YOUTH
2年目7月上旬 落ちる
主人公side
「ねえ、誕生日……今年、どっか行きたいとこある?」
帰り道、夕焼けに照らされた横顔をちらりと見ながら僕がそう訊ねたとき、琉夏君はしばらく黙っていた。
蝉の声が遠くで響いていて、まだ明るい空なのに、道の温度はすでに夜を孕んでいた。
歩幅は合っていた。
でも彼の心の中は、きっとずっと先の方を見ているようだった。
「……カッちゃんの家、行っていい?」
唐突に、そんなことを言った。
「……え?」
思わず立ち止まりかけて、僕は彼を見る。
けれど琉夏君は目を逸らすでもなく、むしろどこか困ったように笑っていた。
「ダメかな?…なんか、今年は…そうしたいって思った」
うまく言葉にできないことを、言葉にしようとしてくれているのがわかる声だった。
でもその声の端々には、熱を隠すみたいな照れと、戸惑いがにじんでいた。
胸の奥がきゅっと鳴る。
「うん、もちろん。来てよ。よかったら、泊まりで」
そう言ったとき、自分の声がほんの少しだけ高くなっていた気がして、なんとなく前を向いた。
夕陽がオレンジから青に変わっていく空の下で、僕らはただ、同じ方向に歩き続けた。
・
・
・
・
・
「おばあちゃん今夜は友達と温泉でお泊まりなんだって。だから、僕らの好きにしていい日だよ」
そう言って笑うと、琥一君は「おお、おじゃまします」と荷物を下ろし、琉夏君は何も言わずに数か月ぶりの空間をゆっくりと見渡していた。
リビングに通してすぐ、テーブルにはもう料理を並べてあった。
冷たいお蕎麦、南蛮漬け、だし巻き卵、煮浸し、ナスの揚げびたし、シーフードとアボカドのサラダボウル、唐揚げと、とうもろこしの炊き込みご飯。
誕生日だからといって豪華な料理にするより、好きなものをいくつも並べた方が喜ぶかなと思った。
「……お前、小料理屋かよ」
琥一君の声に笑いが漏れた。
琉夏君は、目元をすこしだけ緩めて「……唐揚げある」とぽつり。それだけの一言なのに、妙な喜びが伝わってくる。
「温かいのがいいよね? 食べよ」
食事中は、なんだかつもよりも静かだった。
「こいつぁうめえな」とか、「ご飯もっとあるか」とか、琥一君はまさにいつも通りだった。
でも時々目をやると、琉夏君はただ静かに箸を進めていて、何かを抱えているような表情をしていた。
食後、三人で冷たい麦茶を飲みながら床に寝転ぶ。琥一君はカ若干うとうとしている。
僕と琉夏君は、ぼーっとテレビに映る映画を眺めていた。
「……ありがと」
不意に、ぽろっと落としたような小さな声。
「うん?」
聞き返すけど、琉夏君は何も言わなかった。
でもその横顔はさっきより少し柔らかくて、頬の線がなめらかに見えた。
僕はそれ以上、何も言わなかった。
それから夜になるまで、僕は台所の片付けをしたり、明日の朝ごはんの仕込みをしていた。
ふと気づくと、琉夏君が僕の後ろに立っていた。
扇風機の風に前髪が揺れて、少し汗ばんだ額をしているのに、目だけはどこか乾いていた。
「…オマエに甘やかされるの、たぶん俺、けっこう好きなんだよ」
僕は手に持っていたお皿を置いて、振り返った。
「知ってるよ」
そう言って笑うと、琉夏君は目を伏せて、ほんの一拍置いてから僕の隣に立った。
彼はずっと何かを考えている。
今日だけじゃない。誕生日にどこに行きたいかと、僕が聞くずっと前から。
それこそ僕が、自分の家族の話をした時から。
彼はちょっと変だった。
今回、”何が欲しいか”ではなく、”どこに行きたいか”を聞いたのはそのせいだ。今の彼にはきっと、物よりも考えられる環境がいると思った。
「……あ」
不意に、思い出して声が出る。
布巾を投げるようにおいて、ばたばたと素足で廊下を駆けた。
少し息を切らしながら、すぐ戻ってくる。
「遅くなっちゃったけど、これ、琉夏君に。お誕生日おめでとう。」
そう言って僕が差し出したのは、バスケットに組まれた白い花束と、透明な箱に入った小さなイルカのミニチュアだった。
イルカは、ガラス細工とは思えないほど柔らかい曲線で、尾ひれが水を蹴って跳ねる瞬間のような動きが封じ込められている。
「琥一君と一緒に選んだんだ。けっこう迷ってね……こっちは、僕から」
そう言いながらバスケットの花を撫でた。
クチナシ、スノーボール、白いスプレーバラ。
緑の葉にふちどられたそれは、花束というより、そっと抱えたくなるような白い静けさを宿していた。
「──…クチナシ。」
受け取った琉夏君の目が、ほんのすこしだけ揺れた。
送られる花の意味を、彼が知らないわけがない。
花屋アンネリーで彼がどれだけ花に触れているか、僕は知っている。
「僕、本当に幸せだよ。だから誕生日のお祝いとして、君に日ごろの感謝を伝えようと思って」
頬に熱を帯びたまま、僕はそう言った。
琉夏君は唇をぎゅっと結ぶように、息をひとつ止めた。
それから、僕の顔を見る。
すっと手を上げて、僕の前髪に指先をかけた。
正面からまっすぐに見つめられるのは少し恥ずかしくて、でも目を逸らすこともできなかった。
彼の目の奥に、何かやわらかな光が宿っている気がした。
「……実はさ」
ぽつりと、ほどけるような低い声。
言葉の選び方を探すように一瞬だけ視線が揺れて、それでももう一度、僕の目を見て言った。
「……俺、こういうの、ほんとは苦手なんだ。改めて祝われるとどうしても、一緒に過ごした人たちのことを思い出すから。だから本当は、いつの間にか終わってるくらいがいい」
スッと足元が冷える感覚。
彼がずっと考えていたのはきっと、彼の家族に関する記憶なのかもしれなかった。
そしてそれはたぶん、琥一君と彼の家族の話ではない。
「そっか。ごめん僕気づかずに」
「…今までは、そうだったってだけ。」
笑った彼の唇はきゅっと結ばれ、少し紅くなっていて。耳にかけていた金髪がさらりとほどけて、目の半分をやさしく隠した。
「今日こうして祝われて。なんか不思議と、過去の思い出もあったかいモノに感じてきた。失ったものじゃなくて、今でも支えてくれるもの、みたいな」
琉夏君の頬がほのかに染まって。どこか不器用なその顔が、今まで見たことのない表情をしている。
そして次の瞬間、彼はふわりと笑った。
それは守るような笑顔でも、見透かすような笑顔でもなく。
どこか肩の力が抜けたような、素直で、ほどけた笑顔だった。
「ありがとう、
その言葉はまるで、夏の午後に射し込んだ光みたいに。僕の胸の奥に、じんわりと染み込んだ。
「あ、名前…」
「だめ?カッちゃんの方がいい?」
「うんん。カエデでいいよ」
「うん。ありがとう、カエデ」
琉夏君は淡く笑う。なんて綺麗なんだろうと僕は感極まってしまって。
喉が詰まって、唇を結んだ。
琉夏君はもう一度僕の髪を耳にかけてから、「はぁ」って柔らかく息を吐いた。
「ホント、なんでだろうな。オマエって不思議だ」
何も言えなくて、僕はただ小さく笑い返した。
ひとしずくの虹が、まだガラスのイルカの尾に揺れていた。
