セレフィナスの魔女 -それは、祈りを紡ぐ魔法-
人は食べたものでできている
裏庭の畑は、思ったよりもよく育っていた。気がつけばラセルは毎日のように水をやり、草を抜き、実の膨らみに目を留めていた。
土に触れていると、不思議と頭が静かになる。何かを考えているようで、何も考えていない。そんな時間だった。
この日も、小さなカゴに収穫したばかりの野菜を抱えて、ラセルはテラスに戻ってきた。
セレフィナスの魔女は椅子に座り、陽の光の下で静かに本を読んでいた。
「意外といないもんだね。死にたがる人。」
ぽつりと呟いた言葉に、彼女はページから目を離し、ラセルを見る。
「死にたがる人は山ほどいる。だが、死が救いだと想い終幕を欲するだけの覚悟を決める人間は、実際のところあまりいない。」
カゴの中の野菜を見つめながら、ラセルは口を閉じる。彼女は続けた。
「逃げ場もなく、がんじがらめになるか、絶望し疲労した人間が、死にたがることの方が多いのさ」
言葉は静かだった。優しさとも、断定ともつかない。ただ、事実だけを差し出されたような響きだった。
「……おいしそうだな。」
話題を変えるように、セレフィナスの魔女はカゴの中をのぞき込んだ。
赤いトマト、小さなナス、歪なきゅうり。どれも形は悪いが、生命力に満ちていた。
「……なにか、作ろうか?」
「君は料理ができるのか?」
彼女が軽く笑う。ラセルは、正直に答える。
「いや。全然」
「ふふ。私に任せろ。一緒にやろう」
セレフィナスの魔女は立ち上がり、二人は調理場へ向かった。
エプロンを手に取る。それを手渡されて、ラセルは少しだけ戸惑いながら受け取った。
慣れない手つきで野菜を切る音。ぐつぐつと煮える鍋。スープの香りが、部屋を満たしていく。
「これ、入れていい?」
「それはまだ早い。火が通ってからだ。焦がすなよ、ラセル」
「言われなくても…」
そんなやりとりが、妙に心地よかった。
料理というより、手を動かすこと自体が初めての“誰かとの共同作業”だった。
「いただきます」
ラセルの声は、少しだけ緊張していた。けれど口に入れた瞬間、ふっと肩の力が抜ける。
「……んまっ」
その言葉は、噛みしめるように出た。
「誰かとご飯を食べるのは、初めてだよ。」
魔女は少し目を見開いたあと、微笑んだ。
「そうか。私もだ。いいものだな。」
「うん……」
一緒に作った、という事実。同じものを、同じ場所で食べているという、ただそれだけのこと。それなのに、ラセルの胸は、妙にくすぐったくて落ち着かなかった。でも、それを嫌だと思わなかった。
「人は食べたものでできるんだ。自分で作ったものを食べるのは、うまいだろう。ラセル」
「……うん」
ほんの少し間を置いて、返事をする。たったそれだけの会話が、なぜか大切に思えた。スプーンの音。食器のぶつかる軽い響き。静かな時間の中で、ラセルはふと顔をあげる。
「また、野菜が採れたら……一緒に料理しない?」
「いいぞ。色々教えてやろう」
セレフィナスの魔女はあっさりと頷いて、ラセルの皿におかわりをよそった。たったそれだけのやりとりが、なぜか、ラセルの心の奥で静かに灯っていた。
食事のあと、食卓に漂っていた温もりはそのままに、静かな片付けが始まっていた。
セレフィナスの魔女は流しの前に立ち、魔法で水を操って皿を洗っている。泡は淡く光を帯びて、まるで水精の戯れのようだった。
ラセルはテーブルを拭いていた。つややかな木目に布巾を滑らせながら、時折、彼女の背中に目をやる。ふたりとも言葉は交わさないが、それは心地のいい沈黙だった。
セレフィナスの魔女が最後の皿を魔法で乾かし、ふわりと宙に浮かせて棚に戻そうとした、そのとき。
ぱりん。
音は小さかったが、妙に鋭く響いた。何かが砕けた音だった。
振り返ると、魔女の指先に砕けた皿の破片。指先から、赤いものがつっと垂れた。
「おや。……調節を誤ったか」
セレフィナスの魔女は、破片の残った手を軽く握る。そこから、さらに血が滲む。まるで自分のことではないような口ぶりだった。
「ちょっ……!」
ラセルが咄嗟に駆け寄り、手近のタオルを掴んで彼女の手に押し当てた。
「大丈夫!?」
顔が近い。声がうわずっている。
魔女は少しだけ目を見開き、ラセルの慌てる様子をじっと見つめる。それはこれまで彼女が見てきたどんな表情とも違っていた。
「大したことはない。かすり傷だ。」
そう言ったセレフィナスの魔女の声は、相変わらず穏やかだった。けれど、その眼差しには別の色が混じっていた。
まるで、自分にそこまで心を砕く人間がいたことを、不思議に思っているような。
あるいは──少しだけ、嬉しそうなような。
「かすり傷じゃない。ほらタオルが濡れてくじゃん。これだけ出てて、薬じゃ無理だよ。」
ラセルは苛立ち混じりにそう言って、タオルを握る手に力をこめた。セレフィナスの魔女はそれに抗うことなく、ただ静かに立っていた。
「……ふむ。これは予想外だな。」
その言葉に、ラセルはむっとした顔をする。
「何?」
「君がそんな顔をするなんて。君は他人にとことん興味ないからな。」
「あんたにだけは言われたくないんだけど…」
彼女は掴まれた手をそのままに、「そこに青い缶があるんだ。取ってくれるか」と棚を顎で示した。
ラセルはすぐに取り出し、蓋を開ける。緑色のクリームが入っていた。その間にもセレフィナスの魔女は、水で傷口を洗っていた。
「では薬を塗ってくれ。」
「塗るから早く手貸して。」
タオルの端で血を拭いながら、ラセルがぼやいた。彼の指先が、開いた皮膚の上をクリームと共に滑る。
ひと塗りしただけで、薄い皮がその下から作られるのを見て「なんでもありだね」と呆れたように言った。
「こんな薬作れる魔女が、魔法の調整間違えて怪我するなんて……まったく、何やってんだか」
「君もね」
「僕は拭いてただけだし!」
セレフィナスの魔女の肩が少し震える。心底楽しそうに、笑っていた。
淡い明かりが照らすキッチンには、皿の破片の残る床と、血に染まった布と、二人の距離だけが、変にくっきりと際立っていた。