YOUTH
2年目4月下旬 青の世界
主人公side
「お願いだから、離さないでくださ…」
「離さないって大丈夫。」
水深五メートルの、足のつかないプール。真上から光がさしている。
屋内温水プールに、僕らは来ていた。
「よし。もっかい潜るよ。せーの」
ぬるい水に沈むと、音が遠ざかる。耳に響くのは自分の鼓動と、肺に溜めた空気の泡がふっと浮かぶ音だけ。
先に潜っていた琉夏君が、目を見合わせてくる。金色の髪が水に揺れて、光のカーテンみたいに僕の頬に触れた。
彼の目元が「大丈夫?」って聞いてきている。問いかけに応えるように小さく頷くと、彼は満足げににっこり笑った。水中でも、そんな顔ができるのがすごい。
ざばっと浮き上がって息をする。
「よし、ちょっと浮きながら休憩ね」
ぐっと腰に、琉夏君の手が添えられる。
「力みすぎだ。もっと背反らせ」
背後から、琥一君の声が響いた。
水の中で僕の背中を直してくれる。ぬるい水の中でぶつかる体温が、思いのほか温かい。
「…なんで僕、…うまく浮けないんだろう」
「うーん、ね。浮く練習とかしたことないし俺もよくわかんないけど…いっそのこと、もっかい潜ってみる?疲れて脱力したほうが、浮けるかも」
琉夏君の言葉に、琥一君が「集中しろ」って僕の手を取った。
目を閉じて、再び潜る。
底へ向かって、ゆっくりと沈んでいく。手を引かれて、背中を支えられて、左右には琥一君と琉夏君。
不思議だった。怖いはずの水の中が、どうしてこんなに静かで、安心できるんだろう。頬を撫でる泡、すれ違う光の粒、ゆらゆらと揺れる水面の記憶。まるで、夢の中みたいだった。
瞬きをゆっくり一度だけすると、水の粒がまつ毛にひっかかって、すべるように流れた。
青い。
透明なブルーの世界に、二人の姿が浮かんでいる。
金色の髪がゆらめいて、黒い髪がそのそばで静かに揺れていた。どちらも、深い青の中に滲んでいた。
揺れる前髪の奥に覗く瞳。肌を滑る光が、輪郭を淡くなぞっている。
そこに、音はなかった。けれど、確かに何かが胸の奥で鳴っていた。
──ここ、どこだっけ。
一瞬。
自分の存在が水に溶けた気がして、肺が動いた。
「――!」
突然、喉が詰まる。ぐっと苦しくなって、肺の中の空気を「ごぼっ」と吐き出してしまった。
泡が一気に弾け、視界がぐらりと揺れる。
すぐさま琥一君の腕が僕の腹に回り、琉夏君が肩を抱いた。そのまま引き上げられる。水を裂くように、二人の力が僕を連れて水面へ浮かび上がる。
──光。
はじける水音と共に、顔が水上に出た。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
苦しくて、咳が止まらない。肺がきしむほど咳き込む僕の背中を、琥一君の大きな手が勢いよくさすった。
「バカエデ、ちゃんと集中しろって言ったろうが!」
低い声。怒っているというより、驚いたような──そんな声だった。
「びっくりした……カッちゃん、大丈夫?」
琉夏君が、僕の前髪をかき上げて額を覗き込みながら言った。心配そうな目が、かすかに揺れている。
「っ……ごめん」
ぜえぜえ言いながら、懸命に謝った。
喉の奥が熱い。鼻の奥も痛い。咳の余韻で目の端がじわりと滲む。
琥一君は無言のまま上がって、僕をプールサイドに引き上げた。タオルを引っ張り出して、がしがしと僕の顔を拭く。
「気をつけろ。溺れかけたぞ、お前」
俯きながらも「うん」と頷くと、琉夏君がそっと僕の肩を引き寄せた。
「……綺麗だったよ。すっごく」
「え?」
「でも、綺麗なまま溺れたらもったいないから。ちゃんと、息してて?」
それはまるで、冗談みたいな口ぶりだったけど──
耳元にかすかに落ちた声は、どこまでも本気の色をしていた。
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バスタオルで髪を拭いていたら、声をかけられた。
「ねぇ、君。さっき潜ってたよね?めっちゃ綺麗だった」
遊びにきた大学生だろうか。指輪の通ったチェーンを首にぶら下げて、笑っている。
「あ、はい。すみません、邪魔だったら……」
「え、違う違う。全然。むしろさ、泳ぎ始めたばっかり?それであれはすごいなって。フォームもきれいだったよ」
「そ、そうですか……?」
褒められる理由が分からない。さっきまで浮くのもやっとだったのに。褒められるような泳ぎ方はしていない。うまく笑い返せなくて、困ったように頬を掻いた。
そのとき。すぐ隣に、ぬっと影がかかった。
「のけ」
低く、静かな声だった。琥一君が、僕とその男子のあいだにすっと体を滑り込ませた。肩にかけたタオルから水がぽたぽたと垂れていて、目が据わっている。
「あ?ちょっと何、お前。俺は今この子と」
「見りゃ分かんだろ。こっちは三人で来てんだよ」
いつの間にか、もう片側に琉夏君も立っていた。全然怒った顔じゃない。むしろニコニコしてるのに、笑ってない。どこか抑えたような声で、聞いてくる。
「……カッちゃん、喉乾いてない?なんか買いに行こうか?」
「そうだね。」
差し出された手に気づくまで少しかかった。琉夏君の指先が、僕の濡れた前髪にそっと触れた。
「まだ濡れてる。風邪ひくよ?」
そのまま前髪をかき上げられて、おでこが露わになった瞬間。視線を感じた。
目の前の男の人が、言葉を失っている。琥一君は黙ったままその顔を一瞥してから、視線を落とすように僕の顔を見た。
「カッちゃん」
呼ばれて、ぱっと琉夏君のほうを向くと、なんでもないふうに小さく笑っていた。
「買いに行くんでしょ?早く」
「…うん」
頷いて、兄弟のあいだを歩く。背中にまだ視線を感じていたけれど、なぜか聞き返すのは気が引けた。
更衣室へ向かう途中、琉夏君がぽつんと言った。
「……ああいうの、カッちゃんは気づかなくていいんだよ」
ん? と振り返ると、すぐに「なんでもない」って言って笑う。
その横で琥一君が、タオルで僕の髪を雑にぐしゃぐしゃ拭きながら、小さく尋ねる。
「お前、あんま鏡とか見ねぇタイプか」
「え?なに?なんか変?」
「……だから、気づかなくていいって話だバカエデ」
「えぇ…横暴だよ二人とも…」
そんなことを言うくせに、二人ともほんの少しだけ、歩幅を速めて僕の前を歩いた。
誰の目にも触れないように、風よけみたいに。
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「ねぇコウ、見た?」
静かな琉夏の声が、波の音に混じって落ちる。
「──あぁ」
俺は目を閉じたまま、今日の光景を浮かべていた。練習中についたという、あざだらけのカッちゃんの身体。
「背中と腰の間に一か所、腿に一か所。あとは──」
「肩に一か所」
「あぁ」
あれは、切られた跡だった。みみずみたいに盛り上がった皮膚の跡。そんなに古い傷じゃない。
「妙に肝座ってるし、こないだのさ”アレ”も」
ヨタカドの奴らに対して、全く動じないあの態度。上級生の動きも、完全に読んでるみたいだった。
むしろ反応だけなら、俺や琉夏よりも早かったかもしれない。
「やり返すことはしないけど、慣れてる動きだよアレは」
「………チッ」
気づいてしまった違和感に、思わず舌打ちがもれた。
人畜無害みたいな顔をした楓は、しかしそれだけではない仕草を見せる。たまに垣間見せるその動きは、自分たちにはあまりにも身近すぎて。
「…問い詰めたら逃げられそうだしなあ」
「話さねぇんじゃね?現場おさえねぇと」
「うーん現場か。それはそれで嫌だな」
俺らはため息を吐いた。高校で新しくできた共通のダチは、思ったよりも癖があったらしい。
