出会うための布石ふせきだったのだと、楓は本気で思った。
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