セレフィナスの魔女 -それは、祈りを紡ぐ魔法-
まるで、お守りのような
書斎の扉は重く、閉ざされていた時間の分だけ、埃の匂いが染みついていた。
「書斎の片づけを、手伝ってくれないか」とセレフィナスの魔女は言った。
ラセルは少し驚いた顔をした。彼女が過去を整えるようなことを言うのは、初めてだったから。
「思い出すために?」と彼は訊いた。セレフィナスの魔女は小さく首を横に振った。
「違う。ただ、消える前の生前整理というやつだ。」
ラセルは返事をせず、黙って袖をまくった。手を貸すことに理由なんて要らない。
机の上には、手書きの紙片が山のように積み重なっていた。開きっぱなしの古書、割れたインク瓶、色褪せた植物標本。どれも、何かを研究し、記録し、意味を持たせようとした痕跡だった。
「……こんなにいっぱいあるんだね、魔女の“日常”ってやつ」
ラセルが、埃を払いながら呟いた。セレフィナスの魔女は苦笑する。
「私には、非日常しかないと思ってでもいたのか?」
「少しだけ。……でも、こういうの見ると、あんたも時間を繋ぎ止めようとしてたんだなって、思う。」
彼女は返事をしなかった。ただ一枚の羊皮紙を手にとって、それをじっと見つめた。そこに記されていた数式も文字も、今の彼女には意味を持たなかった。
「ラセル」
「ん?」
「君はどうして死について考え始めた。」
突然の問いに、彼は手を止めた。少し間を置いてから、低く答える。
「覚えていないけど、自分がまだ生きていることに疑念が生まれたからだったと思う。」
「そうか。それ以来ずっと死ぬことについて考えているのか?」
「まあ。そのうち普通に生きることもできなっちゃって、誰かの尺度で生きたくなくても、その尺度で生きずにいられない自分が嫌いになっちゃった。自分が疲れちゃう要因も、それだって頭ではわかってるのにね。」
「生きにくい世界なんだな、君にとっては。」
「そうだね。僕にとっては。死ぬことって、救いってより逃げ道だよ。でも最後の希望って感じじゃなくて、常にそこにある。」
「…お守りみたいに?」
彼は少しだけ目を見開いた。
「お守りみたいに。苦しいとき、死があるって思えば、なんとかやり過ごせる。逃げ道でも、約束でも、何者でもいい。とにかく、“終わりがある”ってだけで、呼吸ができる。」
セレフィナスは、しばらくその言葉を抱えるように沈黙した。それから、ゆっくりと呟く。
「君にとって、死は優しいんだな。」
ラセルは首を振った。
「優しいんじゃないよ。必要だった。ただの、形見みたいなものさ。たとえば“昔の自分”を捨てないために着てた古い服みたいに。」
彼女はふ、と笑った。
「私にとっての死は、ただそこにあるだけ。目を閉じるように、呼吸を止めるように、自然なもの。だからそれについて特別な感情をもつこともない。もちろん幸福なまま終われるに越したことはないがな。」
「…幸福なまま、かぁ。」
「あぁ。死は平等に、誰にとってもそうあってほしいと思っている。だから私は、セレフィナスの魔女なんだ。平穏な終幕をもたらす魔女という意味だ。もうすでに、名前の分の責任は果たしたと言ってもいい。」
ラセルはそれを聞いて、どこか寂しそうに笑った。
「じゃあ、あんたの“死”には、未練がないんだ。」
「何ひとつ。」
その潔さが、彼にはどこか眩しかった。
自分が長い時間抱えていた“死”のイメージは、重たくて、暗くて、でも温もりを感じるものだった。
だが彼女のそれは、ひどく自然で、何も纏っていなかった。
そして、それを知ったとき――自分がようやく、長年握りしめていたお守りを、そっと手放せる気がした。
「変な話だよね」とラセルは笑う。
「死に惹かれてた僕が、あんたに“生きる”ってどういうことか、ちょっとだけ教えられてる気がする。」
セレフィナスの魔女は、山のようにあった紙を整え終わり、書斎の奥を見つめた。
「ふふ。私が教えてあげられるのは、終わりだけだよ。それは君が自分で見つけたんだ。」
ラセルは曖昧に微笑んだ。ともすれば手元の精密な筆記具を落としそうになった。
彼女の魔法は、確かに“終わり”のためだけにある。しかし彼女が彼にしていることは、終わりのための導きではない。魔女は、“命を選ばせる為”に、ラセルに手を差し伸ばした。
生きたいよ、僕は。
あんたと一緒に。
言葉にできない想いが、喉までこみ上げる。
しかし寸でのところで、口を閉じた。
彼女を止めるだけの自信が、自分にはないことを知っていた。そして死ぬことを止められることが、どれほどの侮辱かも。
「…そういえば、少し前にあんたが、自分自身に渡してくれって書いた手紙を預かってる。」
「ん?見せてくれ。」
手紙を受け取って魔女は、黙ったままそれを眺めた。
「なんて書いてあったの?」
「…どうやら私は、結構君に愛着があったようだ。最後の魔力は、君のために使ってやれと書いてある。」
「え…」
「君を送って私も消えるだなんて、随分と気に入られていたようだな?」
自分のことなのに、まるで他人の話をしているような口ぶりだ。
「そんなことは…一言も…」
引っ込めたはずの言葉が、簡単にこぼれそうになった。ラセルはこぶしを握り、俯いた。「あのさ」と固まった声色が彼の口から洩れる。
「あんたの魔法って、自分自身にも使えたりするの?」
「ん…まぁ…そうだな。自分にも使えるだろう。」
「じゃあさ、最期の魔法は僕じゃなくて、あんた自身に使ってよ。これまで人を幸福の中に送ってきたんだし、あんただって最期くらい、普通じゃない、幸福の癒しの中で眠ったら?」
「君は?」
「僕は…どうにでもなる。」
「ふむ」と魔女は考えるように手紙を閉じた。ぱさ、と手紙をテーブルの上に置き、長い髪を後ろでくくり上げる。
「ではそうしよう。今夜、やってしまおうか。」
「…わかった。」
魔女の大きなピアスが、シャランと鳴った。